18 目を覚ました朝
朝の光は、静かだった。
屋敷の朝はいつもそうだ。
目覚ましの鐘も、騒がしい声もない。
ただ、窓の外で風が葉を揺らし、妖精の羽音が遠くでかすかに鳴る。
私は、椅子に座ったまま目を開けた。
……寝てしまっていたらしい。
首の後ろが少し痛い。
外套をかけられている。
お母様か、妖精か、あるいはお父様か。
私は、まず寝台を見た。
◇
少年は、目を開けていた。
完全に覚醒しているわけではない。
ぼんやりと、天井を見ているだけ。
けれど――
意識は、戻っている。
私は、思わず息を止めた。
起こしてはいけない。
でも、気づいてほしい。
でも、驚かせてはいけない。
人間の扱いは、いつも難しい。
私は、ゆっくり立ち上がり、寝台の脇へ移動した。
足音を立てないように。
影を落としすぎないように。
「……おはようございます」
声は、できるだけ小さく。
少年の視線が、ゆっくりこちらへ動いた。
焦点が合うまで、少し時間がかかる。
綺麗な銀の瞳と目が合った瞬間、びくりと身体が強張った。
私は、すぐに一歩下がった。
「大丈夫ですわ。ここは、安全な場所です」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
少年の喉が、小さく動いた。
「……」
声は出ない。
けれど、目はしっかりこちらを見ている。
警戒。
混乱。
それから――恐怖。
私は、それを正面から受け止めた。
「無理に起きなくていいですわ」
私は、椅子に座り直した。
距離を取る。
逃げ道を塞がない。
「……あなたは、交易路のそばで倒れていましたの」
事実だけ。
余計なことは言わない。
「私が見つけて、お父様を呼びました」
少年の指が、わずかに動いた。
シーツを掴もうとして、力が足りず、指が滑る。
私は、反射的に動きそうになって、止まった。
触れていいか、分からない。
代わりに、低い位置に置いてあった水差しを手に取る。
「……お水、飲めます?」
少年は、一瞬迷ってから、ほんの少しだけ頷いた。
私は、コップを両手で持ち、ゆっくり差し出す。
近づきすぎないように。
でも、届く距離で。
少年は、震える手でコップを受け取った。
うまく持てず、水面が揺れる。
「……少しずつで」
そう言うと、彼は従った。
一口。
喉が鳴る。
その音を聞いて、胸の奥が少しだけ緩んだ。
水を飲み終えると、少年はコップを持ったまま動かなくなった。
逃げない。
でも、安心もしていない。
私は、無理に話しかけないことにした。
代わりに、言葉を置く。
「ここでは、何もしなくていいですわ」
少年の眉が、わずかに動いた。
「……怪我は、もう大丈夫です。しばらくは、休む必要がありますけれど」
それを聞いて、彼はゆっくり視線を落とした。
自分の身体を見るように。
包帯。
清潔な寝台。
血の匂いは、もうない。
混乱が、少しだけ和らぐのが分かった。
◇
しばらくして、少年が口を開いた。
「……」
声が、掠れている。
私は、身構えた。
名を聞かれるかもしれない。
理由を問われるかもしれない。
でも、出てきたのは――
「……ここは……」
それだけだった。
「私の家ですわ」
正確ではないが、嘘でもない。
「……ここにあなたを傷つける人はいません」
少年は、それを咀嚼するみたいに、少し黙った。
「……」
何かを言いかけて、やめたようだった。
私は、待った。
刺繍の時みたいに。
糸が絡まるのを、無理に引かないように。
◇
しばらくして、少年は小さく息を吐いた。
「……」
それから、かすれる声で言った。
「……ありがとう」
とても小さい。
でも、確かにそう言った。
私は、思わず目を瞬いた。
「……どういたしまして」
それしか言えなかった。
感謝を向けられる準備は、していなかったから。
◇
扉の外で、気配がした。
お父様だ。
入ってはこない。
でも、そこにいる。
見守っている。
私は、少年に視線を戻した。
「……私はヴィーラと言いますの」
少年の目が、わずかに見開かれる。
「あなたのお名前は?」
少年は、しばらく私を見てから、ゆっくりと口を開いた。
「……ルイ」
それは、彼にとっても。
私にとっても。
新しい時間の、始まりだった。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




