19 同居人
朝の時間は、静かに進んでいた。
少年――ルイは、まだ寝台の上にいた。
完全に起き上がれるほど回復してはいないけれど、意識ははっきりしている。
私は、部屋の端の小さな卓で、温かい飲み物を用意していた。
◇
湯気の立つカップ。
香りは弱め。
刺激の少ないもの。
お父様の指示だ。
「最初は、味がはっきりしない方がいい」
私はそれを忠実に守っている。
カップを盆に乗せて、寝台のそばへ行く。
「……お腹は、空いていませんか?」
ルイは一瞬迷ってから、小さく首を振った。
「……まだ……」
「そうですわね」
それで終わり。
無理に勧めない。
私は、カップを寝台脇の台に置いた。
「飲みたくなったら、少しずつ」
ルイは、それを見て、ほんのわずかに肩の力を抜いた。
部屋の扉が、軽くノックされる。
「入るよ」
お母様だった。
白銀の髪をゆるくまとめ、いつものように穏やかな顔。
でも、目はきちんと状況を見ている。
「……起きてる?」
ルイは、反射的に身を強張らせた。
私は、すぐに言う。
「大丈夫ですわ。この方は、お母様です」
“母”ではなく、“お母様”。
それだけで、距離が少しだけ保たれる。
お母様は、寝台から少し離れた位置に立った。
「おはよう。私はアルシェ。ヴィーラから聞いているよ。無理しなくていいからね」
ルイは、戸惑いながらも小さく頷いた。
続いて、扉の外から声。
「……生きてるのか?」
「生きてますわ」
お兄様だった。
姿は見せない。
声だけ。
「そう」
それだけ言って、気配が遠ざかる。
ルイは、目を瞬いた。
「……あの人は……?」
「兄ですわ。ライハルトといいますの」
「……優しいですね」
私は、一瞬考えてから答えた。
「……はい。とても」
◇
その間。
妖精たちは、部屋の隅でこそこそ動いていた。
水差しをそっと満たす。
シーツの皺を直す。
床に落ちた小さな埃を、風で掃く。
――音を立てないように。
ルイは、最初は気づいていなかった。
でも。
水差しが“勝手に”動いた瞬間。
「……?」
彼の視線が、ぴたりと止まった。
空中で、ふわりと揺れる小さな影。
「……妖精?」
その一言で、部屋の空気が一瞬止まった。
妖精たちは、固まった。
『……』
『……見えてる?』
私は、思わず声を上げた。
「あなた、愛とし子ですの?!」
勢いが良すぎた。
ルイは、目を丸くした。
「……いとし、ご?」
「妖精が見える人間は、とても少ないんですの!」
『えっ?!』
『ほんとだ?』
『あれ?』
妖精たちが、ざわざわする。
ルイは、困惑したまま、正直に言った。
「……昔から……たまに……」
私は、はっとして、すぐに声の調子を落とした。
「……失礼しましたわ。驚かせてしまいましたね」
ルイは、少し考えてから、首を横に振った。
「……いいえ」
そして、ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
「……ここ、変わってます」
私はちょっと笑った。
「……そうかもしれませんわね?」
◇
その後は、何も起きなかった。
劇的な会話も、約束もない。
ただ。
ルイは水を少し飲み、
妖精たちは仕事に戻り、
お母様は必要な物を整え、
私は椅子に座った。
誰も、急がなかった。
◇
昼前。
ルイが、ぽつりと言った。
「……あの」
「はい」
「……ここに、いても……いいんですか」
私は、一拍も置かずに答えた。
「もちろんですわ、ルイ」
その言葉は、軽くもなく、重くもなく。
“今”として、ちょうどいい重さだった。
ルイは、ゆっくり目を閉じた。
逃げるためじゃない。
休むために。
私は、それを見届けてから、そっと立ち上がった。
妖精が、小さく囁く。
『……いい人ですね』
私は、小さく頷いた。
「……そうですわね」
この屋敷に、また一つ。
静かな居場所が増えた。
それだけの話。
――けれど。
それが、これから先のすべての始まりになることをまだ誰も知らなかった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




