32 選ばなくていい時間
夜の屋敷は、昼よりも呼吸が深い。
灯りが落とされ、音が減り、代わりに気配だけが残る。
竜の巣は、夜に本来の形を取り戻す。
ルイは回廊を歩きながら、足音をわざと隠さなかった。
隠さないと決めたのは、最近だ。
曲がり角の先、窓際に人影がある。
ヴィーラだった。
外套を羽織り、窓を少しだけ開けている。
夜風が、髪を揺らす。
「……起きていましたのね」
振り返らずに言う。
「眠くなかった」
「そう」
それだけで、会話は成立した。
◇
同じ窓辺に並ぶ。
距離は、昨日と同じ。
触れられる一歩手前。
下を見れば、巣の庭が暗く沈んでいる。
妖精の光が、点のように浮かんでは消える。
「……夜は、好きですか」
ヴィーラが聞いた。
「嫌いじゃない」
「理由は?」
少し考える。
「選ばなくていい時間が増える」
彼女は、ふっと息を吐いた。
「確かに。昼は選択の連続ですもの」
それは、竜でも同じらしい。
沈黙が落ちる。
気まずさはない。
だが、張りつめた何かがある。
ルイは、指先に意識を向けた。
昨夜から、何度も同じ衝動が浮かんでは消える。
――触れたい。
理由は単純だ。
そこに、彼女がいるから。
ルイは、息を吸った。
「……ヴィーラ」
「はい」
「触れないって、選択も」
言葉を探す。
「……前に進んでると思う?」
彼女は、少しだけ考えた。
「えぇ」
はっきりと。
「触れないのは、拒絶ではありません。選ぶ準備です」
その答えに、胸の奥が静かに鳴った。
風が強くなり、窓が小さく鳴る。
ヴィーラが手を伸ばし、窓を閉めようとする。
その動きに、ルイの手が反応した。
一瞬。
指先が、触れかけて、止まる。
触れていない。
だが、距離はゼロだ。
二人とも、動かない。
「……今、触れたら」
ルイが言う。
「俺、戻れない気がする」
ヴィーラは、手を引いた。
窓を閉め、距離を戻す。
「それが分かっているなら」
静かな声。
「今日は、触れなくて正解ですわ」
責めも、惜しさもない。
ただの判断。
ルイは、思わず笑った。
「……竜って、残酷だな」
「優しいと言われるより、嬉しいです」
即答だった。
「優しさは誤解されます。残酷さは、境界を守ります」
その言葉が、妙に胸に残る。
しばらくして、ヴィーラは窓辺を離れた。
「もう休みましょう」
「……あぁ」
二人で回廊を歩く。
部屋の前で、自然に足が止まる。
「ルイ」
彼女が言う。
「今日も、選びましたわね」
「……何を?」
「進みすぎないことを」
それは、褒め言葉だった。
◇
部屋に戻り、灯りを落とす。
ベッドに横になっても、眠気はすぐには来ない。
けれど、不安はなかった。
触れていない。
告白も、約束もない。
それでも、距離は確実に縮んでいる。
糸は、ゆっくりとほどかれている。
引かれず、切られず。
ただ、選ばれながら。
ルイは、その感覚を胸に留めたまま、目を閉じた。
夜は、まだ続く。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




