23 境界に触れる夜
夜の屋敷は、昼よりも音が多い。
風が回廊を抜ける音。
遠くで水が落ちる音。
火のはぜる、微かな気配。
それらが重なって、ひとつの「生活」になっている。
ルイは食堂の端に座り、湯気の立つ皿を前にしていた。
香草の匂い。
柔らかく煮込まれた肉。
温かいパン。
数ヶ月前なら、これだけで落ち着かなかった。
今は、腹が鳴る。
それだけで自分がここに馴染み始めていることが分かって、少しだけ居心地が悪かった。
「どうしましたの?」
ヴィーラが首を傾げる。
無意識なのだろう。
彼女の指先が宙をなぞると、卓の上の水差しがふわりと寄ってきた。
音もなく。
触れられることもなく。
妖精だ。
小さな光が二つ、三つ。
当然のように彼女の周りを飛び、必要なものを運び、余計なものを片付けていく。
誰も驚かない。
誰も説明しない。
それがこの屋敷の夜だった。
「……いえ」
ルイはそう答え、視線を落とした。
だが、違和感は消えなかった。
◇
食事は静かに進んだ。
お父様は多くを語らず、必要なことだけを口にする。
お母様は時折、ヴィーラに視線をやり、満足そうに微笑む。
お兄様は壁際で腕を組み、こちらを見ているのかいないのか分からない。
その間を妖精たちが縫うように行き交う。
命令されている様子はない。
けれど、迷いもない。
ルイは、パンをちぎる手を止めた。
この光景に、見覚えがある気がした。
貴族の館。
いや、違う。
もっと根本的な、上下や契約ではない関係。
まるで、同じ巣の中にいる生き物のような。
その考えに至った瞬間、背中がひやりとした。
◇
食後、暖炉の火が少し落とされる。
夜の団欒。
誰かが決めたわけではないが、自然とそうなる時間。
ヴィーラは椅子に深く腰掛け、外套を脱いだ。
その仕草ひとつが、家の中のものだった。
妖精が寄ってきて、髪を整える。
指示はない。
当然のように。
ルイは、とうとう視線を逸らさなかった。
「……ヴィーラ」
「はい?」
返事は軽い。
警戒も、構えもない。
だからこそ、言葉が喉に引っかかった。
ここで聞けば、戻れない気がした。
だが、もう気づいてしまった。
彼女が「人間の街」に出るたび、どこか線を引いていること。
この屋敷の中では、その線が消えていること。
そして。
妖精に向かって、命令をするのではなく、当然のように「頼む」でもなく「扱う」でもなく。
ただ、存在として接していること。
ルイは、ゆっくり息を吸った。
「……あなたは」
一度、止める。
お兄様の視線が、わずかにこちらを向いた。
止めない。
止める気もない。
「あなたがたは」
妖精が一匹、宙で止まる。
火が小さくはぜた。
「一体、何者なんですか」
それは問いだった。
責めでも、告発でもない。
ただ、境界を越えるための言葉。
◇
一瞬、何も起きなかった。
空気が張りつめることもない。
誰かが立ち上がることもない。
ヴィーラは瞬きを一度しただけだった。
「……そうですわね」
考える間。
誤魔化す間ではない。
「ずっと、聞かれるのを待っていた気もします」
そう言って、妖精の方をちらりと見る。
『……言う?』
『……もう、いいんじゃない?』
ひそひそとした声。
ルイは、そのやり取りをはっきり聞いた。
聞こえたという事実が、もう答えだった。
ヴィーラは、椅子から立たなかった。
逃げない。
威圧しない。
ただ、こちらを見る。
「……私は、竜ですわ」
その言葉は、重くも軽くもなかった。
脅しでも、告白でもない。
名前を名乗るような自然さ。
ルイの胸の奥で、何かが音を立てた。
恐怖ではない。
理解だ。
「父も、母も」
彼女は続ける。
「兄も」
一拍。
「私たちは竜ですわ。この屋敷は、竜の巣ですの」
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




