第4話 先生と呼ばれる日々
魔王城に来て十日。
俺の呼び名が、また増えた。
「先生! おはようございます、先生!」
医務室の扉を開けた瞬間、小さな影が飛び出してきた。
リコ。
俺の衛生係見習い。
見た目は十二、三歳ほど。
丸い顔に大きな目。頭から二本の小さな角が生えていて、尻尾が犬のように揺れている。
「先生、今日の患者は六名です。重症はいません。軽い打撲と切り傷が中心です」
「……朝の報告が早いな」
「当然です! 先生に無駄な時間を使わせるわけにはいきません!」
尻尾がぶんぶん振れている。
リコは一週間前から俺の助手として配属された。
誰の推薦かは聞いていないが、よく働く子だ。
包帯の巻き方を教えたら、翌日には完璧にこなした。
薬草の煎じ方を見せたら、三日で俺より丁寧に出来るようになった。
手先が器用で、記憶力が良い。
何より——
「先生、朝食まだですよね。食堂に軽食を確保してあります」
気が利く。
「ありがとう、リコ」
「えへへ」
尻尾の速度がさらに上がった。
◇
午前の治療を終え、昼食を食堂で取った。
十日前、この食堂に足を踏み入れた時は、周囲の視線が痛かった。
人間がいる。敵がいる。そういう目。
今は違う。
「おう、至宝殿。隣いいか」
「先生、こっちこっち」
「エイル、昨日の薬のおかげで傷が綺麗になったぞ」
席に座れば誰かが話しかけてくる。
名前を覚えるのが追いつかない。
居心地が良い、と思う。
そしてその感情に、まだ少し戸惑っている。
午後、ルシェラに教えてもらった地下書庫を訪れた。
城の中央棟の階段を三層分下ったところに、その部屋はあった。
石の扉を開けると、埃と古い紙の匂い。
壁面を埋め尽くす書架。巻物、革綴じの本、石板。
魔族の文字で書かれたものが大半だが、中には人間の言語のものもある。
目的はひとつ。
セリカの翼——失われた器官を再生する方法。
通常の回復魔法では不可能だが、何か手がかりがあるかもしれない。
書架の前で背表紙を読んでいると、背後に足音がした。
「おや。こんなところで何をしている、人間」
振り向いた。
大きい。
俺の倍近い肩幅。身長は軽く二メートルを超えている。
赤銅色の肌。額から伸びる角は太く、雄牛のように湾曲していた。
鬼族——だろう。黒い革鎧を着て、腰に巨大な戦斧を提げている。
「第三魔将ガルド・ヴォルグだ。お前が噂の至宝か」
声は見た目に反して、朗らかだった。
笑うと牙が覗く。だが威圧よりも陽気さが先に来る。
「エイルだ。至宝はやめてくれ」
「ははは! 名乗る前に否定するか。面白い奴だな」
ガルドは書架を一瞥し、興味なさそうに鼻を鳴らした。
「俺は本より酒だ。お前、飲めるか」
「……多少は」
「よし。今夜付き合え」
断る雰囲気ではなかった。
◇
夜。食堂の隅で、ガルドと向かい合った。
テーブルには魔族の酒——黒い液体が入った陶器の瓶。
口に含むと、強い。焼けるように熱い味が喉を下る。
だが不思議と後味はすっきりしている。
「お前、孤児だってな」
ガルドが杯を傾けながら言った。
唐突だが、魔族は——少なくともガルドは、回りくどい会話が苦手らしい。
「ルシェラに聞いたのか」
「食堂で兵士が話してた。噂は早いぞ、この城は」
俺は杯を置いた。
「……ああ。孤児院育ちだ。両親は知らない。物心ついた時には神殿の施設にいた」
「それで回復術を覚えたか」
「十二歳の時に才能が見つかって、神殿で訓練を受けた。十五で冒険者になって、十九で勇者パーティに入った。で、二十二で捨てられた」
「短い経歴だな」
「中身は濃かったよ」
ガルドが笑った。
腹の底から響く笑い声だ。食堂の壁が震えた気がした。
「俺もガキの頃は喧嘩ばかりで居場所がなかった。鬼族は力が全てだ。弱い奴は群れから追い出される。俺は逆に強すぎて、周りが怖がって離れていった」
杯を空にし、また注ぐ。
「ヴィーラ——魔王様に拾われたのは、山で一人で暮らしてた時だ。小さいガキがいきなり現れて、『お前、強いだろう。余のところに来い』と言いやがった」
「小さいガキ?」
「魔王様は見た目が幼いのだ。中身は千年以上だがな」
魔王が幼い外見。
聞いただけでは想像がつかない。
「お前もそうだろう、エイル。居場所がなかった奴が、ここに流れ着いた。この城はそういう奴らの集まりだ」
ガルドの目は笑っていたが、言葉は真剣だった。
「だから——まあ、歓迎するぞ。至宝殿」
「だからその呼び名は——」
「はっはっは!」
また食堂が揺れた。
◇
部屋に戻り、寝台に腰かけた。
酒の温かさが体に残っている。
酔ってはいない。少し、ぼんやりしているだけだ。
ガルドの言葉が頭に残っていた。
——居場所がなかった奴が、ここに流れ着いた。
孤児院の夜を思い出す。
硬い寝台。薄い毛布。隣の子の寝息。
夜中に目が覚めると、いつも天井を見ていた。
ここは自分の場所じゃないと思っていた。
冒険者になっても、勇者パーティに入っても、その感覚は消えなかった。
自分の場所じゃない。借り物の椅子に座っている。
いつ追い出されてもおかしくない。
そしてその予感は、三年後に現実になった。
だが——今。
この城の寝台は硬い。毛布は獣臭い。
それでも、十日前より体が軽い。
明日は書庫でセリカの翼について調べる。
リコに包帯の新しい巻き方を教える約束もある。
ガルドがまた酒に誘うと言っていた。
やることがある。
待っている人がいる。
孤児院の夜とは、何かが違う。
俺は窓を開けた。
赤い月が、今夜も変わらずそこにあった。




