第3話 もう、戻りません
魔王城に来て三日目の朝。
俺は、とんでもない呼び名を付けられていた。
「至宝殿、おはようございます!」
食堂に入った瞬間、近くの兵士が立ち上がって敬礼した。
至宝。
——至宝て。
「その呼び方はやめてくれ」
「しかし、至宝殿は至宝殿ですので」
「いや、だから俺にはエイルっていう名前が——」
「至宝殿のお席、こちらに用意してあります!」
聞いちゃいない。
ルシェラが奥の席で茶を飲みながら、面白そうにこちらを見ていた。
「人気者ね」
「あんたが変な呼び名を広めたんじゃないのか」
「心外ね。兵士たちが勝手に言い始めたのよ。——まあ、否定はしなかったけど」
この人は、こういう人だ。
二日間で何となく分かってきた。
冷たく見えるが、部下の様子をよく見ている。
そして、たまにこうやって意地の悪い笑い方をする。
朝食を取りながら、今日の予定を確認する。
午前は医務室。午後は——
「午後、会わせたい者がいるの」
ルシェラの声が少し変わった。
笑みが消え、真剣な目になっている。
「四魔将の第二位。セリカよ」
◇
午前の治療を終えた。
今日は八名。昨日より少ない。
そもそも重傷者が減ってきたのだ。
三十名以上を治療すれば、さすがに目に見えて医務室が空く。
午後——ルシェラに連れられ、城の北棟に向かった。
北棟は他の区画より静かだった。
窓が大きく、陽が差し込んでいる。
だが人の気配が薄い。
「セリカは普段、ここにいるの。あまり他の区画には出たがらないわ」
ルシェラが扉を叩いた。
返事はなかったが、ルシェラは構わず扉を開けた。
部屋は広かった。
大きな窓。窓辺に椅子。
そこに、一人の少女が座っていた。
——いや。少女と呼ぶには、どうだろう。
見た目は十五、六歳ほど。
薄紫の髪が腰まで伸びている。肌は白く、瞳は紅い。
華奢な体つき。
額の角は細く透明で、光を受けて淡く輝いていた。
そして——背中。
左の翼は健在だった。
薄い膜の張った、蝙蝠に似た翼。薄紫の色。
だが右側には、翼がなかった。
付け根から断たれている。
傷は塞がっているが、そこに翼があった痕跡だけが残っていた。
「……誰」
セリカが俺を見た。
警戒。明確にそれと分かる目。
紅い瞳が細められ、体が僅かに椅子の背に沈んだ。
「人間、じゃない。ルシェラ、何のつもり」
「この子がエイル。あなたも聞いたでしょう。城中の噂になっているもの」
「……至宝とかいう」
セリカの視線が俺の右手甲に移った。
紋章を見ている。
そして、鼻で笑った。
「神殿紋章。人間の回復術師が、なんで魔王城にいるわけ」
「捨てられたからだ」
自分で言って、少し笑えた。
三日前は喉が詰まって言えなかった言葉が、今はすんなり出る。
「勇者パーティに要らないと言われた。行く場所がなくて、ルシェラに拾われた」
セリカは黙って俺を見ていた。
数秒の沈黙の後、ふいに視線を窓の外に逸らした。
「……そう。まあ、人間のやりそうなことね」
その声には棘があった。
だが同時に、何か——共感にも似た温度を感じたのは、気のせいだろうか。
ルシェラが口を開いた。
「セリカの右翼は三年前に斬られた。以来、飛べないの」
「ルシェラ。余計なことを」
「エイルの回復魔法は、骨折も裂傷も治した。——翼の再生が可能かどうか、診てもらいたいの」
セリカの表情が固まった。
「……無理よ。翼は切断された器官だもの。欠損の再生は回復魔法の範疇を超えてる。それくらい、私でも知ってる」
俺はセリカの背中——右翼の痕を見た。
確かに、通常の回復魔法では不可能だ。
回復魔法は「傷を塞ぐ」もの。
失われた器官を「生やす」のは、別の領域になる。
だが。
「……少し、触っていいか」
「は?」
「傷跡を診たい。触診しないと分からないことがある」
セリカは明らかに嫌そうな顔をした。
だがルシェラに目配せされ、渋々背中を向けた。
俺は右翼の付け根に手を近づけた。
直接触れる前に、回復魔法の光を薄く灯す。
——診断用の微弱な魔力。傷の状態を探る使い方だ。
手のひらに、情報が流れ込んできた。
切断面は綺麗だ。鋭利な刃物——おそらく相当な業物で斬られている。
だが、付け根の組織は生きていた。
翼を動かすための魔力の経路が、微かに脈打っている。
これは。
「根が生きてる」
「……何?」
「翼の付け根——魔力の経路がまだ機能している。完全に壊死していない。これなら——」
言葉を切った。
出来る、と言いかけた。
だがそれは嘘になる。確証がない。
通常の回復魔法では不可能。しかし、俺が師匠から聞いた話の中に——
いや。今は言うべきじゃない。
「可能性はゼロじゃない。でも、今すぐには答えられない。調べたいことがある」
セリカが振り向いた。
紅い瞳が揺れていた。
期待と、それを押し殺そうとする力のせめぎ合い。
「……期待なんてしてないから。勝手にすれば」
そう言って窓の外を向いた。
だが、その声は——僅かに震えていた。
◇
部屋に戻り、寝台に座った。
窓の外に赤い月が昇っている。
三日連続で、同じ月を見ている。
ふと、勇者パーティのことを考えた。
レクスたちは今頃どうしているだろう。
回復役がいなくなった四人パーティ。
ポーションはあるだろうが、重傷には対応できない。
無理な進軍を続けていれば——いや、レクスの性格なら続けるだろう。
あの男は退くことを知らない。
カインは無事だろうか。
フィオナは。
——考えるな。
俺はもう、あのパーティの人間じゃない。
心配する義理はある。恩もある。
カインには世話になった。フィオナとも、言葉は少なかったが敵じゃなかった。
でも。
「……もう、戻らない」
声に出して言った。
自分に言い聞かせるためだ。
ここには俺を「至宝」と呼ぶ連中がいる。
傷を治せば「ありがとう」と言ってくれる。
翼をなくした少女が、期待しないと言いながら震えている。
俺の手が必要な場所が、ここにある。
戻る理由がない。
いや——戻りたくない。
それが本音だ。
寝台に横になり、目を閉じた。
明日も治療がある。
それから、セリカの翼について調べなければ。
ルシェラに、城の中に文献を置いている場所がないか聞いてみよう。
やることがある。
待っている人がいる。
三日前には想像もしなかった夜だ。
——俺はもう、勇者の回復役じゃない。
魔王軍の、ただ一人のヒーラーだ。




