八 告白
休日が明け、いよいよテスト当日となった。一応いつも通り校門が開く前に学校に来たが、さすがに今日は部活動の朝練を控え、教室で勉強しようかと思っていた。
普段なら来ているはずの時間になっても浜川さんは姿を見せず、今日は他の開門待ちの生徒もおらず、この日の校門前はいつも以上に静かで寒々しい空間となっていた。
やがて開門時間が来て門が開いた。
俺は一人で校門をくぐろうとした、その時だった。
「小田君」
待ち望んだ声がした方へ振り向くと、口で息をしながら走り寄ってくる浜川さんの姿があった。
俺は前に進まず彼女が到着するのを待ち、すぐに浜川さんは俺のもとへやってきた。息が上がっている様子から、かなり走ってきたことが窺えた。
「浜川さん、おはよう」
「ごめん。ちょっと、遅れちゃって」
朝校門前で会うことを約束しているわけではないので、謝るようなことではないとは思うのだが、俺は敢えてそのことには言及せず、「夜遅くまで勉強してたの?」と彼女が息を整える間を埋める他愛もない質問を投げかけた。
「あはは。ちょっと、朝起きれなくて」
そう言いながら、浜川さんは俺の顔をじっと覗き込んできた。
「顔色、良くなったね」
彼女はぱっと花開くように笑った。
そう言えば、俺のことを心配していたとか。自分で確認したわけではないからわからないのだが、よほど元気がないように見えていたのだろう。
「先週、顔色少し悪い気がして。やっぱり、テスト勉強疲れ?」
「そうかな。自分ではよくわからないけど。休日しっかり眠れたから良くなったのかな」
彼女の息が整ったのを確認して、俺は学校の中へと歩き出す。彼女もそれに続いて、自然に二人横並びの形になった。
「あくまで受け売りだけど、夜更かしするよりもしっかり寝た方がテストの成績は良くなると思うよ」
浜川さんが少し力のこもった推奨をしてくるあたり、恐らく実践しているのだろう。
俺の睡眠時間が少なくなっていたのは勉強していたからではなく心理的な問題からなのだが、今後は参考にすることにしよう。
「しっかり寝てるから、浜川さんは高得点が取れるんだ」
「もちろん勉強の方も大切だけど」
「そう言えば、勉強会の時に見せてくれたノート、すごく綺麗に整理されてたよね」
「ああ。あれ実は、復習用のまとめノートなの。実際に授業中取ってるノートはもっと汚いよ」
「授業ノート書き直してるってこと? すごい。俺なんて自分の汚いノートを眺めてるだけなのに」
「でも、授業中に取ったノートって、見返したら授業を受けている時の記憶が蘇ってくるから、多少汚くても読み返すだけで復習になるよね」
そうこう話しているうちに、下駄箱に到着した。上履きに履き替えた後、いつもとは違い自身と同じ方向に進もうとする俺を見て、浜川さんは驚いたように尋ねる。
「あれ、朝練は?」
「さすがに今日は、勉強しようかと」
その瞬間、彼女の表情が綻んでいた。釣られて自分の口元も広がってしまい、それを隠すように手を顎の方へと持っていた。
俺達は自分達の教室を目指しながら、会話の続きを再開する。
「今回のテストは前半に暗記系の科目が固まってるから大変だよね」
浜川さんが扱った話題は、今この学校の二年生の間で最も問題になっていることだった。
「ほんとだよ。今日に世界史、漢文、化学。明日も公民、英語、古文。明後日や明々後日ならギリギリまで詰め込めるのに」
「先生達の一夜漬け対策なんじゃないかって言われてるよ。中間テストで平均点が少し高かったのを気にしてるのかも」
「点数取らせないようにってこと? もしそうだったらかなり大人気ないなあ」
会話の終わり、俺達は切りよく教室へと辿り着いた。
戸を開け、誰もいない教室へと足を踏み入れる。
遠く離れたお互いの席へと別れ、俺は自分の机に荷物を置いた。
しばしの沈黙。教室には時計の音と、俺と浜川さんの微かな息遣いと足や椅子をずらす音だけがこだました。
普段から、浜川さんはこんな環境で勉強をしているのだろうか。多くの生徒に囲まれている時は全く気にならないのに、二人だけの教室だと、相手の存在が気になって仕方がない。
いや、普段は一人なのだ。ということはきっと、自分の存在が煩わしいのだろうか。
俺はトイレへと向かうために教室を後にした。
普段学生達があふれている廊下も、この時ばかりは俺一人だ。もし俺が毎朝一人で、教室で勉強していたら、早く誰か来ますようにと毎日祈っていることだろう。
用を済ませて戻ってくると、浜川さんは既に教科書とノートを開いていた。すっかり勉強体勢のようだ。
俺も始めるか。
そう思って自分の席に座り、浜川さんのものを写させてもらった世界史のノートを開く。世界史の教科書と分厚い資料集を広げ、文章を眺め重要語句を拾いながら、脳内で叩き込んだ記憶を反復する。わからない箇所があればノートに戻って確認した。
ノートのページを眺めると、そこに書き込んだ時の記憶が蘇る。教科書に目を戻し、試験範囲のページの文章を指でなぞり追いかける。指と紙が擦れ、引っかかる小さな音がした。
口の中に溜まった唾液を飲む。机と制服が擦れる。ページを捲る。時計の針が動く。時折聞こえる、彼女の息遣い。
「ねえ」
突如、教室に声が響いた。俺はびくりと体を震わしてしまい、座っていた椅子ががたりと音を立てた。
今、教室で俺に話しかける人物は一人しかおらず、また彼女が話しかける相手も一人しかいない。
浜川さんの方を向くと、彼女はややうつむき気味に俺の方を見ていた。
「折角だし、お互いに問題を出し合ってみない」
そう言う彼女の声は、少し震えているような気がした。
ちらりと時計を確認する。まだ、俺達が教室に入ってきてから、五分も経っていなかった。
「そうしよっか」
俺は勉強道具を持って浜川さんの隣の席に座った。そして二人で交互に問題を出し合った。
漢文の文法をさらったり、世界史の重要な出来事を語ったり、化学の反応式を書き下したり等々。浜川さんはもちろんのこと、今回は俺もそれなりに勉強してきたということもあり、お互いが出す問題が尽きることはなく、ずっと一問一答の応酬は続いた。
「サキちんおはよう。小田も。今日は早いね」
声を掛けてきたのは平昭さんだった。既に時計は八時を回っている。一体どれほど熱中していたのだろうか。
「和香おはよう」
「おはよう」
平昭さんはどれどれといった様子で、俺達の手元を覗き込んできた。
「問題出し合ってたんだ」
「うん。ただ暗記してるだけだと退屈だから」
浜川さんの返答に対し、平昭さんは「確かに」と呟いた。
「いいなあ。私も混ぜてよ」
「いいよ」
女子の間でさくさく会話が進んでいる様子を見て、こうなれば自分はお役御免なのではないかと思ったが、結局そのまま三人で問題を出し合うことになった。
そしてその後やってきた明日葉も羨ましそうに俺を見るので、結局明日葉も混ざることになった。
結果的に朝に行った問題の出し合いが功を奏したのだろう。どの教科もわからないという箇所がなく、全ての欄を埋めて解答を提出することができた。
このような経緯があったためだろう。翌日の火曜日の朝も、俺と浜川さんは交互に問題を出し合い、結果俺は空欄を作らずにテストを終えた。
無事、暗記地獄を乗り越え、テストはつつがなく終わった。
* * * * * *
テストが終わると採点期間に入る。
自宅学習の期間ではあるが、部活動がある生徒にとってはテストの抑圧から解放され、モチベーションの高い状態で自分の好きなことに打ち込める期間でもある。
そういう状況下のバスケ部でしばしば発生するイベントがダンク大会である。
とはいってもうちの部活にダンクができる選手などいない。だからこそ、各々が工夫してダンクに挑戦するのだ。
例えば壁を蹴ってのダンク。しかしこれは足を怪我する可能性があり禁止されている。次に肩車をしてもらってのダンク。うちの部員の身長では肩車をしても届かないことがほとんどだが、組み合わせによっては稀に届く二人組ができる。そしてエアダンク。ダンクをする振りだけをして、NBA選手がするようなダンク後のパフォーマンスを競い合う。
俺のジャンプ力ではネットにすら届かないので積極的に参加することはなく見ていることがほとんどなのだが、綴人は自力でのダンクに挑戦していた。
彼の跳躍力は日に日に伸びていて、今回の挑戦でついにリングに触れることができていた。
床から綴人の肩までの高さを百五十センチ、腕の長さを七十センチとすると、高さ三百五センチのリングに触れるためには少なくとも八十センチ以上跳んでいるということになる。
すさまじいジャンプ力だ。
今回、テスト明けかつ初めてリングに触れることができたということもあり、気分がいつも以上に高揚していたのだろう。練習での綴人のパフォーマンスは非常に高く、練習後に行った俺との一対一でも、前回俺は体力の差で競り勝っただけに、今回は綴人に圧勝されてしまった。
練習後の帰り道でも気分よさそうに歩いていた綴人だったが、はっと何かに気付いたかと思うと、急に真面目な顔付きになって俺の方を向いた。
「そう言えば、今週、例の、ツルミエミ、だっけ、会えた?」
俺は首を横に振った。テスト期間も土手に通ってはみたが、彼女が来ることはなかった。
「そうか」
「綴人が気にすることじゃないよ。俺が連絡先を交換していなかったのが悪いんだから」
しかし、綴人は顎に手を当てて何かを思案していた。
「何か気になるのか?」
「いや、気になるというか」
綴人がはっきりと答えない時は、彼の中で自分の考えがまとまっていない時だ。俺はそれ以上追及することなく、その日は綴人と別れた。
* * * * * *
採点期間が終わると、天国と地獄を分けるテスト返却日がやってくる。
実力を出せた者、出せなかった者、山を張り当たった者、当たらなかった者、そもそも勉強してない者など様々な生徒がいるだろうが、どんな生徒もみな、少しでも高い点を期待し、因果の応報を受ける。そんな日だ。
幸いなことに、俺はほとんどの教科が予想通りの点数で、大体どれも七十点前後だった。ほとんどというのは、なんと苦手だった世界史で九十点を取ることができていたのだ。十中八九浜川さんのお蔭だったので、俺は彼女のもとに近寄り、Vサインをして感謝の言葉を述べた。
浜川さんは笑顔を向け、「私もっ」と全教科ほぼ満点の用紙を見せてくれた。さすがだ。
川崎や平昭さんはいつも通りといった表情で、明日葉は少し落ち込んでいる様子だった。きっと悪い点数だったのだろう。
対する尻手は、暗い表情をしていたが、その視線はテストには注がれておらず、何か別のことに悩んでいるように見えた。
テストの返却が終わり帰りの支度をしていると、川崎が俺に近寄ってきた。
「一緒に帰る?」
川崎から俺に声を掛けてくることが珍しかったので、俺は「ああ、それは、もちろん」と少し緊張した状態で返事をしていた。
「実は・・・・・・」
言い淀んで、川崎は一呼吸、息を深く吸い込んだ。
「その、俺達、一緒にテスト勉強したわけじゃん」
「ああ」
「だから、その、テストも終わったわけだし、今日、女子二人も誘って、俺の家で、お疲れ様会、みたいなの」
「やろう!」
俺は川崎が言い切る前に、声を上げてそう言ってしまった。
彼は声量に多少驚きはしたものの、ほっと安心したように肩の力を抜いた。
「じゃあ、平昭は栄治が」
「そこは川崎が誘うべきなのでは?」
つい反射的にそんなことを言ってしまった。しかしよく考えてみると、川崎はお疲れ様会を提案するだけで全ての勇気を使い果たした可能性があり、これから平昭さんを誘うというのはあまりに酷なのではないかと自分の発言を後悔した。
「そうかもしれないけど、俺、そういうタイプじゃないし」
川崎の様子を見て、申し訳ない、と心の中で川崎に謝りながら、「わかった。俺が誘うよ」と俺は言った。
「じゃあ、浜川さんも任せた。下駄箱で会おう」
そう言って川崎は自分の席へと戻っていった。さすがに他力本願過ぎやしないかとも思ったが、平昭さんを誘う流れで誘えばいいだけだからと自分を納得させた。
さて、二人はどこだろう。
浜川さんの席へと目を向けると、机の上に学生鞄が置いてあるが、本人の姿は見えない。一方の平昭さんは、帰りの支度を終えている様子ではあるが、その場を動く気配はなかった。
俺は平昭さんに近付いて話しかけた。
「平昭さん」
「小田。どうしたの?」
「俺達、一緒に勉強会したし、みんなでお疲れ様会でもどうかなって」
「いいね。どこでやる?」
「川崎の家」
「・・・・・・なんであいつ」
一瞬、平昭さんの内なる殺意が体内からあふれ出し、彼女の背後で炎のように燃え上がっている幻覚が見えた。
「まあまあ、一応発案は川崎だから。・・・・・・ところで、浜川さんは?」
立腹している平昭さんをなだめながら浜川さんの所在を訪ねると、彼女はわからないと首を横に振る。
「一緒に帰る約束してたんだけど、どこか行っちゃったんだよね。トイレにしては少し長い気がするんだけど」
「了解。じゃあ、ちょっと探してみると。戻ってきたら、先に川崎と合流しておいて。あいつはいま下駄箱にいるから」
「・・・・・・わかった」
平昭さんは舌打ちを添えて返事をした。
俺は廊下に出て、浜川さんの姿を探した。各教室を順に見て回り、ついには人気のない南棟まで向かった。
次は上の階でも探そうと階段に差しかかった時、踊り場に浜川さんの姿を見付けた。
良かった。見付かった。
そう思い声を掛けようとしてはっとする。浜川さんの前に、高身長で顔立ちの整った男が立っていた。見た記憶がないので他学年、恐らく、先輩だろうか。
人気のない南棟の階段踊り場。以前平昭さんが明日葉に告白されていた光景を思い出す。すなわち今、俺は告白の現場に出くわしてしまったのだ。
やばい。どうしよう。気付かない振り? 何事もなく通り過ぎる? それとも・・・・・・いや、最低過ぎる。相手は勇気を振り絞ってるんだぞ。
——————いや、もしかしたら浜川さんからの告白の可能性だってあり得る。しかしそれだったら平昭さんと一緒に帰る約束なんてするか。する可能性はゼロではないが限りなく低いだろ。
まるで死の間際であるかのように、一瞬の間に長い思考を終えた俺は、端的に要点を伝えてこの場を去るという結論に至った。
「話があるから、後で教室に来て」
俺はそれだけ伝えると、そこから素早く逃げ出した。早歩きが気付けば疾走へと変わり、息を切らしながら教室へと駆けこんだ。
浜川さんを待っていた平昭さんは、突如教室に走り込んできた俺を見て、目を大きく見開いて驚いていた。
「どうしたの?」
「浜川さん、少し用事があるから遅れるって。後で教室に来ると思う」
「そう」
すると、平昭さんは何かを考えるような仕草を見せる。
「川崎の野郎は下駄箱で待ってるんだっけ?」
「そう言ってたよ」
「・・・・・・じゃあ、私あいつと話があるから、先に下降りてるね」
そう言い残して、平昭さんは教室を後にした。なんとなくだが、川崎と話し合うためなのだろうと思った。
教室で一人、浜川さんの訪れを待っていると、五分ほどして彼女は現れた。
少し緊張した様子。いや、恥ずかしがっているのだろうか。
浜川さんはあの他学年の生徒の告白を受け、彼と交際することになった。
そんな考えが頭の中を駆け巡るとずぶずぶと黒く粘着質な感情が体の自由を奪っていくような気がした。
どうしてこれほどまでに動揺しているのだろうか。浜川さんが告白を受け入れたのならそれは喜ばしいことだし、仮にどんな結果であっても俺には関係ない話であるはずだ。
なぜなら、俺の好きな人は、ツルミエミだから。そうだろう?
「それで、話って」
混乱気味の俺の思考に解決の糸口を見せたのは、やけに溜めて発せられた浜川咲の言葉だった。
そうだ。例え結果が何であれ、俺は伝えさえすればいい。川崎にとって重要なのは平昭さんが来るか来ないかであって、浜川さんは別にいてもいなくてもいいのだから。
「今日、テストのお疲れ様会を川崎の家でするんだけど、来る?」
俺は努めて平静に、別に断ってくれて構わないという意図を込めて、できるだけ軽い感じで言葉にしてみた。だが、彼女の反応は意外なものだった。
何を言っているのかわからない、と言いたげな様子で驚愕しており、その瞳からは落胆の色が見て取れた。
浜川さんが内心で何を思っているのか全くわからずにどうしたものかと頭を悩ませていると、様子が気になって戻ってきたのだろう、教室の扉から平昭さんが顔を覗かせた。
「サキちん見付けた。サキちんも来る?」
「・・・・・・ああ、うん、行く」
俺は浜川さんがなぜこれほどまで落ち込んでいるのかまるでわからず、そして他学年の男からの告白の結果がどうなったのかも知ることができなかった。
* * * * * *
川崎の家は庭付きの一軒家だった。
到着すると、川崎の両親らしき大人の男女が既にバーベキューを始めていた。平昭さんが彼らを少し嫌そうな目で見ていたので、恐らく川崎の両親で決まりだろう。
到着次第、川崎がたどたどしい音頭を取り、テストお疲れ様会は始まった。
既に話し合いは済んだのか、完全に打ち解けたとはいかないまでも、川崎と平昭さんの間に流れていた張り詰めた空気は少し和らいでいるように感じた。
バーベキューを食べているうちに、なぜ先ほど落ち込んでいたのか、他学年の男からの告白はどうしたのか、その答えを聞こうと浜川さんに接近を試みるが、川崎の家に来るまでの道中、既に話を聞いていたようである平昭さんが、番犬さながらの睨みを俺に向けてくるので迂闊に近付くことができなかった。
それでも焼きたての肉や野菜は絶品で、理不尽な状況に傷ついている心がほんの少しだけ回復した。
遠慮なく食べていいと言われたので遠慮なく口へと頬張っていたのだが、川崎にさすがに食べ過ぎと注意されやむなく食事速度を落とした。
楽しい時間が過ぎるのはあっという間で、気付けば辺りは暗くなっていた。丁度用意していた食材がなくなったということもあり、お疲れ様会はお開きになった。
川崎の家からの帰り道。平昭さんとは早々に道が分かれ、結果として俺は浜川さんを家まで送る形となった。
川崎の家から浜川さんの家へと向かう道は、俺が川の土手まで走るために使う道に辿り着くまで、車通りの多い大通りを真っすぐ進むだけでよかった。
電灯が少なく隣を歩く少女の表情すらもはっきりとはわからないが、ある程度の人通りがある分、安全な道と言えるだろう。
道すがら、俺は学校での出来事を浜川さんに尋ねてみようかと思ったが、自分の恋愛事情にずけずけと入り込まれるのは普通に考えて不快であり、どう聞いたものかと悩んでいると、話す機会を見失ってしまい、俺達の間に沈黙が流れてしまっていた。
もういっそ家に着くまで黙ったままでいようという決心を固めるに至るまで長い時間が過ぎた後、浜川さんがぽつりと呟いた。
「今日、あのタイミングで南棟の階段の所に来たのって、偶然?」
彼女の問いへの答えは間違いなく偶然で合っているのだが、しかしよくよく思い返してみれば、俺が登場した瞬間は恐らく告白のほんの少し手前、さあ言おうという瞬間だったに違いない。
そんな瞬間に都合良く現れるなど、意図的だと言われても仕方のないことだろう。
しかし嘘をつくわけにもいかないので、俺は可能な限り浜川さんが気を悪くしないように、弱弱しい口調で返事をした。
「あの、一応、偶然、だと思います、はい」
「そっか」
なんの感情もこもっていない平坦な反応だった。一体今、何を考えているのだろう。
だが、例え何を考えているのかわからなくても、せっかく生まれた話の流れを利用しない手はない。
「ちなみに、俺がいなくなった後ってどうなったのかな?」
「え、普通に断ったよ」
浜川さんがあまりに淡々と答えるので、俺は「へえー」という薄い反応の後に「えぇっ!」という大げさな反応をしてしまい、彼女を驚かせてしまった。
「そ、そうなんだ」
誤魔化すように笑いながら、浜川さんが告白を断ったと聞いて喜んでいる自分に嫌悪感が湧いてきた。
どうして俺は喜んでいるのだろうか。ツルミエミに恋をしてはいるが、同時に浜川さんのことが好きだから? それとも、エミと会えない寂しさを彼女で紛らわしている、すなわち、浜川さんをエミの代用物として扱っているから?
前者は浮気者だし、後者ならば最低だ。
「ちなみに、教室に来て今日のお疲れ様会のことを話した時、なんか残念そうにしてたよね。あれってなんで?」
今なら聞ける。そう考え思い切って尋ねてみるが、浜川さんの口から、ふっと嘲るような息が漏れた。
「内緒」
「どうして?」
「それがわかったら、小田君がモテちゃうから」
それって暗に俺がモテないと言っていないだろうか。事実だから構わないのだが。
それから、先ほどまであった緊張感が除かれたためか、俺は普通に浜川さんに話しかけることができた。そして会話をしているうちに、今まで進んでいた大通りから右に曲がり、俺がいつも川の土手へ向かう時に使っている道に入った。
その道の入り口辺り、建築群の空白に作られた、いびつな形ながらも大きな公園が目に入ってきた。すると浜川さんが足を止めたので、俺も釣られて立ち止まった。
しばらくじっと彼女は公園を見詰めていたので、何を考えているのだろうかと様子を窺っていると、くるっとこちらを向いてこんなことを言った。
「覚えてる? 私達が初めて出会った時のこと?」
「覚えてるよ。近くの席に座っていたのに、二週間もの間俺が浜川さんに気付かなかった時のことでしょ」
すると、「残念。外れ」と彼女は楽しそうに笑った。公園の灯りで浮き上がった浜川さんの姿は、ほんの一瞬、エミのように見えた。
彼女が歩き出した。
俺は動揺で足がすぐに動かず、二、三歩遅れて彼女に付いていった。
浜川さんは誰もいない公園の中へと入っていき、そして手近なベンチに腰かけて、俺も隣に座るように促した。
俺が指示に従って横に腰を下ろすと、彼女は一度深呼吸をした。
「小田君を最初に見かけたのは朝に開門を待っている時なんだけど、最初に出会った時っていったら、ここなんだよね」
電灯の明かりで俺の困惑した表情がはっきりと見えたのだろう。彼女は「そんなに困った顔しなくても」と笑った。
「去年の秋頃だったかな。私、この公園で家の鍵を無くしちゃってさ。その時、たまたま電灯が切れてたみたいで、もう真っ暗。なんにも見えない中で、一人でずっと鍵を探してたの。見付からなかったらどうしようとか、誰かに連れ去られたらどうしようとか考えちゃって、すっごく怖かった。そんな時、誰かが近付いてくる音がして、逃げようって思った瞬間、ぱっと明かりがついたの。そして、『もし良かったら、この懐中電灯使ってください』てその近付いてきた人が言ってくれたの。それが、小田君だった。小田君が持ってきてくれた懐中電灯のおかげで、鍵が見付かったの」
言われてみれば、そういうことがあったことは思い出せる。だけど。
「あの時の人が、浜川さんだったの?」
俺のうすぼやけた記憶の中の顔と目の前の少女の顔は、少しも一致しなかった。なぜなら、記憶の中の人物は、社会人の女性のように見えていたからだ。
「そうだよ。でもわかんないよね。あの時は喪服を着てたし、暗くて顔もよく見えなかっただろうから。小田君はうちの学校のジャージを着てたから、私にはすぐに同じ学校の人だってわかったんだけどね」
そんなことがあったのか、と俺は改めて浜川さんの姿をじっと見詰める。
茶色いローファーは暗闇の中で黒く光り、白い靴下を経て、街灯に照らされた彼女の脚がキラキラと輝いていた。その脚は膝のあたりで紺色のスカートの中に飲み込まれ、胴体から白いシャツが姿を見せたかと思えば、暗闇の中に美しい顔が浮かび上がり、微笑みを携えてこちらを見ていた。
果たして、俺が一年前に見たという女性は、これほどまでに俺の瞳を引き付けていただろうか。
「あの時私、小田君にお礼をさせてほしいって言ったの。そしたら小田君がなんて答えたか、覚えてる?」
そんな質問されたっけ、と俺は頭を悩ませた。浜川さんはくすりと笑って、「残念。時間切れ」と俺に告げた。
「正解は『近所に住んでいたのでたまたま見かけただけですよ。今度自分が困ってたら、ぜひ助けてください』って言ったんだよ」
なぜだか、浜川さんは少し興奮気味になっていた。
「そこから私は、小田君が近所に住んでいて、また何かの機会で会えるかもってずっと思ってた。でも、真っ赤な嘘。小田君の中学とか小学校って、ここから全然離れてるんだよね。聞いた時には本当にびっくりしたよ」
「それは、ごめん」
何でそんなしょうもない嘘をついてしまったのだろうか。俺は過去の愚かな行動を振り返って見るが、少しもその理由を思い出すことができなかった。
「いいよ、怒ってないし。それに、優しい嘘だったから」
「優しい嘘?」
「小田君の家、ここから遠いのに、わざわざ家まで懐中電灯取ってきてくれたんだよね。たまたまランニングコースの途中で見かけた私のために」
あれ。そういうことになるのか? しかし、この公園の近くを通る理由は他にない。それに、わざわざ懐中電灯を持って通りかかるのも変だ。
つまり俺は、遠い家から懐中電灯を持ってきた事実を隠蔽するためだけに、近所に住んでいるなどというしょうもない嘘をついていたのか。
いま思い返すとめちゃくちゃ恥ずかしい。さらに嘘ついた当人にばれていて余計に恥ずかしい。
「ええ、昔の俺、すげえ恥ずかしいやつじゃん」
「そんなことないよ。だってそれが、私が先輩の告白を断った理由で、教室でお疲れ様会に誘われた時に落ち込んだ理由なんだから」
何でそれが理由になるんだ。考えてもわからず、答えを聞こうと「それってどういう」と言いながら浜川さんの方を向いた時、ぐいっと、彼女の瞳が、俺の目の前までやってきた。
その輝きに心奪われていると、ぱっと眼前の星が消えた。
「——————こういうこと」
離れていく彼女の顔を、俺は名残惜しそうに見ているばかりであった。やがて彼女は立ち上がり、公園を後にした。
送らなければ。
頭ではそう思っていても、体はちっとも動かない。
俺は自分の唇を手で覆い、誰もいない夜の公園で一人、初めての感触を思い返していた。




