30 逃げない夜
夜は、思考に向いていない。
分かっているのに、ルイは目を閉じたまま天井を見ていた。
暗いはずの天井が、やけに近い。
眠ろうとすると、思い出す。
思い出さないようにすると、身体が覚えている。
胸の奥が、じわりと痛む。
◇
ここへ来る前の夜も、こんなだった。
眠れなかった。
理由は単純だ。
朝になれば、名前が変わる予定だった。
いや、消える予定だった。
名前が消える。
それが何を意味するか、ルイはよく知っている。
人は、名前を奪われた瞬間に「物」になる。
値段がつき、扱いが決まり、文句を言う権利を失う。
――それを、知っていた。
だから、逃げた。
夜の交易路。
靴は片方なく、背中は焼けるように痛かった。
振り返らなかったのは、振り返ったら戻ってしまうと分かっていたからだ。
走った。
走って、倒れた。
それで終わるはずだった。
◇
なのに、目を覚ましたら天井があった。
血の匂いがなく、怒鳴り声もなく、鎖の音もない。
代わりに、風の音と、誰かの呼吸だけがあった。
あの朝。
ヴィーラの声を、今でもはっきり覚えている。
――ここでは、何もしなくていいですわ。
何もしなくていい。
そんな言葉を向けられたのは、あれが初めてだった。
だから、怖かった。
◇
ルイは、寝台の上で身を起こした。
窓の外は暗い。
妖精の光も、今日は遠い。
胸に手を当てる。
心臓が、少し早い。
「……言えないわけだ」
小さく呟く。
過去を話すということは、戻るということだ。
匂いも、音も、痛みも、全部。
それを、ヴィーラの前でやる覚悟がなかった。
あの竜は、優しすぎる。
だから、知ったらきっと――
怒る。
許さない。
奪い返そうとする。
そんな顔を、見たくなかった。
◇
扉の向こうで、気配が止まる。
ノックはない。
だが、分かる。
「……起きてますね」
ヴィーラの声だった。
「……あぁ」
少し間があって、扉が開く。
彼女は中へ入らなかった。
境界に立ったまま、こちらを見る。
「眠れませんでした?」
「……まぁ」
「そうでしょうね」
決めつけではない。
理解だ。
沈黙が落ちる。
昨日までなら、ここで会話は終わっていた。
だが、今日は違う。
「……ヴィーラ」
ルイが先に言った。
「今夜は」
喉が鳴る。
「逃げない」
短い言葉。
けれど、重い。
ヴィーラは、一歩も動かなかった。
ただ、静かに頷く。
「では、聞きます」
声が低い。
「どこからですの?」
選択肢を与えた。
奪わない。
それが彼女のやり方だ。
ルイは、しばらく黙った。
それから、言った。
「……名前が、変わる前から」
ヴィーラの瞳が、わずかに揺れる。
怒らない。
遮らない。
ただ、聞く。
それが一番怖かった。
◇
「俺は」
言葉が、ゆっくり落ちる。
「売られる予定だった」
それだけで、部屋の空気が変わる。
重くなるが、張りつめない。
「逃げなければ、生きてはいた。でも」
一拍。
「俺じゃなくなってた」
ヴィーラは、何も言わない。
指先が、わずかに動いたが、触れない。
ルイは続けた。
「だから、走った。倒れた。それで……拾われた」
最後の言葉に、ほんの少し皮肉が混じる。
「拾ったのが、竜だったのは」
視線を上げる。
「たぶん、運が良かった」
ヴィーラは、静かに言った。
「……いいえ」
一言。
「それは、あなたが生きようとした結果ですわ」
慰めではない。
評価でもない。
事実として、そう言った。
ルイは、息を吐いた。
胸の奥で、何かが少しだけ緩む。
◇
「……まだ、全部は言えない」
「えぇ」
「でも」
ヴィーラを見る。
「隠すつもりもない」
それが、今出せる最大限だった。
ヴィーラは、初めて一歩踏み出した。
触れない距離。
だが、確実に近い。
「それで、十分ですわ」
同じ言葉。
けれど、今日は重みが違う。
「ルイ」
名前を呼ぶ。
「次は、あなたが来る番です」
逃げ道はある。
だが、道は一つ減った。
ルイは、目を閉じた。
怖い。
けれど、もう分かっている。
この巣に来てから自分はずっと「選ばされて」きたのではなく、「選んで」ここにいたのだと。
それを、ようやく認められた夜だった。
糸は、まだ絡まっている。
だが、ほどく順番は見え始めていた。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




