34 シャルル・ド・ラ・ヴァロワ
ルイという名前は、仮のものだ。
逃げるために作った殻。
追われないための、薄い皮。
それでも最近、その殻の内側で別の名前が呼吸を始めている。
シャルル・ド・ラ・ヴァロワ。
それが俺の本当の名だ。
◇
名を失った日のことは、今でもはっきり覚えている。
血の匂いよりも先に、声が消えた。
叫びも命令も祈りも。
あれほど満ちていたはずの音が一瞬ですっと引いていった。
音が途切れた瞬間、理解した。
――終わった。
ヴァロワ辺境伯家は、終わったのだと。
フランク王家は、証拠を必要としなかった。
必要だったのは、潰す理由だけだ。
建国からの忠臣だった貴族に対しても必要無くなれば躊躇いなく切り捨てた。
反逆。
常套句。
便利な言葉。
父は、最後まで命令を下していた。
逃げろと。
振り返るなと。
母は、一度もこちらを見なかった。
見れば、俺が立ち止まると分かっていたからだ。
兄は俺を背にかばい、姉は女だてらに迷いなく剣を抜いた。
その背中を俺はただ見ていた。
十二歳の俺に与えられた役目は、ただ一つ。
生き延びること。
それがどれほど残酷な命令か、当時の俺はまだ分かっていなかった。
ただ目の裏に兄の血糊が今でも焼き付いているかのように思い出せる。
◇
そして逃げた先で俺は呆気なく捕まった。
名を名乗る前に殴られ、身分を示す前に縛られた。
何を言っても、聞かれることはなかった。
聞く気がなかったのだ。
身分証は、目の前で燃やされた。
火の中で紙が丸まり、黒く縮む。
名は「嘘だ」と切り捨てられた。
その瞬間、シャルル・ド・ラ・ヴァロワは死んだ。
剣も、血も必要なかった。
名前を否定されるだけで、人は消える。
残ったのは、年若く、使い道のある「商品」。
値札のついた存在。
それが、俺になった。
◇
奴隷としての日々は、時間の感覚がない。
朝も夜も関係なく、殴られるか、働くか、倒れるか。
食べられるかどうかは運次第で、眠れるかどうかは気分次第だった。
生きている理由を考える暇はなかった。
考えれば、壊れる。
何よりきつかったのは、誰も俺の名を呼ばないことだった。
呼ばれるのは、番号か、罵声か、命令だけ。
名を持たない存在は、物と同じだ。
壊れれば捨てられる。
役に立てば使われる。
それだけ。
俺はそこで、「人間」であることをやめた。
やめた方が、楽だった。
◇
十五の時、逃げた。
理由は、よく覚えていない。
ただ、このままでは死んでしまうと思って逃げ出した。
生に対する執着が捨てられなかったのだ。
背中を斬られた感触は、今でも残っている。
熱く、鈍く、呼吸のたびに痛んだ。
走って、転んで、森を彷徨い、水を探して、地面に倒れた。
視界が暗くなり、音が遠ざかる。
あの時、俺は初めてはっきり思った。
――もう、いい。
生き延びろと言った家族に、応えられなかったとしても。
ここで終わるなら、それでもいいと。
◇
目を覚ました場所は王国ではなかった。
代わりにいたのは、竜だった。
彼らが俺を助けた理由は、驚くほど単純だった。
生きていたから。
それだけ。
問いも条件も取引もない。
生きているなら助ける。
死んでいないなら見捨てない。
その理屈が、俺の中の何かを壊した。
同時に凍りついていた時間がゆっくりと音を立てて動き出した。
シャルル・ド・ラ・ヴァロワは、その時まだ戻ってはいない。
けれど。
ルイという名の内側で確かに息をしていた。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




