26.5閑話 刺繍
午後の光は、作業に向いていた。
強すぎず、陰りすぎず。
糸の色が正しく見える時間帯だ。
ヴィーラは窓際の椅子に腰掛け、刺繍枠を膝に乗せていた。
ピンと張った布は淡い色。
柄は決めていない。
ただ、手を動かしていた。
針が布を抜ける。
糸が引かれる。
一定の間隔で、呼吸のように。
その向かいに、ルイがいた。
何かをしているわけではない。
椅子に座り、肘を膝に乗せ、ただ見ている。
「……見ていて楽しいですか」
ヴィーラが言った。
視線は手元から外れない。
「分からない」
正直な返事。
「でも、落ち着く」
「それは良いことですわ」
即答だった。
妖精が二匹、窓辺を行き来する。
光の粒が、糸の上をかすめる。
ルイは、刺繍枠に近づく指先を見ていた。
爪は短く、動きは正確。
力を入れる場所と抜く場所を、迷いなく知っている手だ。
「……その糸」
「はい?」
「絡まらない」
ヴィーラは一瞬だけ手を止めた。
「絡まりますわよ。放っておけば」
そう言って、わざと少し雑に引く。
糸が小さく波打つ。
「こうすると、すぐに言うことを聞かなくなります」
指先で整える。
波が消える。
「でも、引きちぎらない」
「えぇ」
当然のように。
「糸は悪くありませんもの」
ルイは、それを聞いて視線を落とした。
言われたわけじゃない。
けれど、胸の奥に触れられた気がした。
「……俺」
「はい」
「絡まってますか」
質問は低く、曖昧だった。
ヴィーラは、ようやく顔を上げた。
少しだけ考えてから答える。
「絡まっていますわね」
間髪入れずに続ける。
「でも、切れていません」
ルイは、息を吐いた。
「……それなら」
「えぇ」
ヴィーラは針を進める。
「時間をかければ、ほどけます」
それ以上、何も言わなかった。
妖精が一匹、ルイの肩に止まり、すぐに飛び立つ。
笑っているのか、ただ光っているだけなのかは分からない。
午後の光が、糸を照らす。
刺繍はまだ途中だ。
柄も完成していない。
針と糸が布を通る音だけが響いていく。
けれど、途中であることは悪くなかった。
ルイはヴィーラのそばで目を閉じる。
ふわりと頭を誰かが撫でた気がした。
※完結まで毎日投稿です。
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