43 愛された貴族の娘
私が、自分の暮らしを「幸せ」と呼ぶ言葉を知らなかったのは、
それがあまりにも当たり前だったからだと思う。
◇
『お嬢様、ヴィーラお嬢様。朝でございます』
扉の向こうから控えめな声がする。
その声は、毎朝同じ高さで、同じ速さで、同じ温度だった。
「起きていますわ」
返事をすると、扉が静かに開く。
カーテンが引かれ、朝の光が部屋に満ちる。
白い壁。
淡い色の絨毯。
花瓶に活けられた、昨日とは違う花。
今日も、何ひとつ欠けていない。
私は寝台から起き上がり、差し出された水で顔を洗う。
冷たすぎず、ぬるすぎず。
こういうところに使用人たちの気遣いがあるのだと、私は知っていた。
『本日は王城からのお使いが来る予定でございます』
「えぇ、聞いています」
声は自然に出た。
驚きも、不安もない。
私はこの家の娘で、この家の名前を持ち、この家の未来の中にいる。
それを疑う理由が、どこにもなかった。
◇
食堂では、すでに家族が揃っていた。
「おはよう、ヴィーラ」
父が微笑む。
柔らかい声だ。
政務の場では厳しい人だと知っているけれど、家ではいつもこの声だった。
「おはようございます、お父様」
「昨夜はよく眠れたかい」
「えぇ」
嘘ではない。
私は毎晩、安心して眠っていた。
「おはよう」
兄が片手を上げる。
少しだけ寝癖がついている。
「お兄様、お行儀が悪いですわ」
「家だからいいだろ」
「よくありません」
そう言うと、兄は肩をすくめて笑った。
それが、私の日常だった。
「今日、城から正式な話がある」
父が言った。
その一言で、胸の奥が小さく鳴る。
期待だ。
不安ではない。
「……はい」
母が私を見る。
静かで優しい目だ。
「緊張してる?」
「少しだけ」
正直に答えると、母は微笑んだ。
「大丈夫。あなたは、選ばれる理由を持っている」
その言葉を私は疑わなかった。
疑うという発想がそもそもなかった。
◇
昼過ぎ、応接室に王城の使者が訪れた。
形式的な挨拶。
儀礼的な言葉。
その一つひとつが、穏やかに積み重なっていく。
『王太子殿下の婚約者として、ヴィーラ・ド・ラ・リュミエール嬢をお迎えしたい』
その言葉を聞いた瞬間、世界が少しだけ遠くなる。
驚きはあった。
でも、恐怖はなかった。
父が私を見る。
母が頷く。
兄が、少しだけ真面目な顔をする。
私は立ち上がり、教えられた通りに礼をした。
「謹んで、お受けいたします」
声は震えていなかった。
◇
「ヴィーラ!」
応接室を出た途端、声が弾んだ。
振り向くと桃色の髪をした少女が駆け寄ってくる。
エレーヌ・ド・ラ・フォワ、私の親友だ。
彼女は髪が揺れて息が少し上がっていた。
「聞いたわ!」
「早いですわね」
「だって城中の噂よ!」
彼女は私の手を取る。
「おめでとう!」
その笑顔は、心からのものに見えた。
私は、それを疑わなかった。
「ありがとう、エレーヌ」
「王太子殿下の婚約者なんて……すごいわ」
「まだ実感がありませんの」
「分かるわ。でもね」
彼女は声を落として、囁く。
「あなたなら、きっと大丈夫」
その言葉が、胸に温かく落ちた。
私は、愛されていた。
家族に。
友に。
この世界に。
◇
その夜、部屋に戻って一人になった。
窓の外には、穏やかな夜。
遠くで鐘が鳴る。
私は、指先を胸に当てた。
少しだけ、鼓動が速い。
でも、それは怖さじゃない。
未来が動き出した感覚だった。
「……大丈夫」
誰に言うでもなく、そう呟く。
私は守られている。
私は選ばれている。
私は愛されている。
それを疑う理由は、どこにもなかった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




