47 遠ざかる声
それに気づいたのは、誰かに言われたからではなかった。
気づいた、というより――
いつの間にか、そうなっていた。
◇
最後にエレーヌと顔を合わせたのは、いつだっただろう。
そう思って、私は歩きながらほんの少しだけ考え込んだ。
王城の回廊は長く、天井が高く、足音がよく響く。
春だった気がする。
庭園で、白い花が咲いていて。
彼女は淡い色のドレスを着ていて、陽射しを避けるように少しだけ目を細めて笑っていた。
――そこまでは、確かだ。
けれど、それ以上のことが思い出せない。
何を話したのか。
どんな声で笑ったのか。
不思議だった。
忘れようとした覚えはないのに、輪郭だけが薄れている。
「最近、お忙しいのですね」
そう書いた手紙を送ったのは、確か夏の初めだった。
返事はすぐに届いた。
――えぇ、少し立て込んでいて。
――でも、あなたのことはいつも気にかけています。
丁寧な文。
読み慣れた筆跡。
行間も、癖も、昔と変わらない。
だから私は、それ以上考えなかった。
考える理由が、なかった。
◇
王城での生活は、相変わらず穏やかだ。
儀礼。
会食。
視察。
日々は忙しいが、乱れてはいない。
予定はきっちりと組まれ、無駄な隙間はない。
アンリ殿下は、いつも通りだった。
「今日は疲れている?」
「少しだけ」
「無理はしないで」
それ以上、聞かない。
理由を探らない。
感情に名前をつけさせない。
彼は、私に判断を委ねる。
私はその距離に、もう慣れていた。
むしろ、安心していた。
踏み込まれないことが、信頼の証のように思えたからだ。
◇
ある日、ふとした拍子に、エレーヌの名を口にした。
「最近、エレーヌに会っていませんの」
独り言のような言葉だった。
深い意味はない。
本当に、ただの気づきだった。
アンリ殿下は、一瞬だけ視線を止めた。
ほんの一瞬。
気づかなければ見逃してしまうほどの、短い間。
「……そうなんだね」
それだけだった。
否定も、肯定もない。
話題を広げるでもなく、掘り下げるでもない。
私は、その沈黙を自然なものとして受け取った。
受け取ってしまった。
けれど、歩き出してから、ふと首を傾げる。
――以前なら。
以前の彼なら「どうして?」「何かあった?」そう聞いてきたはずだ。
その違いに、名前をつけるほど私は敏感ではなかった。
だから、続けなかった。
続ける理由が、見つからなかった。
◇
その夜、私は久しぶりにエレーヌへ手紙を書いた。
机に向かい、ペンを取る。
一行目を書いて、止まる。
――今日はね。
そこで、書き直す。
――庭の木が少し伸びました。
違う。
それも消す。
何度か書いて、何度か消して、
結局残ったのは、どうでもいいことばかりだった。
庭の木が少し伸びたこと。
王城の菓子職人が新しい焼き菓子を作ったこと。
季節が変わり始めたこと。
そこには、迷いも、不安も、期待も書かなかった。
書かなかったというより、
書かない方が正しい気がした。
――元気でいますか。
最後にそう添えて、封をする。
それで十分だと思った。
返事は、数日後に届いた。
――元気よ。
――あなたこそ、忙しいでしょう。
短い文。
丁寧な言葉。
けれど、そこにはもう、かつての軽やかな調子はなかった。
駆け寄ってくる声が、ない。
言葉の向こうに、間がない。
私は、それを責めなかった。
当然だ。
私たちは、もう子どもではない。
立場が変われば、距離も変わる。
それは、自然なことだ。
それでも、ふとした瞬間に思う。
以前なら、こういう時、真っ先にエレーヌに話していたはずだと。
嬉しいことも。
迷うことも。
言葉にするほどでもない、小さな違和感も。
今は、まず整理してからでないと書けない。
整理しないと、何を書いていいのか分からない。
その事実に気づいた時、
胸の奥に、ほんのわずかな空白が生まれた。
寂しさ、と呼ぶほどのものではない。
不安、と言うには浅すぎる。
だから私は、その感情をそのままにしておいた。
◇
窓の外で、鐘が鳴る。
私は手紙を机の引き出しにしまい、立ち上がった。
明日はまた、予定が詰まっている。
考える余白はない。
――大丈夫。
私は、ちゃんと前に進んでいる。
そう思うことに、特別な努力はいらなかった。
ただ一つだけ。
エレーヌの声を意識的に思い出そうとしない自分がいることに気づいて。
私はその事実に、そっと蓋をした。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




