40.5閑話 お母様はお見通し
その日、ヴィーラは裏庭の縁に立っていた。
風が軽い。
妖精の光が、昼の光に溶けて目立たない。
なのに、落ち着かなかった。
自分の指先が、何かの余韻を覚えている。
袖口に触れた熱。
額が触れた温度。
恋人という言葉が、あまりに自然に落ちた夜。
竜なのに。
竜だから、なのか。
ヴィーラは無意識に首筋へ指を当てて、すぐ離した。
幼い頃からの癖なのか、落ち着かないとつい首筋を触ってしまう。
「ぼーっとしてる」
背後から、澄んだ声。
振り向く前に分かってしまう。
家の中心にいる声。
世界最強竜の、気まぐれみたいに軽い声。
「お母様」
アルシェが、芝の上に腰を下ろしていた。
白銀の髪が陽に透けて、金の瞳が笑っている。
笑っているくせに、何も見逃さない目だ。
「ルイが好きなんでしょう?」
ヴィーラは、その場で固まった。
――早い。
早すぎる。
「なぜわかるのですか?! お母様!」
声が、思ったより高く出た。
アルシェは楽しそうに肩を揺らす。
「ほら。そういうとこ」
「……どういうところですの」
ヴィーラは真顔で返したつもりだったが、たぶん失敗している。
耳が熱い。
アルシェは指を一本立てた。
「その一。目がルイを追ってる。監視みたいに」
「監視ではありません」
「そういう言い訳をするところが、もうそれ」
指が二本になる。
「その二。歩き方が変わった。昔は“音を立てない歩き方”をしてたのに、最近は“相手に聞こえる歩き方”をしてる」
ヴィーラは言葉を失った。
自分では気づいていなかった。
アルシェは三本目の指を立てる。
「その三。髪を気にするようになった」
「髪は……彼の方が長いですわ」
「だから気にしてるんだよ。自分のじゃなくて“彼の髪”を」
ヴィーラは息を飲む。
アルシェが、さらりと言う。
「ねぇ、ヴィーラ。竜の“好き”ってさ」
笑いながらも、声は少しだけ落ち着いた。
「増やすんだよね。相手の生活を。相手の世界を」
ヴィーラは唇を引き結ぶ。
「……竜は、所有しません」
「うん、そうね」
アルシェは頷いた。
「奪わない、縛らない、選ばせる。うちの家訓みたいになってるやつ」
言い方が軽いのに、目が軽くない。
「でもさ」
アルシェはヴィーラを見上げた。
「所有しないって“欲しくない”って意味じゃないでしょ」
胸の奥が、きしんだ。
欲しい。
それは認めた瞬間に形が決まる。
ヴィーラは口を開き、閉じる。
言葉が遅れるのは珍しい。
アルシェは意地悪く笑って、でも優しく続けた。
「ルイ、昨日来たよね。夜に」
ヴィーラの背筋がぴんと伸びた。
「……見ていましたの?」
「見ないよ。私の趣味は悪くないから」
即答で否定したあと、肩をすくめる。
「でも、屋敷の空気が変わるのは分かる。妖精たちもそわそわしてた」
ヴィーラは手を握りしめた。
「……告白されました」
言ってしまった。
言ってしまうと、世界が少しだけ確定する。
アルシェの目が細くなる。
「返事は?」
「……拒んでいません」
「うんうん」
母は満足げに頷いた。
アルシェは立ち上がり、ヴィーラの前に立つ。
そして不意に、頭をぽん、と撫でた。
「うん。いい子」
ヴィーラの目が丸くなる。
「お、お母様。撫でるのは……」
「やだ。かわいい」
「かわいくありません」
「かわいい」
押し問答みたいに二度言ったあと、アルシェはにやりと笑う。
「……ま、恋ってやつはさ。怖いよね」
その一言が意外だった。
世界最強竜の口から「怖い」が出る。
ヴィーラが黙っていると、アルシェは肩をすくめた。
「怖いから、ちゃんと大事にできる。怖くないなら雑に扱えるからね」
ヴィーラは、ゆっくり息を吐いた。
「……ルイが戻ってくる場所を、私にしてほしいと言われました」
「うんうん。最高」
アルシェは満面の笑みだ。
ヴィーラは知っている。
竜なのに人間に恋をすることをアルシェは止めないことを。
だって、人間だった父を竜にしてまで番に選んだのは、アルシェ自身だ。
「で、あなたは?」
「……拒みませんでした」
「そう」
アルシェの声が、ほんの少しだけ落ちる。
「じゃあ、次は現実の話ね」
金の瞳が、笑っていない。
「王都、行くんでしょ」
ヴィーラは一拍置いて頷いた。
「……えぇ」
「理由は?」
ヴィーラは、逃げずに言った。
「ルイは……見届けたいのです」
「何を」
「自分の憎しみが、今の自分を喰べてしまわないか」
言葉にすると冷える。
でも、嘘ではない。
アルシェは小さく息を吐いた。
「うん。ルイらしい」
それから、指を一本だけ立てた。
「じゃあ、あなたの理由」
ヴィーラは首筋の熱を誤魔化すように、視線を前へ置いた。
「……彼を一人にしないためです」
「それだけ?」
「……それだけです」
アルシェは、笑った。
少しだけ、安心したように。
「よし」
そして踵を返す。
去り際に、振り返りもせず言った。
「ヴィーラ。王都に行っても、ちゃんと帰っておいで」
その言葉の重さが、背中に落ちる。
「あなたも。ルイも。二人とも」
ヴィーラは小さく頷いた。
「……はい」
アルシェが去ったあと、裏庭には風だけが残った。
ヴィーラは首筋に指を当て、今度は離さなかった。
熱い。
まだ何も起きていないのに。
起きる前の夜明けみたいに、身体が先に知っている。
ヴィーラは、静かに呟いた。
「……ルイ」
名を呼ぶ。
返事が返ってくる未来を、疑いもせずに。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




