36 竜と人間
名前を呼ばれることには、もう慣れている。
振り向くかどうかを迷うことはなくなった。
呼ばれれば、自然に顔を上げる。
それが特別な意味を持つかどうかをいちいち確かめなくてもいい。
それでも時々、思う。
呼ばれているのは「誰」なのか、と。
◇
昼下がりの回廊は、静かだった。
静けさそのものがこの屋敷の日常になっている。
妖精の光も風の通り道ももう見慣れたものだ。
ルイは窓際の長椅子に腰掛け、外を眺めていた。
山の稜線は変わらない。
けれど、季節ごとに色は違う。
時間は、確実に流れている。
「考え事ですか」
背後からよく知った声がする。
振り向く前に気配で分かる。
今さら驚くこともない。
「……少し」
それで十分だった。
ヴィーラは隣に来て、同じように窓の外を見る。
肩が触れそうで触れない距離。
それを意識する必要も説明する必要もない。
長く一緒に過ごした末の距離だった。
「山の向こうを見ていました?」
「ああ」
否定しない。
「街の方は、最近騒がしいですわね」
「聞いてる」
噂として。
風として。
人の気配として。
「変わる時は、音が増えます」
ヴィーラの言葉は、竜の感覚だ。
ルイは、窓枠に肘を乗せた。
「……ここにいると」
言葉は、少しだけ間を置いて出た。
「時間の流れ方が、分からなくなる」
「えぇ」
即答だった。
「それは、竜の巣にいる人間が必ず一度は感じることですわ」
「……怖いか?」
自分でも意外なほど、落ち着いた声だった。
ヴィーラは、少し考える。
「怖くないと言えば、嘘になります」
正直な答え。
「ですがあなたがそれを感じているということは――ここに“居続けている”証拠でもあります」
ルイは、視線を下げた。
昔ならその言葉を受け止めきれなかった。
今は、逃げずに聞ける。
「俺は、人間だ」
「えぇ」
「ここにいれば、俺だけが先に終わる」
それは確認ではなく、共有だった。
ヴィーラは否定しない。
慰めもしない。
「それでも今ここにいる時間は、あなたのものですわ」
その言葉は、以前にも聞いた気がした。
だが今は、重さが違う。
「短いから価値が低い、とは考えません」
「……竜らしいな」
「そうでしょう?」
小さく笑う。
沈黙が落ちる。
だが、埋める必要はない。
◇
しばらくして、ヴィーラが言った。
「ルイ」
呼び方は変わらない。
声の調子も。
「あなたは、もう“話せない状態”ではありません」
断定だった。
「話すかどうかを選んでいるだけです」
ルイは、ゆっくり息を吐いた。
「……ああ」
否定できなかった。
「それで、いいのですか」
問いは、責めではない。
「今は、それでいい」
自分の答えに自分で驚く。
ヴィーラは頷いた。
「では、触れない理由も変わっていますわね」
「理由?」
「えぇ」
彼女は、ほんの少しだけ距離を詰める。
触れない。
だが、拒む距離でもない。
「怖いからではありません」
静かな声。
「大切だから、です」
ルイの喉が鳴った。
その理由は、もう否定できなかった。
「……厄介だな」
「えぇ」
即答だった。
「ですが、慣れました」
そう言って、ヴィーラは立ち上がる。
「今日は、このままで」
選択肢を置いたまま、歩き出す。
振り返らない。
けれど、距離は失われない。
◇
一人になった回廊でルイは窓の外を見た。
山は変わらない。
巣も変わらない。
変わったのは、自分だけだ。
シャルル・ド・ラ・ヴァロワとして失った時間。
ルイとして積み上げた時間。
その両方を抱えたまま、ここに立っている。
呼ばれれば振り向く。
触れなくても離れていない。
それが、今の距離だ。
ルイは、それを初めて「恐れずに」受け入れていた。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




