44 王太子アンリ
王城へ向かう馬車の中は、驚くほど静かだった。
揺れは少なく、車輪の音も柔らかい。
御者が選んだ道も、速度も、すべてが「丁寧」だった。
私は背筋を伸ばして座り、窓の外を見ていた。
石畳。
城壁。
遠くに見える尖塔。
どれも物語の挿絵みたいに整っている。
「緊張しているかい」
向かいに座る父が、穏やかに声をかけた。
「えぇ、お父様」
正直に答えると、父は小さく笑った。
「それでいい。緊張しないより、ずっといい」
母は私の手にそっと自分の手を重ねる。
何も言わない。
でも、それで十分だった。
私は一人ではない。
その事実が、馬車の揺れよりも確かだった。
◇
王城は、思っていたよりも白かった。
威圧感より、清潔さが先に来る。
冷たい石のはずなのに、どこか温度がある。
案内されるまま進み、扉の前で立ち止まる。
「お入りください」
声に促され、父と母に続いて部屋へ入る。
そこに立っていたのが――
王太子アンリ殿下だった。
赤い髪、赤い目。
王家の色。
けれど、強すぎる赤ではない。
光を含んだ、落ち着いた色だった。
年は、私より少し上。
まだ青年と呼ぶには若く、でも子どもではない。
彼は私たちを見ると、一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして。アンリです」
名前だけ。
肩書きを付けない。
とても美しい彫刻のように整った顔で微笑まれて、私は一瞬だけ意表を突かれた。
「ヴィーラ・ド・ラ・リュミエールです」
教えられた通りに礼をする。
彼は、私をじっと見た。
値踏みする視線ではない。
でも、軽くもない。
まるで――
「大事なものを預かる」前の確認みたいな目だった。
「……噂以上に美しい御令嬢だ」
彼はそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「緊張させてしまったかな」
「いいえ」
私は首を振る。
「まだ、実感がないだけです」
それは嘘ではなかった。
彼は、その答えを面白がるように目を細めた。
「正直だね」
その言葉に、なぜか安心してしまった。
◇
形式的な会話が続く。
好きな書物。
得意なこと。
城での暮らし。
アンリ殿下は、必要以上に踏み込まなかった。
質問は多くない。
でも、聞いたことは覚えている。
それが、分かった。
「急にすべてを変えるつもりはない」
彼は言った。
「君の家も、君の時間も」
それは、約束の形をした言葉だった。
私は、頷いた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
彼はそう言ってから、少し間を置いた。
「婚約者になる相手を不幸にするつもりはないからね」
淡々とした言い方だった。
甘さはない。
でも、誠実さはあった。
私は、その誠実さを疑わなかった。
◇
帰りの馬車で、私は窓の外を見ながら考えていた。
怖くなかった。
不安も、なかった。
むしろ、納得していた。
この人なら。
この国なら。
私は、役割を果たせる。
「どうだった?」
兄が、家に戻るなり聞いてきた。
「……思っていたより、普通でした」
「普通、ね」
兄は鼻で笑う。
「それが一番怖いって知ってるか?」
「知りません」
「そうだろうな」
でも、その声には棘がなかった。
◇
その夜、私は一人で日記を開いた。
まだ、何も書かれていない頁。
少し考えてから、こう記した。
――王太子殿下は、優しい人だった。
それだけ。
不安も、恐れも、予感も書かなかった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




