38 取り戻した名
名を呼ばれることには慣れた。
振り向くのも、返事をするのも、息をするのと同じになった。
屋敷の空気の中で、俺の名前はもう「異物」じゃない。
それでも時々、喉の奥がひりつく。
呼ばれているのは、誰だ。
ルイか。
それとも、もっと奥に沈めている何かか。
◇
その日は朝から風が落ち着いていた。
回廊を抜ける音が薄く、妖精の羽音も遠い。
静けさが、心の隙間を広げる日だった。
俺は裏庭に出て、木剣を握った。
稽古というより確認だ。
身体が動くか、息が乱れないか。
剣の形を作っている間だけは、頭が空になる。
最後の一振りで止めた時、背後に気配があった。
振り向く必要はない。
間合いで分かる。
「……見ていたのか」
「えぇ」
ヴィーラの声。
木陰に立っている。
日差しの中に入ってこない距離。
触れられる一歩手前に、わざと置く距離。
俺は木剣を下ろし、息を整えた。
「近いうちに外へ出る」
言ってから自分でも少し驚いた。
宣言するつもりはなかったのに言葉が先に出た。
ヴィーラは瞬きひとつで受け止める。
「一人で?」
「……いや」
否定は早かった。
その否定が、俺の中で小さな波を立てる。
俺はずっと「一人」を選んで生き延びてきた。
誰かを巻き込まないために。
巻き込めば、また失うから。
だが、ここでは違う。
違ってしまった。
「……お前に来てほしい」
頼む、とは言わなかった。
許可も求めなかった。
ただ、口にした。
ヴィーラの瞳が、わずかに細くなる。
「理由は?」
責めではない。
当然の確認だ。
俺は一瞬、視線を外に逃がした。
庭の向こうの山。
その先に、人間の世界がある。
「……戻ってくるためだ」
言い訳みたいで、でも本音だった。
外へ出るなら、戻る理由が要る。
理由がなければ、俺はまた壊れる。
ヴィーラは頷いた。
「分かりましたわ」
それだけで話は終わった。
終わってしまうと怖くなる。
言葉が途切れると、また別のものが喉を押し上げる。
俺は木剣を壁に立てかけ、手のひらを見た。
昔は鎖の跡が残っていた。
今は薄い線だけだ。
それでも指が覚えている。
握るべきものを間違えると、次に握れるものがなくなる感覚を。
「ヴィーラ」
名前を呼ぶと、彼女の視線がすぐに来る。
呼べば返ってくる。
それがまだ信じられない時がある。
「……話がある」
ヴィーラは近づかなかった。
だが、離れもしない。
「えぇ」
返事だけで続きを待つ。
俺は息を吸った。
吸い方が少し下手になっているのが分かった。
剣を振っている時より、今の方が息が乱れる。
「……俺の名前は」
言葉にした瞬間、喉が痛んだ。
「ルイ」と名乗ればいい。
それは今の俺の名だ。
この巣がくれた名で、この巣で生きるための名。
それでも、今日は違う。
今日は、殻の内側に手を入れてしまう日だ。
「本当は――シャルル・ド・ラ・ヴァロワというんだ」
言い切ると、空気が少し変わった気がした。
妖精の羽音が遠くなる。
風が一瞬だけ止まる。
ヴィーラは驚かなかった。
驚かないのは、知っていたからではない。
竜は、名の重さを量る前に受け取る。
彼女はただ、確かめるように言った。
「シャルル」
俺の古い名を、彼女の口が形にする。
その音が胸の奥に刺さった。
痛いのに嫌じゃない。
むしろ、息がしやすくなる。
「……そう呼ぶな」
反射でそう言ってしまう。
拒絶じゃない。防御だ。
ヴィーラは小さく首を傾げる。
「では、どう呼べばいいのですか?」
問いが正確すぎる。
俺は言葉に詰まった。
どう呼ばれたいか。
それを考えること自体が、今までの俺には贅沢だった。
「……今は、ルイのままでいい」
絞り出す。
ヴィーラは頷く。
「分かりましたわ。ルイ」
同じ音なのに、さっきより重く感じた。
名の下に別の名が見えるようになったからだ。
俺は視線を落とした。
「……名を口にすると、戻ってくる気がする」
言いながら自分で分かる。
戻ってくるのは名だけじゃない。
あの日の血の匂い。
燃える紙。
剣を抜いた姉の背中。
逃げろと命令した父の声。
振り返らなかった母の肩。
そして、その全部を置いて走った自分。
「俺は、貴族だった」
続けると喉の奥が震えた。
「辺境伯家の……三男で、守られる側で、何も決めない側だった」
自嘲が混じる。
「それなのに……まだ生きてる」
言葉が転がるように落ちた。
生きていることの罪悪感。
生きてしまったことの重さ。
ヴィーラは、何も言わなかった。
慰めも断罪もない。
ただ、そこにいる。
俺はそれが苦しくて、助かった。
「……フランク王家が潰した」
口にした瞬間、胸の底が熱くなる。
「証拠なんていらなかった。反逆の一言だけで――父も母も、兄も姉も」
言葉が途切れる。
喉が締まる。
俺は歯を食いしばった。
「……俺は逃げた」
吐き捨てるように言う。
「生き延びろって言われて、逃げて……捕まって、名を奪われて、売られて」
「売られて」と口にしただけで吐き気がした。
「俺は、何年も……何年も」
言葉が落ちる先を探す。
「殴られて、働かされて、飢えて……自分が誰か分からなくなって」
視線が揺れる。地面が少し遠い。
「……逃げた時、背中を斬られた」
「森で……水がなくて、喉が割れて……もういいって思った」
言ってしまうと、少しだけ軽くなった。
そして最後に俺は言った。
「……そこで、拾われた」
拾われた。
助けられた。
生きていたから。
その単純さが、今でも眩しい。
俺は顔を上げた。
「……お前たちは、俺を選んでない」
ヴィーラの瞳が、動かない。
「生きてたから助けた。それだけだ」
俺は言う。
「その“だけ”が、俺には――」
言葉が詰まる。
救いか。呪いか。責任か。
全部だ。全部だった。
「……俺は、ここにいる」
短い言葉。
でも、今までの俺には言えなかった言葉だ。
ヴィーラは、ようやく一歩だけ近づいた。
触れない。触れないまま、距離だけを詰める。
「ルイ」
その呼び方が、優しい。
「あなたは、あなたの名を“取り戻した”のですね」
返された、じゃない。
誰かから戻されたのではなく、自分で掴み直した、と言う言葉。
俺は笑えなかった。
でも頷けた。
「……まだ全部は言えない」
「えぇ」
ヴィーラは頷く。
「全部でなくていいですわ。今は、ここまでで」
区切り方が変わっている。
それに気づいて、胸の奥が少しだけ熱くなる。
俺は息を吸い、言った。
「……外へ行く時」
「えぇ」
「俺は……俺のまま戻ってくる」
ルイとしてでもいい。シャルルとしてでもいい。
でも、“逃げた商品”としては戻らない。
ヴィーラの表情が、わずかに柔らかくなる。
「信じますわ」
疑いも条件もない。
それがこの巣の掟。
それが、彼女の恋の仕方。
俺は、その信じ方に応えたくなってしまっている。
それが一番厄介で、
一番、救いだった。
◇
その夜、俺は自室で一人になっても倒れなかった。
窓の外で風が鳴る。
妖精の光が遠くで揺れる。
そして、廊下の向こうに、確かな気配がある。
来ない。入ってこない。
でも、いる。
それだけで胸の奥の箱が、少しだけ静かになった。
次に言うべき言葉が何か、俺はもう分かっている。
それでも今夜は、まだ言わない。
刃にも救いにもなる言葉を、今度はちゃんと選ぶために。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




