23 「うん、すねたんじゃないの?」
きゃっきゃと浮かれた声が、美術室から漏れ聞こえる。
生徒たちは油絵の具をキャンバスに塗りたくりながら、いつになく楽しげに会話をしていた。
「ほんとに楽しかったよねー」
「ねぇー。あのケーキ屋さん行った?」
「行った、行った! 見た目は地味なケーキばっかなのに、その辺のお店よりずっと美味しかった!」
持ち寄った果物で静物画を描いている少女たちは、跳ねる声で言い合った。
「お前さ、あの店行った? ほら、アメコミとか置いてる」
「あーあー! 行った! コイツと二人で」
「そうそう。ガスマスクとかも売ってたよな?」
「あったなぁ! すごかったよな、あの品ぞろえってか、店長の趣味が!」
男子生徒たちも風景画の素材である写真を片手に、熱気あふれる声で語り合っていた。
昨日、一年生の校外学習が行われたのだ。
場所は辻が花市のすぐ近くにある、ちょっとした観光スポットだった。
そこは古民家を改装した、小さな工房、商店、飲食店が並ぶ通り。
手作りの銀細工、ガラス製品、あるいは和紙を売る店もあれば、着物をリフォームしている店もあった。
風情ある建物と、若き職人たちの情熱が混ざり合う、奇妙で居心地の良い空間。そして家々に並ぶ、風変わりな商品。
それらに触れて、生徒たちはご機嫌だった。そして今もまだ、浮かれているのである。
その熱は、十和と八重にも宿ったままだ。
「あーあ。あの店のピアス、やっぱ買っときゃ良かった」
愛犬の写真をひらひらともてあそびながら、八重は口を尖らせる。
手作りのアクセサリー店にて出会った、コットン生地のレースと天然石のビーズで作られたピアスが、彼女の心残りなのだ。
十和は持参したスノードームから顔を上げ、彼女へ苦笑を返す。
「仕方ないよ、ちょっと高かったもの」
「そうなんだよねー。もっとお小遣い、持って行けば良かった……」
八重のぼやきに、十和は少し怖い顔をする。
「お小遣いの金額は決まってたでしょう? ズルは駄目です」
「ちぇっ。十和ってば頭固いなぁ」
顔をむくらせて、八重は前方の三潮を見る。
「ねえねえ、みっちゃんもそう思いますよねー?」
ガヤガヤとした空間を切り裂き、八重の通りの良い声は前方まで届いたはず、なのだが。
三潮は顔を上げなかった。
普段ならば、十和絡みのことには誰よりも早く食いつく男が、微動だにしない。
八重と十和と、そして周囲の友人たちはその異変に、首を傾げる。
「あの、先生?」
十和も声をかけるが、三潮はそっぽを向いて立ち上がった。まるで、彼女の呼びかけを拒んでいるように見える。
彼はそのまま、大股で準備室の扉まで進み、中へ引っ込んだ。
バタンッ、といつもより乱暴に扉が閉じられた。
閉じられた扉を呆然と眺めた後に、少女たちは顔を見合わせる。
「ひょっとしてみっちゃん先生……」
「うん、すねたんじゃないの?」
「だよね。だって、校外学習行ってないの、この中でみっちゃんだけだもんね」
友人たちの推測を十和は笑い飛ばそうとしたが、出来なかった。
子供じみた態度も、三潮ならば取りかねない。
しかし美術担当でしかなく、どのクラスも受け持っていない三潮が、校外学習に参加する理由なんてない。
蚊帳の外にいるのが、当然なのだ。
「団体行動が苦手そうなのに、どうしてすねるのかしら」
頬に手を添え、十和は息を一つ吐く。
「そりゃ、大好きなあんたが出たからでしょ」
ペインティングナイフでずばり、八重が指摘する。
他の友人も、それしかない、と神妙にうなずいた。
至極当然といった彼女たちの姿に、十和は悩める姿勢のまま、顔だけ赤らめる。
「面と向かって言われると、恥ずかしいのですが」
「公衆の面前で花束貰っといて、今更何言ってんのさ」
「あれも、花束になるの?」
彼岸花の束を思い出し、十和は苦い顔になる。
「毒あっても、花は花だし。いいんじゃない? 勝手に花壇から、引っこ抜いたブツだけどさ」
他人事であるため、八重はあっけらかんと笑う。
友人たちも同じく、軽い調子で十和の背中を押す。
「だからさ、さっさと先生のご機嫌取って来てよ」
「引っ込まれたまんまじゃ、さすがに気まずいでしょ?」
無責任な友人たちにされるがまま、十和はオロオロと視線を巡らす。
「ご機嫌取りだなんて……どうすればいいの?」
「チューしてあげれば?」
一人が、にやりと笑う。
「そんなことしません!」
無論十和は、真っ赤な顔で怒った。
頭から湯気が出かねない彼女を、八重が鷹揚になだめる。
「冗談だって。みっちゃんにチューは、軽く見積もって三年は早いだろうしさ。それに、したら鼻血どころの騒ぎじゃないと思うんだ……」
後半の薄ら暗い声に、十和も含めた一同は頬を引きつらせる。
キスがもたらすであろう惨状を、容易に想像出来た。
「それはそれとしてさ。ほらほら十和ちゃん、頑張って!」
暗くなった空気を一転させるように、八重はことさら明るい声を出した。
そしてググイと十和を、準備室側へ押し出す。
「頑張れって言うけれど、どうすればいいの?」
困惑顔で踏ん張る彼女の耳元に、にんまりとささやく。
「チューの代わりにさ、アレあげなよ」
「アレ?」
「とぼけたって無駄無駄。昨日、買うトコ見てたんだから」
「ひぇっ」
妙な声が、十和の喉からこぼれ出る。
途端に馬力を失った体は、八重にされるがまま押されて、準備室の扉前まで運ばれた。
周囲の生徒たちも、何事か、と八重や十和をちらちら見ている。
十和はしばらく扉の前をうろついていたが、八重にしっしと手で払われ、少々すねた顔でノックをした。ためらいがちに。
だが、返事はなかった。
十和は再びノックを繰り返す。しかし今度も、見え見えの居留守を使われた。
クラスメイトの好奇の目にさらされ、やけっぱちになっていた十和は、続いてやや乱暴に扉を叩く。
「うるさいぞッ!」
ようやく中から、極めて不機嫌そうな怒声が返って来た。
「露芝ですけど!」
思わず十和も、刺々しい声で返す。
すると、ドタドタバサバサガツンと……何かが落ちる音、軽い何かがちらばる音、身体をどこかにぶつける音が、立て続けに聞こえてきた。
「す、すまん」
音が止むと同時に扉が開き、三潮が上気した顔をのぞかせた。案の定、左膝を押さえている。そして背後には、横転するダンボールが見えた。
「露芝、その、何かあったか?」
思わず三潮の膝と、ダンボールをのぞき見ていた十和は、彼の声でハッとなる。
ちらりと後方を振り返れば、ニヤニヤ顔の八重とクラスメイトがいる。
十和は一度目をつぶり、スカートのポケットをまさぐった。
そして取り出した小さな紙袋を、ぐいと三潮へ押し付けた。
薄目を開けて見上げると、十和と紙袋を交互に眺め、三潮は怪訝そうな表情を浮かべていた。
「あの、これ……お土産、です」
ようやく絞り出した声は、蚊の羽音よりも弱々しかった。
しかし至近距離の三潮にはきちんと届いたらしく、彼の顔は更に赤くなる。
そして慌てた様子で鼻を押さえ、ジーンズのポケットからタオルを引っ張り出している。また、鼻血が噴出寸前らしい。
「そっ、そんな高価なものじゃありません! ガラス工芸のお店で見つけた、小さなキーホルダーですっ」
弁解するように、うわずった声で十和はまくし立てた。
三潮はそれを熱心に聞き、タオルとお土産を握りしめ、怖いぐらい真剣な顔でうなずいている。
「分かった。部屋に飾る」
「飾るほどのものじゃないですっ。その、お家の鍵にでも付けてもらえたら、ちょうど良い具合のものなので」
作り手が聞けばちょっと苦笑しそうな台詞を、十和は赤い顔で言った。
色恋に疎い生活を送って来た十和にとって、この状況は色々と限界だった。顔から首筋まで真っ赤に充血し、血管がじんじんと痛いぐらいだ。
少しめまいのする頭で三潮を見ていると、彼はようやく和紙で出来た紙袋を開き、中をのぞきこんでいた。
「猫か」
ぽつりと出た感想に、十和も小さくうなずき返す。
彼女が土産に選んだのは、ガラス細工の白猫がくっついたキーホルダーだった。
「大事にする」
再び低い声で呟かれた言葉に、十和も床を見つめたまま、こっくりうなずく。
ガラス工芸の店でそれを見かけた時、十和は反射的に三潮を連想した。
ふてぶてしく目を細めている姿が、どことなく彼に似ていたのだ。
だが、十和以上に赤い顔で、おまけに目まで潤んでいる三潮に、そのいきさつを語るのはかえって毒だろう。
今度こそ鼻血と吐血が、一緒に飛び出しかねない。




