41 髪を結ぶ理由
朝の光は柔らかい。
石壁に反射して、角を落とし、妖精の羽に絡まって、静かに広がる。
人の街の朝よりも、ずっと遅く、ずっと慎重だ。
ヴィーラはその光の中で、櫛を手にしていた。
背中に流れる濃紺の髪。
癖も少なく、指に素直な髪だ。
それでも、触れるたびに少しだけ緊張する。
――彼の髪に、触れる。
それはもう、特別な行為になってしまっている。
「……じっとして」
声に出すと、思ったより落ち着いていた。
「してる」
ルイは椅子に座ったまま、短く答える。
姿勢は素直だが、肩は少しだけ固い。
昔なら、誰かに背後を取られる状況は耐えられなかったはずだ。
それを思うと、今のこの距離は、それだけで積み重ねだと分かる。
ヴィーラは櫛を入れ、ゆっくりと髪を梳く。
ルイがここに来てから随分と伸びたものだ。
引っかからない。
それが、少し嬉しい。
「王都へ行く準備ですわ」
「分かってる」
ルイは前を見たまま言う。
「覚悟、できてる顔です」
「……そう見える?」
「えぇ。逃げる前の顔ではありません」
逃げる前の顔。
言葉にすると、彼の肩がわずかに緩んだ。
「それなら、いい」
ルイはそう言って、少し息を吐く。
ヴィーラは、髪をひとつにまとめ始めた。
今日は編まない。
きつくも結ばない。
戻れるように。
ほどけるように。
「ルイ」
「ん?」
「王都で、何を見るつもりですの」
櫛を動かしながら、静かに問う。
責めではない。
確認でもない。
隣に立つための問いだ。
ルイは少し黙った。
沈黙は長くない。
選んでいる時間だ。
「……あの国を」
低い声。
「正確には、“あの時の続きを生きてる場所”を」
ヴィーラの指が、一瞬だけ止まる。
すぐに、何事もなかったように動かす。
「怖いですか」
「怖い」
即答だった。
「でも、行かない方がもっと怖い」
それは逃げ癖の言葉じゃない。
向き合う者の言葉だ。
「壊れそうになったら」
ヴィーラは言う。
「止めますわ」
ルイが、少しだけ笑う。
「それ、約束だったな」
「えぇ」
髪を束ね、紐を取る。
飾りのない、実用的なもの。
「でも」
ヴィーラは続ける。
「止めるために一緒に行くのではありません」
ルイの視線が、ほんのわずかに上がる。
「見届けるためです」
「……何を?」
「あなたが、あなたであり続けるところを」
結び目を作り、指で確かめる。
きつすぎない。
緩すぎない。
逃げても、追える。
残っても、触れられる。
その距離。
「ヴィーラ」
ルイの声は、さっきより少し低い。
「俺が……もし」
言葉が止まる。
ヴィーラは、続きを急かさない。
櫛を置き、両手で結び目を押さえたまま、待つ。
「もし、あの場所で」
ルイは言う。
「どうしようもなく、憎くなったら」
ヴィーラは、結び目から手を離し、彼の肩に軽く触れた。
「それでも、戻ります」
断定だ。
希望じゃない。
「戻ってきてください」
言い直す。
「私の巣へ」
ルイは、ゆっくり頷いた。
「……戻る」
短い言葉。
けれど、重い。
ヴィーラは彼の前に回り込み、真正面に立つ。
視線が合う。
近い。
触れられる距離。
だが、触れない。
「では、行きましょう」
「どこへ?」
「決まっています」
ヴィーラは、わずかに微笑んだ。
「あなたの過去と、私たちのこれからが交わる場所へ」
ルイは、その言葉を受け取ってから、静かに立ち上がった。
「……一緒に?」
「えぇ」
「最後まで?」
「最後まで」
それ以上、言葉はいらなかった。
窓の外では、妖精が一斉に飛び立つ。
山の向こう、王都の方角に、薄く雲がかかっている。
祝祭の雲だ。
ヴィーラは、もう一度だけ、ルイの髪に視線を落とした。
結んだのは、所有のためじゃない。
縛るためでもない。
――戻る場所を、忘れないため。
それが、彼女が髪を結ぶ理由だった。
そしてその理由を、彼女はもう、誤魔化さない。
竜としてではなく。
恋人として。
王都へ向かう朝は、まだ静かだった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




