33 数年後
ルイがこの屋敷に来てから数年が経った。
それは劇的な変化ではなく、屋敷の床が少しずつ磨かれていくような時間だった。
音が消えるわけでも、増えるわけでもない。ただ、馴染んでいく。
ルイは回廊を歩きながら、指先で壁をなぞった。
木目の凹凸はもう覚えている。
夜でも躓かない。
竜の巣での生活は、いつの間にか「続いているもの」になっていた。
◇
庭では、ヴィーラが風を読んでいた。
昔のように剣を振るうことは減ったが、何もしないわけではない。
彼女は今も立つ。
ただ立って、空と地面の間に流れるものを感じ取っている。
「今日は北寄りですわね」
独り言のように言って、振り返る。
「来ていたのですか」
「さっきから」
ルイはそう答えた。
彼女は驚かない。
今の二人の距離では、それが普通だった。
並んで立つ。
触れないが、離れすぎない。
かつては「触れない理由」を確認していた。
今は、確認しない。
それが進んだ結果なのか、止まった結果なのか、ルイにはまだ分からない。
「街が少し騒がしいですわ」
「……そうだな」
人間の街の話題が出るのは久しぶりだった。
彼女が「騒がしい」と言う時は、大抵、変化の前触れだ。
「理由は?」
「人の数が増えました。行き来も多い」
竜の視点だ。
人間の噂よりも、風と気配で判断する。
ルイは、遠くを見た。
交易路の向こう。
かつて倒れていた場所は、もう草に覆われている。
「……俺は」
言いかけて、止める。
ヴィーラは何も言わない。
待つ姿勢だけがある。
数年の間に、ルイは知った。
彼女は「急がせない」ことに全力を使える存在だ。
「俺は、ここに来てから」
それでも言葉は続いた。
「ちゃんと生きてる」
それは事実だった。
食べて、眠って、考えて。
誰かと並んで立ち、名前を呼ばれる。
それだけで、以前とは違う。
「えぇ」
ヴィーラは頷いた。
「それが一番、大切ですわ」
彼女の言葉は、いつも評価ではなく確認だった。
今も同じ。
ルイは、ふっと息を吐いた。
胸の奥に、ずっと触れずにいた箱がある。
開ければ、崩れるかもしれない。
でも、閉じたままでは、先へ進めない気もしている。
ヴィーラに話すつもりは、まだない。
これは――
彼女のための言葉ではない。
自分が、どこから来たのかを知るためのものだ。
「……なぁ」
ルイは、空を見たまま言った。
「少し、歩いてくる」
「一人で?」
「一人で」
一拍。
「戻ります」
それだけで十分だった。
ヴィーラは止めない。
代わりに、静かに言う。
「日が落ちる前に」
「分かってる」
回廊を離れ、外縁へ向かう。
風が変わる場所。
竜の巣と、外の世界の境目。
そこで立ち止まり、ルイは目を閉じた。
これは、まだ誰にも話していない話だ。
自分の中にだけ残っている、
名前を持たない過去。
――次に言葉にするときは、逃げない。
そう決めて、ルイは息を吸った。
風は、昔よりも少しだけ優しかった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




