28 触れない選択
いつもの日常が続いているのに、何かが少し違う。
空気が変わったわけではない。
音が増えたわけでもない。
ただ、ルイの中に残っている感触が消えていなかった。
額に触れた指先。
ほんの一瞬。
熱も、力もなかったのに、眠りに落ちるまで確かにそこにあった。
ルイは食堂の椅子に座り、いつもより少し遅れてパンを口に運んだ。
味は変わらない。
香草の匂いも、焼き色も、昨日と同じ。
それなのに噛む回数が増えていることに気づいて、内心で舌打ちする。
落ち着け。
昨夜は、何も決まっていない。
ただ言っただけだ。
ここが好きだと。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……食べないの?」
アルシェの声が、いつもより近い。
ルイは顔を上げる。
彼女は向かいの席で、湯気の立つカップを両手で包んでいた。
「食べてます」
「食べ方が考え事してる人のそれよ」
「……そう見えますか?」
「えぇ」
即答だった。
アランは何も言わず、ルイの皿に視線をやってから視線を戻す。
足りているかどうか、それだけを確認する仕草。
ライハルトは反対側にいる。
だが、今日は視線が一度も刺さらない。
見ていないのではない。
見て、見ないふりをしている。
竜のやり方だ。
ルイは、カップに手を伸ばした。
湯が少し熱い。
「……ヴィーラは?」
「庭」
アルシェが答える。
「朝の風がいいって。あと、考え事をしてたみたいだから放っておいた」
放っておくという選択が、この家では一番の干渉だ。
ルイは小さく頷いた。
◇
裏庭の空気は、少し冷えていた。
夜の名残が、まだ地面に残っている。
草の匂いが濃い。
ヴィーラは木の下に立っていた。
剣も、刺繍枠もない。
ただ、風に髪を揺らされている。
ルイの足音に、彼女は振り返らなかった。
「来ると思っていましたわ」
背中越しに言う。
「……足音で分かるのか」
「えぇ。あなたは歩く時、音を隠しません」
「……隠した方がいい?」
「ここでは不要です」
即答だった。
ヴィーラは振り返る。
昨夜と同じ顔。
でも、目の奥が少し違う。
探るようでもあり、待つようでもある。
「眠れました?」
「……寝た」
正確には、考え疲れて落ちた。
けれど、それは言わない。
「それなら良かったですわ」
それだけ言って、話を終わらせようとする。
ルイは一歩近づいた。
昨日より、半歩だけ。
「……昨日のこと」
言いかけて、止まる。
言葉を選ぶ。
選びすぎて、また黙る。
ヴィーラは待った。
腕を組まない。
距離も詰めない。
逃げ場を作る立ち方だ。
「……俺」
喉が鳴る。
「好きだって言った」
「えぇ」
否定も、肯定もない返事。
「……それで」
続きを探す。
告白にするには、足りない。
撤回にするには、遅い。
ヴィーラは、少しだけ首を傾げた。
「続きを決めたいのですか?」
その問いは、優しすぎた。
決めたいか。
決めてしまえば楽になる。
けれど楽になると同時に失うものが増える。
ルイは、視線を落とした。
「……決めるのが、怖い」
正直だった。
ヴィーラは、ふっと息を吐いた。
笑いではない。
「そうでしょうね」
当たり前のように言う。
「私も怖いですわ」
その言葉に、ルイは顔を上げた。
「……ヴィーラが?」
「えぇ」
彼女は、ためらいなく頷いた。
「竜は長く生きます。選ぶものが少ない分、一度選ぶと簡単には手放しません」
それは、告白に近い。
「人間は短いでしょう? だからこそ選ぶ自由が多い」
視線が、ルイを捉える。
「あなたがどちらを選ぶのか、私には決められません」
奪わない。
縛らない。
それが竜の倫理だ。
ルイは、息を吸った。
「……じゃあ、触れないでいるのは」
言いかけて、言葉を変える。
「……昨日のは」
ヴィーラは、少しだけ目を細めた。
「気づきましたのね」
「……あぁ」
「触れないでいる理由があります」
彼女は、ゆっくり言った。
「あなたは私たちの領域に踏み込みました。だから私が触れればそれはあなたが領域を進むのと同義です。ですから進む前に決めなければなりません」
「……じゃあ」
ルイは一歩、さらに近づいた。
あと一歩で、触れられる距離。
「触れたいと思ったら」
声が低くなる。
「その時は?」
ヴィーラは、逃げなかった。
だが、触れもしなかった。
「その時は」
一拍。
「あなたが今のままを望むのならば。私が止めなければいけません」
ルイは、思わず笑った。
「……難しい役だな」
「えぇ」
即答。
「でも、得意ですの」
それが、誇りだと分かる言い方だった。
◇
沈黙が落ちる。
気まずくはない。
ただ、音が少ない。
妖精が一匹、二人の間をくるりと回る。
近づきすぎない距離で。
見張りだ。
「……俺」
ルイが言う。
「たぶん、まだ言えないことが多い」
「えぇ」
「過去も」
「えぇ」
「怖い理由も」
「えぇ」
三度目の肯定。
「でも」
ルイは、視線を上げる。
「ここに戻ってくる選択はできる」
それは、小さな約束だった。
ヴィーラの表情がわずかに緩む。
「それで十分ですわ」
同じ言葉。
けれど、今は少し違う意味を持つ。
「ルイ」
彼女が名前を呼ぶ。
「今日は、触れません」
「……分かってる」
「でも」
一歩、近づく。
風が、二人の間を抜ける。
「逃げもしません」
距離は、触れられる一歩手前。
ルイの心臓が、うるさい。
「それで」
ヴィーラが言う。
「今日は、ここまで」
あまりに静かな区切り。
彼女は踵を返す。
その背中に、ルイは言葉を投げた。
「……ヴィーラ」
振り返る。
「俺」
一瞬、迷う。
そして、決める。
「……まだ、好きだ」
昨夜より、少しだけはっきり。
ヴィーラは、何も言わなかった。
ただ、目を細めて、頷いた。
それだけで、十分だった。
触れていないのに、距離は確実に縮んでいる。
糸はまだ絡まっている。
でも、切れていない。
ルイは、そのことを初めて「希望」と呼べそうな気がした。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




