39 選んでほしい
夜は、音が減る。
減った分だけ、気配が浮き上がる。
廊下の板がわずかに軋む音。
誰かの呼吸が、どこで止まるか。
考えごとが重いと、足取りは遅くなる。
今夜の屋敷は、いつもより静かだった。
静かに“している”。そんな静けさだ。
◇
ヴィーラは自室の灯りを落としても眠らずにいた。
竜は眠りを必要としない。
必要としないからこそ、眠る理由を選ぶ。
今夜は、選ばなかった。
昼間、ルイが明かした名が耳の奥に残っている。
人間の血の名。失われた時間の名。
鋭くて、脆い。
それでも彼は隠さなかった。
逃げずに。折らずに。
ヴィーラは窓辺の椅子に腰掛け、指先を見つめる。
袖口に触れた感触はまだないのに、これから触れてしまう気がして、指が落ち着かない。
――選ばせる。
竜の掟。
彼に対してずっと守ってきた距離。
だが今夜、その掟の内側で、感情が静かに形を変えていた。
◇
廊下の向こうから足音が近づいた。
ゆっくり。
迷いを含んだ歩き方。
扉の前で止まる気配。
叩く音はない。代わりに、低く名が呼ばれる。
「……ヴィーラ」
ヴィーラは椅子に座ったまま答えた。
「入ってください」
扉が静かに開き、ルイが入ってくる。
夜の光に沈んだ顔。けれど目は逃げ道を探していない。
ルイは部屋の入口で立ち止まり、距離を測る。
その癖さえ、今夜は愛おしいと思ってしまう自分がいる。
「眠れないのか」
「眠る理由を選んでいないだけです」
淡々と返すと、ルイが息を吐いた。
息を吐けるようになった、という変化。
ルイは椅子の背に手を置く。座らない。
逃げるためではなく、踏み出すために姿勢を整えている。
「……昼に言っただろ。名を」
「えぇ」
「あれを言ったら、戻ってくると思ってた」
ルイの声は低い。
壊さないように置いている声だ。
「憎しみも、後悔も、全部」
ヴィーラは頷いた。
否定する類のものではない。
「でも、それだけじゃなかった」
ルイは胸の奥に手を当てる。
「戻ってきたのは……お前に、ちゃんと向き合わなきゃいけないって気持ちだった」
ヴィーラは息を止めない。
止めないように、ゆっくり呼吸する。
「私は、待っていましたわ」
その言葉に、ルイが苦く笑う。
「分かってる。待たせてたのも、守ってくれてたのも」
沈黙が落ちる。
埋めなくていい沈黙だ。
やがてルイが言う。
「……俺は人間だ」
何度目かの言葉。
だが今夜は、言い方が違う。
「短い。弱い。いずれ終わる」
「えぇ」
「それでも、お前の前に立つなら、全部知った上で立ちたい」
ヴィーラは、視線を逸らさず答えた。
「……恋とはどんなものか、最近考えています」
「……」
「答えはまだ出ません」
ルイの目が揺れる。
拒絶ではないと分かっているから、揺れる。
「ですが」
ヴィーラは続ける。
「あなたがここにいない未来を想像するのが、耐え難い」
竜としては不出来な感情だ。
だからこそ嘘ではない。
ルイは一瞬だけ目を閉じた。
そして、決めた声で言う。
「……俺は、お前が好きだ」
逃げ道のない言葉。
「守ってくれたからじゃない。拾ってくれたからでもない」
一拍。
「俺が俺でいられる場所に、お前がいたからだ」
ヴィーラは動かない。
だが、視線だけはまっすぐ受け止める。
ルイは続ける。
「触れたい」
空気が張る。
「でも、奪わない。縛らない」
「……」
「選んでほしい」
沈黙が落ちる。
重くない。
ただ、逃げられない。
ヴィーラはそこで初めて立ち上がった。
一歩だけ近づく。
触れられる距離。まだ触れない距離。
そして、指先だけが動く。
ルイの袖口に、そっと触れる。
掴まない。引き寄せない。
ただ、確認するように。
「……ルイ」
「……」
「今すぐ答えは出しません」
ルイの眉が僅かに動く。
それでも引かない。
「ですが」
指先に、ほんの少しだけ力が入る。
「あなたの告白を、拒みません」
それは竜の最大限の肯定だった。
ルイは息を吐いた。
その息が、少しだけ軽い。
「……それでいい」
「今は、それで」
ヴィーラは袖口から指を離す。
離すことで、境界を守る。
「今夜は、ここまで」
追い出すのではない。
生活に戻すための区切りだ。
ルイは頷き、扉へ向かう。
扉に手をかける前に、振り返って言った。
「……ありがとう」
ヴィーラは答えない。
代わりに、一度だけ頷く。
扉が閉まり、夜が戻る。
ヴィーラは自分の指先を見た。
触れたのは袖口だけ。
それなのに熱が残っている。
恋とはどんなものか。まだ分からない。
だが今夜、ひとつだけ分かったことがある。
扉の向こうにいる彼を、私はもう“保護”の名では収めきれない。
そして、それを――
嫌だと思わなくなっている。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




