12 許可
翌朝、私は何事もなかった顔で起きた。
妖精たちはいつも通り私の外套を整え、いつも通り羽音を立て、いつも通り「おはようございます」と言った。
私もいつも通り「おはよう」と返した。
けれど胸の奥だけが、昨夜の“ひび”を覚えていた。
鏡の前で口にした言葉。
確かめるように並べた、あの“名”
……私は、何と言ったんだったっけ?
覚えているのに、意味が分からない。
分からないのに、舌だけが知っている。
気味が悪かった。
だから私は、何も考えないことにした。
考えない、というのは得意だ。
竜だから。
◇
それからの時間は、薄い布を何枚も重ねるように積み重なった。
歩ける距離が増え、転ぶ回数が減り、外套の重さが当たり前になり、指先の細さにも慣れた。
人の形で過ごせる時間は、朝から昼へ、昼から夕へと伸びていく。
魔力で人間の衣服を織り上げる術も使えるようになった。
そしていつしか、私は「人型のヴィーラ」として屋敷の中を歩くことが増えた。
竜の姿は、飛ぶ時と、眠る時と、どうしても気分が落ち着かない時だけ。
それが寂しいというより、少し照れくさかった。
自分が変わっていくのが、嬉しいのに怖い。
◇
ある日の夕方。
庭の芝に影が伸び、風が冷たくなり始めた頃。
私は一人で走る練習をしていた。
体力は竜のものだし歩くのは平気、走る時に慌てたらたまに足が絡まってしまうくらい。
「……上手くなったな」
背後から声がする。
振り向くと、お父様がいた。
手には湯のみ。
いつものように、どうしてそんなに落ち着いていられるのか分からない顔。
「当然ですわ」
「うん。……そうだな」
お父様は、湯のみを片手に言った。
「明日から、ひとりで街へ行っていい」
私は、瞬きを忘れた。
「……え?」
声が変な裏返り方をした。
お父様は笑わない。
確認するように頷くだけだ。
「短時間だ。日が傾く前に帰ること。買い物は必要な分だけ。知らない場所には入るな。困ったら、すぐ戻る」
条件が並ぶ。
条件が並ぶということは、許可だ。
私の胸の奥で、何かがぱっと明るくなった。
火花じゃない。小さな灯り。
ずっと息を潜めていた灯りが、やっと空気をもらったみたいに。
「……ほんとうに?」
「ほんとうに」
私は、気づいたらお父様の外套の袖を掴んでいた。
昔、初めて街へ行った時みたいに。
「……どうして、急に」
「急じゃない。お前はずっと準備してた」
お父様は私の手を見て、視線を上げる。
「人の姿で一日保てるようになった。体の使い方も安定してる。街の音にも何度か行ってもう怯えないようになっただろう」
「……怯えますわ」
「怯えても、逃げない」
その言い方が、なぜか嬉しくて、悔しかった。
褒められているのに、試されているみたいで。
私は唇を噛んで、ちゃんと頷く。
「……1人で行ってみます」
「うん」
お父様の返事は静かだった。
静かすぎて、逆に重かった。
◇
夕食の席でその話をすると、反応は予想通りだった。
「いいね」
お母様は即答した。
即答しすぎて、私は逆に不安になる。
「……いいんですの?」
「うん。世界を見なきゃ。あなたの世界をあなたが決めるために」
お母様はそう言って、カップに口をつける。
言ってることは立派なのに、口調はいつも通り軽い。そこが怖い。
お兄様は、露骨に不機嫌になった。
「早い」
またそれだ。
お兄様は案外、家族の他の誰より過保護だ。
時には妖精たち以上に。
「早くありませんわ。お父様が許可してくださいました」
「父上は甘い」
「甘くありません!」
「甘い」
「お兄様の基準が厳しすぎるだけですわ」
私が言い返すと、お兄様は鼻で笑った。
でも、その笑いはいつもより硬い。
「……街で余計なことを聞くな」
一瞬、胸の奥がひびの方へ寄った。
「……余計なこと?」
「フランク王国とか」
その名前が出た瞬間、空気が一拍止まった気がした。
お父様の手が、わずかに止まる。
お母様は止まらない。
ただ目だけが少し細くなる。
私は、平然を装うのが下手だ。
だから黙ってしまった。
お兄様はそれを見て、舌打ちする代わりに低く言った。
「……何かあったら護身の術を忘れるなよ。あと必ず名前を呼べ」
「……お兄様のですの?」
「俺のでもいい。父上でもいい。母上でもいい」
それはつまり、助けを呼べという意味だ。
守り方が、兄らしい。
私は小さく頷いた。
「……分かりましたわ」
「声を出せ。変に格好つけるな」
「格好つけてませんわ!」
「つけてる」
「つけてませんわ!」
いつものやり取りに戻って、ようやく呼吸ができた。
私は、食卓の下で手を握りしめる。
明日。
ひとりで街へ行く。
嬉しい。
怖い。
でも、嬉しい。
◇
その夜、私は寝室で髪を梳いていた。
櫛は美しい螺鈿の装飾が施されたもの。
お父様が買ってくれたお気に入りだ。
鏡の中の私。
深紫に銀の髪。濃紺の瞳。
そして首筋。
触れると、昨夜の“ひび”が鳴る気がして、指を近づけるのをやめた。
代わりに、私は小さく息を吐く。
「……明日は、普通にしますわ」
普通、というのは便利な言葉だ。
分からないことを全部布で包んで、見えないふりができる。
そこへ、扉が軽く叩かれた。
「入るよ」
お母様だった。
白銀の髪が、部屋の灯りを吸って淡く光る。
夜なのに、月が来たみたいだ。
「明日、楽しみ?」
「……楽しみですわ」
「うん」
お母様は私の髪を一房つまんで、指先で撫でる。
「ねえ、ヴィーラ」
「はい」
「“真名”のこと、気になる?」
私は一瞬、呼吸を忘れた。
随分前に舌が勝手に並べた“名”
あれは、なんだったのか。
でも私は、首を振った。
勢いよくではない。
慎重に、壊れ物を扱うみたいに。
「……一度ちゃんと分かったのです。でもまたわからなくなってしまいましたし今は、いいですわ」
お母様は、すぐには頷かなかった。
ただ、少しだけ目を細くした。
「いい子」
その言葉が、やけに熱かった。
「真名はね、竜にとって“核”みたいなもの。軽い気持ちで触れると熱が出る。痛む。あなたが変だと感じるなら、それは触ってる証拠」
私は喉が鳴った。
「……じゃあ、私は」
「今は、まだわからなくていい」
お母様は、私を守るために言っている。
「あなたが自分で“欲しい”と思った時に、自分で取りに行けばいい。真名は、誰かに教えてもらうものじゃない」
私は、こくりと頷いた。
「……はい」
お母様は、私の額に指先を当てた。
ひんやりして、でも安心する。
まだまだ幼い私の魔力がお母様に綺麗に整えられていく。
「明日、楽しいものを見ておいで。宝石でも布でも、刺繍でも。あなたが好きなものをたくさん拾ってきなさいな。美しいものが好きでしょう? あなたは私に似ているもの」
私は小さく笑った。
「……串焼きも?」
「それも」
お母様はさらりと言って、扉の方へ向かう。
「生きて帰ってきてね」
「縁起でもありませんわ!」
生きて帰る。
それは小さい頃からのお母様との約束であり、私の世界の境界線だ。
◇
翌朝。
妖精たちは祭りの前みたいに忙しかった。
フードは深く、外套は動きやすく、財布は落ちにくい位置へ。髪は目立たないようにまとめられる。
『お嬢様、今日は爆発しませんよね?』
『……街で爆発は困ります……』
「爆発しませんわ」
『昨日も……』
火花が散った程度の魔力爆発なのだからそこまで心配しなくてもいいのに。
「今日はしますわよ」
『しないでください!?』
妖精が本気で泣きそうになるので、私は咳払いして真面目な顔に戻した。
玄関で、お父様が待っていた。
「よし」
短く言って、外套の紐を結び直してくれる。
その手つきが手慣れていて、私は少しだけ胸がきゅっとした。
「……お父様」
「ん?」
「……ありがとうございます」
「何の礼だ」
「……許可の」
お父様は一拍置いて、笑った。
「許可じゃない。お前の番だ」
番。
私の番。
世界を見に行く番。
自分で歩く番。
私は玄関の外へ踏み出す。
冬の空気が、頬に触れる。
屋敷の静けさが背中に残る。
そして前方に、交易路へ続く道。
私は、外套のフードを直して、小さく言った。
「……行ってきますわ」
背後で、お父様が答えた。
「いってらっしゃい、ヴィーラ」
その声に押されるように、私は歩き出した。
ひとりで。
でも、ひとりきりではなく。
胸の奥の“ひび”はまだある。
けれどもうそれはしばらく忘れてしまおう。
今日の私は、拾う。
布と、宝石と、刺繍と。
人間の世界の、きらきらした欠片を。
そして何より。
自分の足で、道を。
※完結まで毎日投稿です。
よろしくお願い致します。




