17 目を覚まさない少年
屋敷に戻った時には、空がすっかり暮れていた。
夕方と夜の境目。
風が冷え始める、あの時間帯。
お父様は、少年を抱いたまま迷いなく屋敷へ入った。
お母様も、お兄様も、妖精も、何も聞かない。
聞かなくていいと、全員が分かっている。
寝室ではなく、客間でもなく――
治療用の部屋。
私は、少しだけ遅れて入った。
◇
少年は、寝台に横たえられた。
小さい。
思っていたより、ずっと。
年は……私と同じくらいか、少し下か。
痩せていて、骨の形が分かる。
服は擦り切れていて、ところどころ血が乾いている。
短い濃紺の髪にも血がこびり付いていた。
お父様は、外套を脱ぎながら短く言った。
「傷は深くない。だが、時間が経ちすぎている」
私は、喉が鳴るのを感じた。
「……助かりますの?」
「生きている。そこは確かだ」
言い切りだった。
だから私は、そこで一度だけ息を吐いた。
お父様は、少年の背中の傷を確かめる。
血は止まっている。
でも、熱がある。
「脱水と感染だな」
淡々とした声。
判断が早い。
治療魔法が、静かに流れ込む。
光は強くない。
竜の里の儀式みたいな派手さもない。
ただ、必要な分だけ。
私は、寝台の脇に立ったまま動けなかった。
しばらくして、お父様は魔力を引いた。
「峠は越えた」
その一言で、膝が少し緩んだ。
「……目は、覚ましますの?」
「今夜は無理だろう」
「……そう、ですわね」
私は、少年の顔を見る。
汚れを拭ってもらった顔は、思ったより整っていた。
睫毛が長く、眉はまっすぐで――
眠っているだけなら、普通の子供に見える。
でも、胸の上下は浅い。
私は、外套の袖を握った。
お父様は、淡々と答えた。
「今は、生きていることが先だ」
私は、頷いた。
◇
夜になっても、私は部屋を離れなかった。
妖精が水を替え、布を取り替え、静かに出入りする。
少年は、時々苦しそうに眉を動かすが、目は開かない。
私は、椅子に座って、ただ見ていた。
刺繍をする時みたいに。
糸の流れを追う時みたいに。
何もしない。
でも、目を離さない。
「……」
不意に、少年の指がわずかに動いた。
私は、反射的に身を乗り出す。
「……?」
でも、それだけだった。
呼吸は、少しだけ安定している。
私は、そっと椅子に座り直した。
◇
その頃、屋敷の別の部屋。
ライハルトは、腕を組んで立っていた。
「……拾ったんですか」
「拾った、というより……見つけた」
アランが答える。
「交易路だ。放っておけば死んでいた」
「人間でしょう」
「そうだ」
短いやり取り。
でも、空気は張っている。
「……危険じゃないんですか?」
ライハルトの声は低い。
心配と警戒が混じっている。
「今は動けないだろう」
「今じゃなくてその先です!」
お父様は、一拍置いた。
「……ヴィーラが見つけた」
その一言で、お兄様は黙った。
少しの沈黙。
「……あいつ」
「自分で判断した」
「……」
ライハルトは、舌打ちしそうになって、やめた。
「……無茶はしてないんですね」
「していない。だから私を呼んだ」
ライハルトは、深く息を吐いた。
「……あいつ、成長してるな」
それは、認める言葉だった。
◇
夜半。
私は、まだ少年のそばにいた。
灯りは落とされ、部屋は静かだ。
窓の外で、風が木を揺らす音だけがする。
私は、少年の手を見た。
細い。
でも、指の形はしっかりしている。
――生きてきた手だ。
私は、そっと呟いた。
「……目を覚ましたら」
声は、誰にも届かないくらい小さい。
「……何も、無理に話さなくていいですわ」
返事はない。
でも、呼吸は続いている。
それで、十分だった。
◇
少しして、扉が静かに開いた。
お兄様だった。
「……まだ起きてるのか」
「……はい」
お兄様は、部屋を一瞥してから、少年を見る。
「……生きてるな」
「はい」
「それでいい」
それだけ言って、壁にもたれた。
しばらく、二人とも黙っている。
「……お前」
「はい」
「偉かったな」
私は、首を傾げた。
お兄様が私を褒めるなんて珍しい。
「……?」
「お前が助けなかったらこの人間は死んでいただろ」
「……はい」
わしゃわしゃと私の頭を撫でて。
お兄様は、それで満足したらしい。
「じゃあ、俺は戻る」
「……はい」
扉が閉まる。
お兄様はなんだかんだ私にはとても優しい。
◇
私は、再び少年を見る。
名前は、まだない。
過去も、知らない。
でも。
この屋敷で、今夜は生きている。
それだけで、十分だと思った。
私は、椅子に深く座り直した。
「……おやすみなさい」
誰に向けたのか分からない言葉。
灯りの中で、少年の胸が、静かに上下していた。
夜は、まだ長い。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




