48 王城での日々
婚礼まで、あと一年。
その言葉は、誰の口から聞いても祝福の響きを持っていた。
◇
朝の王城は忙しい。
侍女たちが行き交い、布の擦れる音と書類を運ぶ足音が混ざる。
私の部屋にも、以前より人の出入りが増えた。
「こちらは婚礼用の刺繍案でございます」
「こちらは王太子妃としての席次の確認を」
差し出される紙。
広げられる布。
決めるべきことは多い。
私は、それらを一つひとつ確認し、頷き、時に修正を入れた。
戸惑いはなかった。
逃げたいとも思わなかった。
これは、私が選ばれた役割だ。
そう思えば、自然に身体が動いた。
◇
アンリ殿下と過ごす時間も、以前と変わらない。
書庫で本を読む。
庭園を歩く。
短い会話を交わす。
「この色はどう思う?」
「落ち着いていて、君に似合う」
「では、こちらにします」
彼は、必ず私の意見を聞く。
そして、否定しない。
それが、誠実さだと私は思っていた。
けれど、時々思う。
――彼は、何を考えているのだろう。
聞けば答えてくれる。
聞かなければ、語らない。
その姿勢が、今は少しだけ遠く感じられた。
◇
ある日、婚礼の話がひと段落したあと、私は尋ねた。
「殿下は……この先のことを、どうお考えですか」
抽象的な問いだった。
未来。
王位。
夫婦としての在り方。
何を指しているのか、自分でもはっきりしていなかった。
アンリ殿下は、少し考えてから答えた。
「国を安定させたい」
即答だった。
「混乱のない王位継承を」
「争いの起きない王城を」
どれも、正しい言葉だった。
「……私のことは?」
問い返した瞬間、私は自分に驚いた。
責めるつもりはなかった。
答えを迫るつもりもなかった。
ただ、確認したかっただけだ。
アンリ殿下は、少しだけ間を置いた。
「君は、その中心にいる」
それは事実だった。
でも、欲しい答えではなかった。
私はそれ以上、聞かなかった。
聞かないことが、賢明だと知っていたからだ。
◇
王城では、私を「未来の王太子妃」として扱う声が増えた。
「殿下は本当に良い婚約者を得られました」
「国も安泰ですな」
誰も、悪意を持ってはいない。
誰も、私個人を見ていないわけでもない。
それでも、私は少しずつ「象徴」になっていった。
個人ではなく。
役割として。
それを不快だとは思わなかった。
思わなかったはずなのに。
夜、一人で部屋に戻ると、妙に静かだった。
誰にも見られていない時間。
何も求められない時間。
私は、ふと鏡を見る。
整えられた髪。
選ばれた衣装。
完成されていく姿。
「……大丈夫」
そう呟く。
それは、自分に向けた言葉だった。
◇
エレーヌからの手紙は、相変わらず短かった。
――お身体に気をつけて。
――忙しいでしょうから、無理はなさらないで。
優しい言葉。
正しい距離。
私は、それに返事を書いた。
同じくらいの分量で。
同じくらいの温度で。
かつてのように、行間を埋めることはなかった。
それが「大人になる」ということなのだと、思うことにした。
◇
婚礼まで、あと一年。
誰もがそう言い、誰もが微笑む。
私は、その中心に立っていた。
守られている。
選ばれている。
疑う理由はない。
それでも。
ふとした瞬間、胸の奥に小さな影が差す。
理由は分からない。
分かろうともしていない。
私はただ、前を向いて歩いた。
この道が正しいと、疑わないために。
それが私の日常だった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




