29 選ぶ責任
その日から、屋敷の時間は少しだけズレ始めた。
遅れるわけでも、早まるわけでもない。
ただ、ルイの中で「待つ」という行為が増えた。
誰かを。
言葉を。
次の一歩を。
◇
夕方、回廊の窓から差し込む光は低かった。
ルイは壁にもたれ、外を見ていた。
庭の木々は、昼の名残をまだ抱いている。
足音がする。
隠す気のない、まっすぐな歩き方。
「ここにいると思いましたわ」
ヴィーラだった。
今日は外套を着ていない。
髪もまとめていない。
屋敷の中の姿だ。
「……分かるのか」
「えぇ。あなたは考え事をすると、必ず光のある方へ行きます」
「知らなかった」
「本人が一番知らないものです」
彼女は、隣には来なかった。
半歩離れた位置で、同じ方向を見る。
沈黙が落ちる。
けれど、昨日までの沈黙とは違う。
言葉を探している音が、そこにある。
「……今日は」
ヴィーラが先に言った。
「触れてもいい日かどうか、確かめに来ました」
直球だった。
ルイは、一瞬言葉を失う。
「……確かめる、って」
「許可を取りに来た、という意味ですわ」
当たり前のように言う。
それが竜の流儀なのだと、もう分かっている。
ルイは喉を鳴らした。
怖い。
だが、昨日とは違う怖さだ。
逃げるための恐怖ではない。
「……もし、俺が」
声が低くなる。
「まだ早いって言ったら?」
「下がります」
即答だった。
「あなたが進まないなら、私は止まります」
「……じゃあ」
逆の問いが、自然に出る。
「進みたいって言ったら?」
ヴィーラは、少しだけ目を伏せた。
「その時は、責任を取ります」
曖昧な言い方ではない。
脅しでもない。
ただの事実。
ルイは、笑いそうになってやめた。
「……本当に、逃がしてくれないな」
「逃げ道は残していますわ」
彼女は視線を上げる。
「ただ、選ばせるだけです」
ルイは、ゆっくり息を吸った。
過去はまだ言えていない。
傷も、恐怖も、全部は出していない。
それでも。
「……今」
短く言う。
「触れられるのは、嫌じゃない」
それは、ほとんど告白だった。
ヴィーラは、一歩だけ近づいた。
触れない。
だが、気配が重なる距離。
「では」
声が、少し低くなる。
「ここまでにします」
そう言って、彼女は手を伸ばさなかった。
ルイが目を見開く。
「……え?」
「触れられることと、触れることは違います」
穏やかな声。
「あなたが“自分から来る”まで、私は待ちます」
ルイは、言葉を失った。
逃げ場を奪われたのではない。
逆だ。
選ぶ責任だけを、静かに渡された。
◇
その夜、ルイはなかなか眠れなかった。
触れていないのに、距離は近い。
何も奪われていないのに、もう戻れない気がする。
過去が、胸の奥で軋む。
言わなければならないこと。
言いたくないこと。
忘れたふりをしてきたこと。
それらが、少しずつ形を取り始めていた。
「……くそ」
小さく呟く。
怖い。
けれど。
あの背中を追いかけたいと思ってしまった。
それが答えだと、もう否定できなかった。
糸はまだ絡まっている。
だが、ほどくために指を伸ばす覚悟がようやく生まれ始めていた。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




