25 竜の巣で
あの夜のあとも屋敷は変わらなかった。
風は回廊を抜けるし火は静かに鳴る。
妖精は音も立てずに皿を運び床の塵を払う。
アルシェは微笑み、アランは必要なことだけ言い、ライハルトは相変わらずよく壁際に立っている。
変わったのはヴィーラの距離だけだ。
◇
朝、ルイが目を覚ますと窓が少し開いていた。
冷える前に肩に毛布が掛かっている。
誰がやったのか分からない。
この家ではその手の優しさは犯人探しの対象にならない。
起き上がって背を伸ばす。
傷のあった場所は何も言わない。
もう痛みが戻ってくる気配がないことが逆に落ち着かない気がする。
扉の外で足音が止まる。
「起きてます?」
返事を待たずに扉が開いた。
ヴィーラが盆を持って入ってくる。
湯気の立つカップとパンと果実。
「今日は自分で食べられますか」
「食べられる」
「なら見守るだけにしますわ」
そう言って椅子を引く。
寝台のすぐ脇。
近い。
けれど触れてはこない。
ルイがパンをちぎって口に運ぶとヴィーラはそれを見て小さく頷いた。
評価というより確認に近い。
「……昨夜のこと」
ルイが言いかけたところでヴィーラが先に言った。
「謝りませんわよ」
真っ直ぐだった。
冗談ではないが重くもない。
彼女はそういう言い方をする。
「知る権利があると思っただけですの」
ルイは喉の奥が少し乾いた。
知る権利。
それを向けられるほど自分はこの家の内側に入ったのか。
「……俺は」
「言いたくなければ言わなくていいですわ」
すぐに逃げ道が置かれる。
けれど同時に視線は外れない。
「でも」
ヴィーラはカップを持ち上げ湯気を指先で散らす。
妖精がひとつ近づいてくる。
彼女はそれを当然のように受け入れた。
「あなたのことを知りたいわ」
言い切ってから付け足す。
「怖いから知りたいんじゃありません。ここにいるあなたが誰かを知らないのは変だから」
変。
その言葉が妙に優しい。
ルイは視線を落とした。
昨夜からずっと言葉の形を探している。
過去を語るにはまだ喉が固い。
「……整理できてない」
「えぇ」
ヴィーラは頷く。
「なら整理できるまでわたくしが邪魔をしますわ」
「邪魔?」
「あなたが黙り込みすぎると部屋の空気が硬くなりますの。それが嫌です」
わがままだ。
けれど正直でもある。
ルイは小さく息を吐いた。
笑いになりかけて喉で止まる。
「……前からそうだったのか」
「前は遠慮してましたわ」
あっさり認めた。
「人間のあなたに竜の話を押しつけたら壊れると思っていたから。でもあなたは壊れなかった」
ルイは毛布の端を握った。
壊れなかった。
それは彼女なりの信頼の言葉なのだろう。
◇
昼の食堂でアランはいつも通りだ。
ルイの皿が空になれば水差しが寄ってくる。
薬草の匂いが薄く混じる温い茶が置かれる。
「歩けるなら庭を回れ。息が乱れたら戻れ」
「分かりました」
それで終わり。
アルシェはルイを見てふっと笑った。
「昨夜よく眠れた?」
「……少し」
「いいね」
それだけ。
ライハルトは相変わらず壁際だ。
視線だけが刺さる。
「ここまで世話したんだ。勝手に逃げるなよ」
「逃げない」
「ならいい」
短い会話。
短いのに安心するのが腹立たしい。
そしてヴィーラだけが違う。
食事が終わるなりルイの腕を取った。
取ったと言っても掴むのではなく袖をつまむ程度。
「庭へ行きますわ」
「散歩か」
「尋問です」
「……言い方」
「私って正直ですの」
◇
裏庭の風は乾いている。
木剣が立てかけられたままになっているのを見てルイは思い出す。
数ヶ月前の街の匂い。
串焼きの油。
布屋の光。
あれが特別な一日だったのに。
今はもうこの屋敷の生活の延長になっている。
ヴィーラは芝の上に座らない。
立ったままルイを見上げる形になるよう少し近づく。
「ルイ」
名前を呼ぶ。
遠慮なく。
逃げ道を塞がない距離で。
「あなたが倒れていた場所は交易路のあたりです。あそこに行きたいと思います?」
ルイは一瞬だけ息を止めた。
過去を聞かれているのと同じだ。
けれど答えられない質問ではない。
「……今は行きたくない」
「……そう」
すぐに引く。
それができるのに踏み込んでくる。
矛盾みたいで矛盾じゃない。
「でも」
ヴィーラは言う。
「行きたくないということは、そこにあなたの糸が残っているということですの」
「糸?」
「刺繍の糸です。ほどけたまま放っておくと絡まって指が痛くなります」
例えが彼女らしいけど竜らしくない。
ルイは口元だけで笑った。
「……絡まってるのは俺の方だ」
「なら」
ヴィーラが一拍置く。
「ほどけるまで隣にいます。私が拾ったのだから。生き物は最後まで責任を持ちなさいとお父様もおっしゃいましたわ」
自慢げに言うのがずるい。
それでいて本気だと分かる。
ルイは目を伏せた。
怖いのは、彼女が竜だという事実ではない。
こうして自分の内側を当たり前のように覗こうとされることだ。
それが嫌じゃないことがもっと怖い。
「……少しだけなら」
口をついて出た。
ヴィーラが瞬きをする。
勝った顔をしそうになって堪えたような顔。
「少しでいいですわ。少しが積もるのをわたくしは知っています」
風が木の葉を揺らす。
妖精がひとつ ルイの肩の上をくるりと回ってから去っていく。
見守っているのか笑っているのか分からない。
ルイは空を見上げた。
竜の巣の上の空は広い。
昨夜 境界が消えたわけではない。
ただ向こう側の気配を知ってしまった。
そして今、ヴィーラがその境界に指を掛けている。
壊すためではなく。
こちらへ引き寄せるために。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




