14 刺繍の時間
朝の街は、昨日より少しだけ静かだった。
人の数が少ないわけじゃない。
音が、まだ目を覚ましていない感じがする。
私はフードを深く被り、外套の前を軽く押さえながら歩いた。
一歩一歩、靴裏の感触を確かめるように。
◇
布屋の前に立つと、先週と同じ色の布が風に揺れていた。
赤、青、緑、金、紫。
光の当たり方で、全部ちがう。
私は一拍置いてから、戸口を叩いた。
「……ごめんくださいませ」
「開いてるよ」
中から、昨日と同じ声。
私はほっとして、戸を押した。
店の中は、糸の匂いがした。
新品の糸と、使い込まれた布と、少しだけ油の匂い。
マリアナは、もう仕事をしていた。
髪を雑にまとめ、布に向かって針を動かしている。
「来たね」
「……はい、もちろん。お約束ですもの」
「そうだね」
その言い方は軽い。
でも、にこりと微笑まれて悪くないと思った。
◇
「まずは、これ」
マリアナは、小さな刺繍枠と布切れを差し出した。
前より、ずっと地味な布だ。
「練習用。売り物じゃない」
「……売り物の方が緊張しますわ」
「最初から緊張されても困る」
私は素直に受け取った。
布を張る。
糸を通す。
針を持つ。
人間の道具は、どれも小さい。
竜の爪より、ずっと小さい。
「指、出して」
「……はい?」
「ほら」
マリアナは、私の手を取り、指先をひっくり返した。
「前も言ったけどここ。指の腹で押す。爪の近く使うと泣くことになる」
「……泣きませんわ」
「泣く」
「泣きませんわ!」
言い合いながら、私は言われた通りにやってみる。
針が、布を通った。
すっと。
引っかからずに。
「……通りました」
「でしょ」
マリアナは、勝ち誇った顔をした。
私は悔しいけど、ちょっとだけ納得した。
最初の模様は、線一本だった。
まっすぐ。
一定の間隔で。
揃える。
簡単そうで、難しい。
「……歪みましたわ」
「歪むよ。最初は」
「……恥ずかしいですわ」
「誰も見てない」
言われて、周囲を見回す。
確かに、誰も私を見ていない。
店の中には、布と糸と、仕事の音だけ。
私は、少し肩の力を抜いた。
途中、店の奥から声がした。
「マリ、これ頼まれてたやつ出来てるよ」
年配の女性が顔を出した。
手には、洗い立ての布袋。
「ああ、そこ置いといて」
女性は、私を見る。
「……あら」
私は反射的に背筋を伸ばした。
「お弟子さん?」
「違う」
マリアナが即答する。
「週一で来る変な子」
「……変な子ですわ」
否定しきれなくて、そう言った。
女性は、ふっと笑った。
「手、きれいね」
「……ありがとうございます」
「刺繍するなら、手は大事にしなさい」
「……はい」
それだけ言って、女性は帰っていった。
私は、少しだけ不思議な気分になった。
注意されたのに、嫌じゃない。
◇
また針を動かす。
線が、少しずつ揃っていく。
「……楽しいですわ」
「でしょ」
マリアナは、また同じ返事をした。
「人間の仕事はね、時間をかけた分だけ形になる」
マリアナは、布を畳みながら言った。
「でも、こういうのは力いらない。続けるだけ」
続ける。
その言葉が、胸に残った。
◇
昼前、マリアナは私の刺繍を覗き込んだ。
「……うん」
「……どうですの?」
「悪くない」
それは、かなりの褒め言葉らしい。
私は、胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じた。
「じゃあ今日は、これで終わり」
「……もう?」
「集中力、切れてるでしょ」
人間に見抜かれていた。
ちょっと悔しい。
◇
私は、約束通り糸を一本買った。
深い紫に、銀が少し混じった色。
「……これ」
「派手だね」
「……好きですわ」
「ならいい」
短いやり取り。
でも、それで十分だった。
「来週も来る?」
マリアナが、さりげなく聞いた。
私は一拍も置かずに頷いた。
「……はい」
「じゃあ、また来週」
それは、約束というより予定みたいな言い方だった。
それが、ちょうどいい。
◇
店を出ると、街はもう目を覚ましていた。
私は、いつもの屋台に立ち寄る。
「あら、また来たの」
女主人が、すぐに気づいた。
「……はい」
「今日は一本でいい?」
「……はい」
串焼きを受け取って、かじる。
やっぱり、おいしい。
「気に入ったねえ」
「……はい」
それを認めるのが、今日は少しだけ恥ずかしかった。
◇
帰り道。
私は、外套の内側で糸を指で確かめた。
細くて、軽くて、頼りない。
でも。
これで、何かを作れる。
私は、歩きながら思った。
街は、まだ少し怖い。
音も多いし、視線もある。
でも。
ここには、名前を呼んでくれる人がいる。
教えてくれる人がいる。
おいしいものを焼いてくれる人がいる。
それは、思っていたよりずっと――
「……悪くありませんわ」
小さく呟いて、私は歩いた。
転ばずに。
自分の足で。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




