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九 明日は我が身

 早朝、自分の布団の中。俺は両目が冴え渡っているのにもかかわらず、起きようという気が微塵も湧き上がってこなかった。ただただ昨晩の公園での出来事を振り返りながら、キスというものが夢や妄想の類であると無意識に思っていた過去の自分を恥ずかしく思った。



 俺は、自分の中にある感情を、いよいよ認めざるを得なくなってしまった。



俺は、浜川咲のことが好きなのだ。いや、好きになってしまった。



 出会った時から好きだったとも言えるし、出会ってからどんどん好きになっていったとも言える。またツルミエミと出会ってから今までとは別の好きを向けていたとも言えるし、エミと会えなくなってから好きになったとも言えてしまう。



何より、昨日の夜から、俺の頭の中は浜川咲のことでいっぱいだった。



しかしよくよく考えてみると、ツルミエミの時は手を握り合った瞬間から、浜川咲の時はキスをした時から、自分は彼女のことが好きなのだと考えるようになっていた。



それはつまり、肉体的な接触をしてしまったどんな異性のことも好きになってしまうのではないだろうか。



 もしそうだとするならば、自分はなんて不純なやつなのだろう。不純で不純過ぎる不純な男だ。浮気性にも程がある。もし好きな相手が双子ならば、きっとその二人ともを、もしも五つ子ならば、その五人ともを好きになってしまうに違いない。



同じ好きな要素を持っている相手のことをみんな好きになってしまうのならば、そういうことだろう。単純で単純過ぎる単純な男だ。



 枕に両手両足でしがみ付き、布団の上をごろごろと転がりながら悶々と考えていた。



いつまでも起きてこない俺を見かねた母親が、「栄治。起きなさーい」と家の奥から声を掛けてきても、俺は返事をするだけで、ちっとも起き上がることができなかった。



 やがて痺れを切らした母親が部屋に入ってきて、いつまでも寝転がっている俺を布団から叩き出してしまった。





     *     *     *     *     *     *





 テストが返却し終わると、家庭学習期間、兼、面談期間がやってくる。実質夏休みみたいなものだ。



この頃になってようやく夏の一日の長さを感じられるようになるので、そう言えば七月に入っていたなということを思い出す時期でもある。



 最近は晴れ間ばかりだというのに、未だに梅雨明けを宣言しないニュースをぼんやりと眺めながら、俺は少し遅めの朝食を口に運んでいた。



部活もなく、家庭学習期間といっても夏休みの宿題に手を付けるにはいま一つ気分が乗らない今日という日。



俺は無為に過ぎていく時間を苦痛に感じながら、次会った時どんな風に浜川さんに接すればいいのだろうという悩みに囚われていた。



 朝食を食べ終わると自分の部屋にこもり、起き上がりこぼしのような挙動を繰り返しながら、いつまでも見付からぬ答えを悶々と考えていると、いきなり母親が部屋の中へと入ってきて、早く支度しなさいと言ってきた。



俺は、今日が自分の三者面談の日であることをすっかり失念していたのだ。





     *     *     *     *     *     *





 予定時間よりも早めに行くように母親から指示された俺は、彼女よりも早く家を出て学校へと向かった。



 夏の日差しが降り注ぐ中、暑さを避けるために建物が影を作っている場所を選んで歩いた。



セミが鳴き出すにはほんの少しだけ早く、平日の昼前ということもあり人通りもほとんどない静かな道を進んでいると、意識はいつの間にか物思いに沈んでいて、いま自分はどこにいるのだろうと思い出す頃には、既に学校に着いているというありさまだった。



 門を通って下駄箱に向かい、靴を履き替えて階段を上った。



日常的に繰り返している作業だというのに、不思議と違和感があった。



普段との違いは、静寂と、時間、だろうか。時間に追われ通り過ぎるだけの道や廊下が、今ははっきりと意識されていた。



 そう言えば、今は何時だろうか。



 自分の教室の時計を確認するために、教室の扉に付いている窓から部屋を覗こうとした瞬間、中から声が聞こえてきた。



「ツルミさん、お久しぶりです」



 俺は驚いて反射的に身を引いてしまったが、恐る恐る近付いて確認してみれば、現在自分の教室では担任の教師と生徒とその親による三者面談が行われていた。



「お久しぶりです。本当に。結婚したので今は浜川となっていますが」



 いま面談中の学生は、なんと浜川さんだった。



嘘だろ、と思いつつ、これ以上覗くのは良くないと時間だけ確認して、教室の前に並べられている待機用の椅子に腰かけた。



 それにしても、浜川さんの母親、旧姓はツルミというのか。まさかエミがこの学校にいるわけはないのだが、つい気になってしまった。



 ふと、今日が本来ならば、エミが土手に来る日であることを思い出す。



俺は相変わらず土手に通い続けているが、既に一か月以上彼女には会えていない。走ることは習慣であるが、期待することだけはもう、かなり疲れてきてしまっている。



会えないのならば会えないと、そうはっきり伝えてくれればいいのに。



 はぁと暗い溜息をついて、椅子に深くもたれかかった。



物思いに耽るのも億劫だと思っていると、ふと教室から漏れてくる声が耳に届いた。



「進路はどう考えていますか?」



 担任の先生の問いに答えたのは、浜川さんではなく母親の方だった。



「娘は国立の大学に進学させるつもりです」



 できれば自分と同じ所に、と言った浜川さんの母親に対し、担任の先生が誰もが聞いたことのある有名な大学の名前を口にしていたので、俺は思わず目を丸くしていた。



 浜川さんはそんな所を狙っていたのか。



 俺は素直にそう驚いていた。



「浜川さんは、大学に進んでどんなことを勉強したいですか?」



 担任教師の問いの後にしばらくの沈黙が訪れ、次に聞こえてきたのは浜川さんの母親の声だった。俺は浜川さんの家で行った勉強会の時のことを思い出し、やはりそういう親だったのかと内なる怒りを募らせていた。



 そんな折、自分の母親が現れて居住まいを注意されたので、俺はきまり悪くなりながら椅子に座り直した。



 母親が俺の隣の席に座ってからしばらくして、教室の中から、「本日はありがとうございました」という声と共に椅子を引く時の床を擦る音が聞こえてきた。



扉を開けて出てきた浜川さんの母親に一瞥されたが、特にこちらを気に留めた様子もなく、一礼して廊下を進んでいった。



 そんな彼女の後を歩く浜川さんと目が合った。



一瞬恥ずかしさから目を逸らしてしまったが、もう一度目線をやると、彼女は嬉しそうな顔でこちらを見ていて、じゃあね、というように手を振りながら去っていった。



気付けば、俺も手を振り返していた。



 隣に座る母親の口からあふれ出てくる俺と浜川さんの関係性を勘繰る言葉を雑にあしらいながら、教室から顔を出した担任の教師の案内に従い、俺と母は教室の中へと入った。





     *     *     *     *     *     *





 面談を終えた後も母の浜川さんへの興味は尽きておらず、あれこれと飛んでくる質問を俺は何とか受け流していたのだが、下駄箱まで降りた時に偶然ばったりと尻手に会い、しめた、と思いながら彼に声を掛けた。



「尻手。おっす」



 俺の存在を確認した彼の眼は、日本刀のように研ぎ澄まされていた。普段俺を見る彼の目にも時々攻撃的な色は浮かんでいたが、今日は一段と増してその暴力的な味を強めていた。



 尻手は俺の母親の存在を確認した後、彼女に挨拶をしてから俺に話しかけてきた。



「ちょっと、今いいか?」



 俺は母の質問攻撃を避けられるならと軽い気持ちで了承し、母親に先に帰っているように伝えてから、廊下の奥の方へと歩いていく尻手の後に付いていった。



 階段の前まで来て、踊り場から手前に折り返している方の階段の下の空いた空間までやってくると、突如として胸倉を捕まれ、背中から壁に叩きつけられた。



 衝撃が走ってくると共に、血走った目の尻手が俺に怒りを向けてくる。



「お前! どうして先輩の邪魔をした!」



 訳がわからず困惑していると、彼は「とぼけた顔をするな!」と吠えた。



「お前、浜川さんが告られること知ってたんだろ。だからあそこで待ち構えてたんだ。このクソが! 人の告白を邪魔しやがって」



 ここまで言われてようやく理解した。尻手は、テスト返却日に南棟の階段で俺が見てしまった告白現場の話をしているのだ。



「誤解だよ。俺は偶然」



「偶然人が来ないから、みんな南棟で告白するんだろうが馬鹿。たまたま生活習慣が被って朝の時間を独り占めできるからって彼氏面してんじゃねえよ。お前が来たせいで先輩は振られたんだぞ」



 そう言って尻手は俺を壁に叩きつける。痛みの強さに身の危険を覚え、俺は抵抗を試みた。



「ちょっと落ち着けよ」



 俺は尻手の手を掴み彼を抑えつけようと試みるが、すかさず頭突きが飛んできた。間一髪避けることができたが、尻餅を突いてしまった。



 床に座り込んだ俺に跨り覆いかぶさるように、尻手は再び胸倉を掴む。先ほどと体勢が違うためか釣り上げるような形になり、制服の襟がぎりぎりと俺の首を絞った。



「お前がいなけりゃ、先輩が浜川の彼氏だっ」



 大声で噛みついてきていた尻手の顔が突如として横に滑ったかと思うと、あっという間に地面に転がった。



「大丈夫か?」



 顔を上げると、そこには綴人がいた。



「なんだよてめぇ!」



 そう叫びながら飛びかかった尻手の腹に、綴人の蹴りが鋭く刺さった。尻手は背中から地面に倒れ込むと、痛みに悶えて体を何度も横へゆすった。



「お前こそなんだよ」



 綴人の声が冷酷に響き渡る。彼は尻手が痛みで動けなくなっているのを確認すると、俺のもとに寄ってきて、「立てるか?」と声を掛けてきた。



「うん」



 綴人が差し出した手を掴んで俺は立ち上がる。綴人はいつも通りの明るい顔を俺に向けてくれていたが、俺は逆にそれが恐ろしかった。



 彼の冷めた一面。普段それは彼自身にだけ向けられていたものだから、それが他人へと向けられた時を俺は少しも想像することができなかった。



その結果として、先ほどまで、ある種の殺意にも似た感情を俺にぶつけてきていたはずの尻手が弱々しく床に蹲っている。



俺は尻手に、同情することしかできなかった。



「取り敢えず、栄治は離れてて」



 綴人はそう言って俺を尻手から遠ざけると、床に転がる尻手のもとへと近寄った。



「お前、なんで怒ってんの?」



 尻手はなおも怒りを込めた眼差しで綴人を見るが、彼の体は表情とは反対に、綴人から遠ざかるように動いていた。



「あいつが、先輩の告白を邪魔したんだ」



「その先輩が、栄治に報復しろって言ったのか?」



 淡々と紡がれた綴人の言葉に、尻手は「違う!」と大声を上げた。



「先輩はそんな人じゃない!」



「じゃあ、なんで怒ってんだよ?」



 抑揚のない言葉が紡がれる。それが不気味だった。



綴人は今、どんな表情で尻手を見下ろしているのだろうか。



「あいつが、邪魔したから・・・・・・」



 尻手の言葉から力が失われていった。



その原因が綴人に対する恐怖でないことは明らかだった。



彼は、自らが信じていた何かが発していた力が段々と意味を失っていく様を感じていたのではないだろうか。



 ふと、尻手はこのまま泣き出してしまうのではないだろうかと思った。



そして、その姿を俺に見られることが、彼にとって何よりの屈辱であるということは、容易に想像できた。



「綴人。ありがとう。もういいよ」



 綴人は一瞬俺の判断を訝しんだが、「わかった」と言った。



俺が下駄箱へと向かおうとすると、綴人は尻手と俺の間に常に位置するように俺の隣を歩き、そのまま下駄箱まで付いてきた。



「面談?」



 そう尋ねると、綴人はこくりと頷いた。



「残念ながら、これから」



 彼が尻手に対する警戒心を解いていないことはわかっていたが、俺の中には彼がこれ以上突っかかってこないだろうという確信めいたものがあったので、「もう大丈夫だから」と綴人が安心できるように言葉をかけた。



 綴人とは下駄箱で別れ、俺はそのまま家に帰った。



尻手を一人置いてきてしまったことだけが心残りだったが、俺が何をしてもきっと彼は拒むだろうと思うと、やはり自分には何もできることがなかったのだと虚しい結論に至るばかりであった。





     *     *     *     *     *     *





 家に帰ると、どうしても尻手のことを考えてしまった。



彼は以前、俺に対して「釣り合わない」と言っていた。あれは恐らく、俺では浜川さんと交際するのにふさわしくない、ということだろう。



逆に言えば、彼はあの先輩の告白が上手くいくことを望んでいたのだから、あの先輩は浜川さんと釣り合っているということになるのだろう。



 南棟の階段で目撃した先輩の容姿を頭に浮かべた俺は、一歩引いた視点からなら、きっと同じことを思っただろうと考えた。



そして同時に、尻手は浜川さんのことが好きであったと仮定すると、彼は先輩と浜川さんが付き合えば、自分の恋心を諦めることができると考えたのだろうとも思った。



 尻手がもがき苦しんで導き出した諦めるための理由が自分の思った通りに成立しなかったから、彼は怒りに取りつかれたのだろう。



 そして俺は、その葛藤がどうしても他人事とは思えなかった。



 少なくとも、今日も土手にツルミエミが来なかった時、一層強くそう感じていた。


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