番外編 先生、引きこもる
一応、後日談めいたものです。
「先生。鶴菱先生。出て来て下さい」
十和が元兄の部屋、現三潮の部屋の前に立ち、控え目にノックする。
「……鶴菱は不在だ」
辛抱強くノックと呼びかけを続けていると、中からうめくような声が返って来る。
「不在だ、じゃありません。喋っている時点で、在室と証明しているじゃないですか」
呆れた様子の十和であるが、怒っているわけではないらしい。むしろ、困ったものだ、と言いたげに小さく笑っている。
「間違いなんて、誰だってするんですから」
「しかし私は、二度も過ちを犯した。もう、十和に顔向け出来ない」
先ほどよりも硬い声音が、自虐気味に吐き捨てる。
それきり、ノックをしても返事はなかった。
「うーん……瞬間移動で、家出しちゃったかしら?」
肩を一つ落とし、十和は一時撤退する。
一階の台所へ降りると、八重がぎこちない手つきでジャガイモの皮むきをしている。本日、露芝家へ泊りに来ているのだ。そして今晩のメニューはカレーである。
八重は包丁とじゃがいもを置き、十和へ目を合わせる。
「みっちゃんどうだった?」
「二回も間違えちゃったから、顔向け出来ないですって」
「二回?」
さっと流しで水洗いをし、八重はテーブルに手を付いた。彼女と十和の視線は、テーブルに置かれたカレーの材料に注がれている。
ニンジンやタマネギ等と並んで、ニンニクのチューブが置かれていた。
しかし隣に置かれた、十和作の買い物リストには「ニンニク(一玉)」と記されている。
露芝家のカレーでは、みじん切りにしたニンニクが必須となっている。チューブではなく。
今回お使いに出たのは、三潮であった。
彼は生活能力の低さが災いし、非常に買い物が下手だった。
「みっちゃん、前もニンニク買い間違えたの?」
お団子にした茶髪を揺らし、八重は首をひねった。
同じく邪魔にならないよう、髪を一つにまとめた十和は、小さく首を振る。
「きんぴらゴボウをした時は、板こんにゃくと間違えて、炊き込みご飯用の刻みこんにゃくを買って来たの」
「それ、凄い食べ辛かったんじゃ?」
「スプーンを使ったわ」
十和の打開策に、八重もフッと吹き出す。
「でもみっちゃんだもんな。チューブとはいえ、ちゃんとニンニクの見分けがついただけ、マシじゃない?」
つられて、十和も微笑む。
「正直なところ、ワサビのチューブを買って来る事態までは、覚悟していたの」
「あの人なら、あり得る。よく買い物任せたね?」
「少しは社会勉強してもらわなきゃ」
息を一つ吐き、十和は少し眉を潜める。
「だって先生、食材を買ったことすらなかったのよ? 何年独り暮らししているのよっ」
ぺしり、と猫の手パンチでテーブルを叩く。
むっとしている彼女に反し、八重はケラケラ笑った。
「思った以上に重症だねー。まあ、今の内からしつけといた方が、後々楽ってお母さんも言ってたし。頑張んな」
「後々って、いつのことよ」
「やだなぁ。分かってるでしょー?」
にんまり笑われ、十和はむっつり視線を外す。頬が少しばかり赤かった。
照れる親友に申し訳なく思ったのか、八重はすかさず話題をずらした。
「でもさ、みっちゃんの引きこもり癖も問題だよね。前にも、授業中にすねて準備室にこもったじゃん?」
「ああ、そういえば」
「十和が卒業したら、ちょっと心配じゃない?」
「うーん」
あながち的外れでもない憂慮に、十和も低くうなった。
カレーが出来上がっても、三潮は降りてこなかった。
「ドア蹴破って、連れ出そうか? 反抗期の弟いるから、慣れてるし」
八重はそう提案してくれたが、丁重に断った。彼女の場合、本当に扉を壊しかねない。
そして十和一人で、再び部屋の前に立つ。
「先生。ご飯が出来ましたよ」
「今日は要らん」
「先生の好きな、ミョウガ入りのサラダも作りましたよ」
「い、要らん」
「ちょっと心、動いたくせに」
にわかに動揺した声に、くすりと笑う。
いつも仏頂面であるにもかかわらず、三潮は案外分かりやすい。
くすくすと笑いながら、十和はうつむいて扉へ手を添える。
「私は瞬間移動なんて便利な力、持っていないんですから」
そして、小さな声で付け加える。
「先生から出て来てくれないと、困ります」
たまには甘えてやれ、とは母と八重からの提案だったが、効果てきめんである。
顔を上げれば、隣に弱り顔の三潮が立っていた。色素が薄く、いつもながら生気や覇気に乏しいが、露芝家に来てから少しずつ血色も良くなっていた。
それでもやはり線の細い顔は、おずおずと十和を見下ろしている。こうしていると、実年齢よりずいぶん幼く見えた。
一方の十和は、ホッとしたように微笑んだ。
「本当に便利ですね」
「だが、買い物の役には立たない」
「困ったら、私のところへ戻って来てくれればいいのに」
「あ」
その発想はなかったらしい。呆然と、三潮は口を開けて固まった。
やはり分かりやすいその反応に、十和は再び笑った。
「何を笑っている」
さすがに心外だったのか、三潮は口をへの字にした。周囲を赤く染めた鋭い目で、じっと十和を見つめていている。
あなたのそういう所が好きなんです、とは素直に答えない。
言えばまた吐血し、最悪死に至りかねない。
どうごまかしたものか、と束の間悩んだ彼女の脳裏で、サラダに使った蒸し鶏が浮かんだ。
「先生を見ていて、その、『なんだか歩くササミみたい』と思ってしまって──先生?」
まばたきした瞬間に、三潮は消えていた。同時に、扉の奥から物音が。
また引きこもってしまったらしい。
「冗談ですよ、先生。冗談ですから」
慌てて扉をノックする。
「ごめんなさい、先生。出て来て下さいよ」
「鶴菱は不在だ」
「それ、さっきも聞きました」
「今は心も空っぽだ。完全なる不在だ」
「ああ、もう。本当に反省していますからっ」
この不毛なやりとりは、もうしばらく続けられた。
なおチューブのニンニクを使ったとはいえ、カレーは満点の出来であった。
どこまでも不器用な先生と女の子のお話は、これにて番外編も完結です。
お付き合いいただき、本当にありがとうございました!




