22 「体育のゴリ松が」
その爆弾は、穏やかなお昼時に投下された。
「そういやさ、みっちゃん」
弁当のおかずのナポリタンを飲み込んで、八重が三潮を見る。
十和のそぼろ入り卵焼きを味わっている三潮は口を開かず、眼力だけで続きを促す。
「体育のゴリ松が、みっちゃんのこと探してたっすよ。体育準備室に来て欲しいって」
ゴクリ。
いつもは噛みしめる卵焼きを、咀嚼半ばで思わず飲み込む。
そのまま三潮は固まった。
じわりと汗が、全身に浮き上がる。
「きゃあああああ!」
「うわあああああ!」
その汗が、少女二人の悲鳴を誘発する。
二人は椅子を倒しながら立ち上がり、お互いの身体にしがみついて絶叫している。
「赤い! 汗赤い! あんたカバか!」
「何だと」
半狂乱の八重につられて腕を見れば、赤い半透明の液体がびっちょり湧き出ている。
たまらず、三潮も顔をしかめた。
「なんと醜悪な」
「それはこっちの台詞です!」
十和もお弁当そっちのけで三潮を引っ立て、あろうことか彼の胸ぐらを掴む。
「シャツまで真っ赤じゃないですか、早く脱いで!」
「つっ、露芝の眼前で、脱げとッ?」
今度は鼻から出そうになる赤い液体を押さえこみながら、三潮は裏返った声を絞り出した。
だが今日の十和は、この程度では怯まない。恥じらわない。
「いいから早くして下さい! こんな格好では、外にも出られません!」
煽る形で、八重も賛同する。
「そうだそうだ! 出た途端、一発で職務質問受けちゃいますよー!」
二人に急き立てられるまま、三潮はくるりと背を向けて、まごまごとシャツを脱いだ。
シャツを脱ぐや否や、十和にひったくられる。シャツはそのまま画材用の洗い場で、ゴシゴシと揉み洗いの刑に処された。
十和の手つきは、慣れたものだった。
洗い場に備え付けられているレモン石鹸の香りが、辺りへふわりと漂い出す。
三潮はその匂いをかぎながら、鼻血対策用のタオルをズボンの後ろポケットから取り出し、上半身をくまなく拭いた。
黙々と動く二人を、八重は机に頬を乗せてぼんやり眺めている。そしてとりとめのない話題を、三潮へ投げかけた。
「血の汗流すって、みっちゃんの体質どうなってんすか?」
「知るか」
「やっぱカバと一緒なんですかねー。あ、意外に鍛えてるんすね」
「見るな」
ギロリと振り返ると、ニヤニヤ笑いが返された。
「見てるんじゃあなくて、視界に入って来るんですぅ」
小馬鹿にした口調がいっそう腹立たしく、三潮は舌打ちを残して姿を消す。
そして準備室内を漁り、辛うじて衣類の一種であるエプロンを被り、再び美術室へ飛ぶ。
「うわ、男の裸エプロンだ。変態臭い」
今度はこんな嘲笑が返って来て、三潮はギリギリと歯ぎしりした。
固い筋肉に薄い皮膚を被せただけの不健康な腕を、十和が遠慮がちに軽く叩く。
「何も着ていないよりは、いいですよ。ちょっと、フレディさんみたいですけど」
この場合のフレディは、悪夢に出てくる殺人鬼ではなく、ミュージシャンの方であろう。
ヒゲのフレディを思い返し、三潮は顔を歪めた。
「フレディは良いものか? 果たしてそれは、褒め言葉なのか?」
思わず十和へ食い下がったものの、あいまいな笑顔で流された。
「どうして、赤い汗なんてかいちゃったんですか?」
そしてはぐらかされる、というか核心を突かれ、ふたたびじっとり汗をかく。
幸いにして、今度は透明の汗だった。
「……ゴリ松から、立涌を美術部へ入れてくれ、と打診されていた」
苦痛にまみれた息を吐きながら、三潮は弱々しい声で語る。
なお、誰もが「ゴリ松」と呼んでいるが、体育教師の本名は「笠松」である。
あまりにもゴリラ似であるため、校内ではもっぱら「ゴリ松」で通っているのだが。
窓の手すりに引っかけたシャツを見つめ、十和もひっそり柳眉をひそめる。
「なんだか、唐突なお話ですね」
マイペースに食事を再開しながら、八重も首を傾げる。
「よく立涌とじゃれてるから、仲良しって勘違いされたんすかね?」
「誰が仲良しだ。そんな簡単なものではなく……奴の更生に助力しろ、と要請されている」
「あら。立涌くんって、そんなに不良でしたっけ?」
「女体に関する好奇心が、手に負えんらしい」
「ああ……」
「なるほど……」
苦々しい三潮の言葉に、年頃の少女二人は頬を赤くする。
それには気付かず、三潮は心底不愉快そうに言葉を続ける。
「体育の授業中にマラソンを途中放棄し、駅一つ離れた大学の女子寮へ、侵入を試みた前科もあるらしい」
「あらまぁ」
「うへぇ」
思った以上の好奇心に、十和と八重の肌は粟立った。
「生活指導担当のゴリ松も手を焼いていたところ、奴に絵の才能があると聞きつけたそうだ。そして、奴を美術部へ入部させろ、と提言して来た。そうすれば好奇心の幅が広がり、女子寮へ侵入することもなくなるだろう、という考えらしい」
今日の三潮は、やけに多弁であった。
どうやらここしばらく、ゴリ松に翻弄され続けているようだ。
「それなら、お断りしちゃいましょうよ」
心が折れかかっている三潮を見かね、十和は無意識にそう呟いていた。
八重と三潮が、ほぼ同時に目を見開き、まじまじと彼女を見る。
「今日の十和、甘い」
ピアスをいじりながら、八重が呆れたような、感心したような口調で言う。
それに少々ムッとしていると、三潮が頬を強張らせ、おずおずと十和を見つめた。
「しかし露芝は私に、いつも、しっかりしろと言っているが」
母親のご機嫌をうかがう子供のような仕草に、つい吹き出す。
「でも先生は、立涌君が苦手でしょう?」
力強く、三潮はうなずく。
「殺したい程に」
「それなら、入部させない方がいいですよ。嫌なものは嫌って言うことも、大事ですから」
「言ってもいいのか?」
「たまには、いいんですよ」
真っ直ぐな三潮の目に、十和も小さく微笑んでうなずく。
「そーそー」
八重も弁当箱を閉じつつ、鷹揚に相槌を打つ。
「しょうもないことで我慢して、また血ヘド吐いたりしたら、シャレになんないでしょ。そもそも、美術部って葦手ちゃんいるよね? あの子も嫌がるんじゃないっすか?」
はた、と三潮の脳裏に、反社会的ファッションに身を包んだ教え子が浮かび上がる。
「そういえば、そうだった……」
呟いたと思った途端、三潮の顔が険しくなる。
「みっちゃん?」
「先生?」
二人が何事か、と恐々見守る。まさか、また赤い汗を吹き出すのだろうか。
「へぶしっ」
しかし飛び出たのは、間抜けなくしゃみだった。
弛緩すると同時に、十和と八重は顔を見合わせて笑う。
ここは日当たりの悪い特別棟。上半身はエプロン一丁なのだから、寒くても当然だ。
「よく見れば先生、顔も真っ青ですね」
困り顔で笑いをこらえつつ、十和は乾燥中のシャツへ近寄る。
「あら、でもまだ生乾きですね。逆に体が冷えちゃいそう」
「そうか」
歯を食いしばって寒気を押し殺しながら、三潮はじっと、一点を見ていた。
視線の先にあるのは、薄汚いカーテン。
「それは学校の備品だから、駄目ですよ」
「……すまん」
冷やかな声で先手を打たれ、三潮はうなだれた。
そのやり取りをひとしきり堪能すると、八重はお弁当片手に立ち上がった。
「仕方ないなー。また男子から、体操服でも借りて来てあげましょう」
「ありがとう、八重ちゃん」
友人の言葉にニッと笑い返し、八重は軽やかに美術室を出て行った。
なお三人の予想通り、六斗の美術部入部は、古参部員から強固な反対を受けた。
驚いたことに、葦手を含めた全ての女子部員から「否」と言い渡されたのだ。
「ヌードモデルになれとか言われるので、絶対嫌です!」
彼女らは、異口同音にそう拒否した。
六斗の女性への好奇心に果ては見えないものの、ひとまず三潮の心と、美術部の平穏は保たれた。




