番外編 おまじない
るうあ様より、「おでこをコッツンする二人をお書きなさい!」と指令を承り、おまけ話を追加です。
リクエストをくださって、ありがとうございました、るうあ様!
見るべきではなかった。
三潮は己の耐性の無さ、加えて十和の母の趣味を甘く見ていた。
普段よりもずっと白くなった顔で、血の溜まった洗面器を抱え、彼は低くうめく。
十和の親は、大の映画好きであった。それも、ホラー映画が。
わざわざ『シャイニング』のディスクを購入しているのだから、その執着具合は推して知るべし。
風呂上りの一杯のお茶を求めたばかりに、彼はホラー映画鑑賞へ巻き込まれた。
「みっちゃん先生も一緒に観ませんか?」
十和によく似た笑顔の彼女は、薄暗いパッケージをかざしながら、そんな恐ろしい提案をして来たのだ。この女は正気か、と彼は心底疑った。
秘密結社に拉致され、追われ続けたという非常識な人生を送って来たにもかかわらず、彼はホラー映画の類が不得手だ。
いや、不条理な経験を重ねたからこそ、誰よりも怪奇現象を「起こりうるもの」として知覚するのかもしれない。
「みっちゃんの顔って、素のままで幽霊役が出来そうなのに。もったいないっすよ」
などと生徒たちからは惜しまれているが、大きなお世話である。
だが十和も、おまけに十和の父も、このホラー観賞には乗り気であった。映画鑑賞を断り、たった一人で自室──旧・十和の兄の部屋──へ引きこもる方が、かえって怖い。
うっかり尿意を催して一階へ下り、山場に出くわそうものなら卒倒するかもしれない。
恐怖心を何とか抑え込み、ソファの隅に腰掛けていたものの、映画の衝撃は前述の通りであった。
見たものを一週間後に呪い殺すビデオ、という主要アイテムからして恐ろしい。
そのビデオの映像がまた、どこまでも薄気味悪いのだ。ノイズ混じりで画質の荒い、暗い色味が更に不快感を煽る。
この時点で三潮の口からは、一筋の血が流れていた。だが、まだティッシュだけで事足りた。
怯える三潮を尻目に、主人公の女性と彼女の元夫は、呪いの元凶を探して孤島へ赴き、挙句の果てに古井戸へ潜った。
馬鹿なのか、こいつらは。
死期が迫っているのだから、大人しく余生を過ごせばいいではないか。
そう思うとゴプリ、と吐血の第二波があった。
隣に座る十和の父が、驚いてソファから落ちたが、この時も何とか乗り切れた。
なお十和は、呆れ顔で父を立たせ、三潮の首回りをタオルで拭い取っていた。
そしてとうとう耐え切れなくなったのが、終盤。主人公の元夫が、奮闘空しく呪いに絡みとられるシーンであった。
一週間という期限を迎えた途端、泡でも吹いてコロリと死ねばいいのに、映画スタッフたちはどこまでも手を抜かない。
テレビから、呪いの元凶である超能力者の女性が出て来たのだ。それも長い黒髪を前に垂らしたまま、爪の剥がれた白い手でほふく前進して。
超能力者という点では同類だが、この女には勝てる気がしなかった。さすがにテレビからは、三潮も出て来られない。
恐怖が頂点に達し、彼の口からは勢いよく血が噴き出た。
しかしあまりにも震えあがっていたためか、血は霧状となり、十和の父まで真っ赤に染めた。
「先生の方が怖いよ! 一度お医者さんに診てもらって下さい!」
とは、涙声で叫んだ彼の弁である。
その後もあれやこれやと展開はあったのだが、もはや記憶はおぼろげ。
気が付いた時には映画は終了し、居間に残っていたのは放心した三潮と、十和だけであった。
「先生、動けますか?」
少し離れて隣へ腰かけ、十和が小首をかしげる。
タプタプと鮮やかな赤い体液が溜まった洗面器を見下ろし、三潮は地を這う声でささやいた。
「いざとなれば、部屋まで飛ぶ」
「動けないんですね」
「下半身が不自由なだけだ」
「腰が抜けた、と言うんですよ」
少し呆れたように、十和は肩を落とす。サラリと揺れる黒髪を横目ににらんで、三潮は早口にまくし立てた。
「では訊こう。お前たちは何故、あのような恐ろしいものを見た後で、平然と振る舞っていられる? いや、そもそも何を思ってあれを観た?」
「だって、映画という作り物ですもの。先生が怖がり過ぎなんですよ」
芸術家って多感ですね、と十和は感心半分、困惑半分の表情だ。
それでも彼が落ち着くのを待ってくれる少女を、眩しそうに見据える。
「お前の寛容さが羨ましい。私は、恐らく夢にあの女を見る……そして一週間は全国の貞子を、深く憎むだろう……そういえば、三年生にも一人いたな」
「八つ当たりは止めて下さい。あの貞子さんも、好きで井戸に落ちたわけじゃないんですから」
三潮の顔をのぞきこむようにして、十和が苦笑する。たしなめるような笑顔のまま、彼女は形の良い額をこつん、と三潮の皮膚の薄い額へ重ねた。
わけが分からず、彼はそのまま、硬直する。
しばらくの後に額を離し、十和は照れくさそうに微笑んだ。
「おまじないです。怖い夢を見ないよう、悪夢の種を吸い取りました」
「すまん」
咄嗟に口癖が滑り出たが、すぐさま三潮は、切れ長の目を見開く。
「いや、それでは駄目だ! 十和の夢へ、あの不自然なまでに白装束の女が現れる! 悪夢など吸い戻す!」
骨ばった両手で、十和の腕を掴んだ。ふんわり、と柔らかく温かい感触が伝わる。
「大丈夫ですよ、貞子さんはそこまで怖くないですから。あの白装束も、舞台衣装らしく、て……」
コロコロと笑っていた十和だったが、その声は尻すぼみとなった。視線も左右へ、彷徨っている。
挙動不審となった彼女をいぶかしみ、ようやく三潮は冷静さを取り戻した。
自分は今、彼女の体をつなぎとめ、再び額を寄せようとしていた。
しでかそうとした事の大胆さへ思い至り、三潮は耳まで真っ赤に染める。
「す、すまっ」
喉の奥からうめき、思いきりのけぞった。十和も赤くなった己の頬を両手で挟み、ふるふると頭を振っている。
申し訳なさで、再び謝罪をしようとしたが、声の代わりにかすれた咳が漏れ出た。
いや、それは咳ではなく、呼吸の仕方を忘れた、喉の発する悲鳴であった。
「やだ先生! 吸ってばかりじゃ駄目ですってば、ちゃんと吐いて! ほら、深呼吸!」
過呼吸を起こした三潮へ、十和は大慌てで紙袋を握らせる。そうして硬い背中を、ゆっくりと何度もさする。
「どうして先生の驚き方って、こんなに多種多様なんですっ」
自分でも分からないため、三潮も小さく首を振るより他なかった。
頼りなく眉を寄せる彼へ、十和は少し困った笑みとなる。
「先生の方が貞子さんより衝撃的ですね、色々と」
「それは、喜べるのか?」
荒れ狂う息の中で、どうにかそれだけ尋ねる。
「少なくとも寝る前に思い出すのは、過呼吸を起こして、涙目になった先生だと思います」
どうせならば、もう少し頼りがいのある姿を思い出して欲しいものだが。
「十和の夢に出られるなら、いい」
高望みはせず、低い声で喜ぶ。呼吸を整え、脂汗のにじんだ顔を持ち上げる。
すると、大輪のバラのような笑みが、すぐそばにあった。
幸い三潮も、今夜は悪夢を見ずに済みそうだ。
どうやら、先生の新居はまだ決まっていない模様です。




