26 触れられる距離
翌朝の屋敷は、いつもより静かだった。
静かというより、音が落ち着いている。
風はあるが急がず、妖精の羽音も控えめだ。
ルイは自室の椅子に座り、指先で髪を梳いていた。
癖でやっているだけで、特に意味はない。
その時、扉が軽く叩かれた。
「入りますわよ」
返事をする前に、ヴィーラが入ってくる。
盆は持っていない。
そのことに、ルイは少しだけ身構えた。
「今日は朝食、食堂ですの」
「分かった」
それで終わると思ったのに、彼女は出ていかなかった。
視線が、ルイの手元に落ちる。
「……その梳き方、痛くありません?」
「慣れてる」
「慣れているのと、正しいのは違いますわ」
言い切って、ヴィーラはルイの背後に回った。
距離が近い。
触れないが、気配がはっきり分かる。
「少し、貸してくださいな」
何を、とは言わない。
ルイは一瞬ためらい、それから手を止めた。
断らなかったことに、自分で少し驚く。
ヴィーラは指先で櫛を受け取る。
木製で、軽い。
「じっとして」
声は静かだ。
命令ではないのに、逆らう理由が見つからない。
最初の一梳きは、驚くほど優しかった。
引っかかりを避けるように、毛流れを探る。
ルイは肩を強張らせたまま、息をする。
「……竜って、こういうこともするんだな」
思ったまま口に出てしまった。
ヴィーラは一瞬だけ手を止めた。
「竜だから、ではありませんわ」
すぐに続ける。
「同じ巣にいるなら、毛並みは整えます。竜だって鱗の輝きを気にしますのよ」
「……毛並み」
「言い方が気に入りません?」
「いや」
否定は早かった。
櫛がまた動き出す。
引っかかるところで止まり、指でほぐす。
痛みはない。
不思議と、呼吸が楽になる。
「……昨日の話」
ルイが言う。
「少しだけならって言った」
「えぇ」
梳く手は止まらない。
「それで十分ですわ」
「……十分?」
「全部を一度に引き出すのは、下手な刺繍のようなもの」
彼女らしい例えだ。
「今日は、これで」
そう言って、最後に軽く整える。
櫛が離れた瞬間、名残のように空気が揺れた。
ヴィーラは櫛を返してこない。
そのまま、ルイの肩に手を置いた。
置いただけだ。
力はない。
けれど、逃げられない位置だった。
「ルイ」
「……なに」
「昨日言ったこと、忘れていませんわよ」
「邪魔をするってやつか」
「えぇ」
即答だった。
「あなたが話せるようになるまで、話さなくていい。でも黙りすぎたら、こうして触れます」
「……脅しだな」
「優しさです」
真顔で言うのがずるい。
ルイは視線を落とした。
床の木目が、やけにくっきり見える。
「……少しだけ」
昨日と同じ言葉。
でも意味は違う。
「倒れる前、俺は一人だった」
それだけ言って、止まる。
それ以上は喉が動かない。
ヴィーラは何も言わなかった。
手も離さない。
その沈黙が、続きを強要しない。
ルイはゆっくり息を吐いた。
「……今日は、ここまでだ」
「えぇ」
不満のない返事。
「それで十分ですわ」
手が離れる。
距離が戻る。
それなのに、さっきより近くなった気がした。
「朝食、冷めますわよ」
そう言って、ヴィーラは先に部屋を出る。
ルイはしばらく動けなかった。
髪に残る指先の感覚が、消えない。
怖い。
けれど、拒むほどではない。
それが何なのか、まだ名前は分からない。
ただ。
昨日までの巣と、今日の巣は、少しだけ違っていた。
その違いを、ルイはもう見ないふりができなかった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




