21 午後の気配
午後の屋敷は、昼よりも少しだけ油断が深い。
光が傾き始め、風が気まぐれに回廊を抜ける。
妖精の羽音もさっきより遠い。
ヴィーラは、廊下を歩きながら足を止めた。
――気配が違う。
音ではない。
匂いでもない。
ただ、空気の張りがわずかに変わっている。
彼女はそのまま治療室の扉を押した。
◇
ルイは、起き上がっていた。
昨日よりずっと楽そうな顔で寝台の縁に腰掛けている。
ただし、足はまだ床についていない。
「……勝手に、起きました」
見つかったことを自覚して、先に言い訳をする。
ヴィーラは一瞬だけ目を瞬いた。
「そんなことでは怒りませんわ」
そう言いながら、部屋に入る。
妖精が二匹、慌てて背後に回った。
何もなかったふりが今日は少し下手だ。
「……立てそうですか? 体調が良くなったのならいいことですわ」
「……たぶん」
たぶん、という言葉に彼自身が少し不安そうな顔をした。
ヴィーラは、寝台の横まで行き黙って手を差し出した。
引くためではなく支えるための手。
ルイは一瞬ためらってからその手を取った。
軽い。
思っていたよりもずっと。
体重の話ではなく、生き方の軽さだとなぜかそう思った。
足が床についた瞬間、ルイの肩がわずかに揺れた。
ヴィーラは、言葉を挟まない。
支え方も変えない。
彼が自分で立ち直るのをただ待った。
「……大丈夫です」
そう言ってから彼は少しだけ胸を張った。
その仕草が年齢よりも少し幼く見えて、ヴィーラは視線を逸らした。
「今日は、ここまでにしましょう」
「……はい」
素直な返事。
彼はもう一度寝台に腰を下ろし、深く息を吐いた。
しばらく沈黙が続く。
重くはない。
けれど何かが言いかけのまま、宙に浮いている。
ルイがぽつりと言った。
「……外、見てもいいですか」
質問というより、確認だった。
ヴィーラは頷く。
彼女は窓を少しだけ開けた。
風が入る。
草と土の匂い。
ルイは、窓の外を見つめた。
「……ここはどこなんですか?」
「山の向こうですもの」
「……街とは、違う」
「えぇ」
違う、という言葉に含まれるものを二人とも説明しなかった。
その時、廊下の向こうで足音が止まる。
「……もう起き上がっているのか」
お兄様の声。
「えぇ」
ヴィーラが答えると扉は開かないまま沈黙が落ちた。
数拍の後。
「……無理をさせるな」
「分かっていますわ」
それだけで気配が離れる。
ルイは、少しだけ笑った。
「……見張られてますね」
「お兄様は意外と心配性なんですの」
言い切ると、彼は小さく頷いた。
その反応がなぜか自然だった。
夕方が近づく。
光が赤くなり、部屋の影が伸びる。
ルイは、再び寝台に横になった。
今度は自分から。
「……ここ、不思議です」
「どうして?」
「……怖いはずなのに怖くない」
ヴィーラは答えなかった。
代わりに、窓を閉め、椅子を引いて腰掛ける。
彼の視線が彼女を追う。
「……ヴィーラは」
「はい」
「……いつも、こうなんですか」
こうという言葉が曖昧なまま、宙に残る。
ヴィーラは少し考えた。
「……昔は、違いましたわ」
「今は?」
「今は……慣れてきましたの」
何にとは言わない。
彼はそれ以上聞かなかった。
外で、風が強くなる。
妖精が一匹、カーテンを押さえに行き、また戻る。
ルイは、それを見て目を細めた。
「……やっぱり、変ですね」
「そうですわね」
否定しない。
それが、今日の正解だと思った。
夕暮れが部屋を満たす。
ルイの呼吸がゆっくりと落ち着いていく。
眠りに入る直前、彼が小さく言った。
「……ここに来て、よかった」
声は、ほとんど音になっていなかった。
ヴィーラは返事をしなかった。
ただ、椅子から立たずその場にいた。
午後の終わり。
夜には、まだ早い。
それでも確かに時間は前に進んでいた。
静かに。
逃げ場を作らない速さで。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




