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十 夏を駆け抜けて

面談期間が終わると、ついに終業式の日がやってきた。



成績表を受け取って一学期の終業式があるだけの、言ってしまえば来る必要がない今日という日。



我がクラスは全ての生徒が学校に来ていた。ただ一人、尻手を除いて。



夏休みの始まりを今か今かと興奮気味に待っている生徒達とは対照的に、尻手に会えないまま夏休みに突入してしまうことが俺は恐ろしかった。



 誰かが、彼の痛みに寄り添ってあげるべきなのではないだろうか。しかし、その役目を俺が果たすことはできない。もし川崎に頼めば、彼は時間が解決してくれると言うだろう。それはきっとその通りなのだ。だが、諦めることは、時が経てば経つほど難しくなっていくのだ。



 担任の教師が「それでは、よい夏休みを」というと同時に、本日の全活動の終了を告げるチャイムが教室に響き渡った。



生徒たちは次々に喜びの声を上げ、軽やかな足取りで続々と教室を出ていった。



 川崎は用事があるとかで、すぐに帰ってしまった。明日葉も既に教室の中におらず、俺は誰にも尻手のことを相談することができないことを悟った。



 暗い気持ちでふうっと息を吐きだしていると、「小田君」と耳元で澄んだ音が響いた。びくりと体を震わせながら横を向けば、浜川さんがイタズラっぽく笑っていた。



「一緒に帰ろ」



 断る理由はない。しかし、浜川さんに対する罪悪感と尻手に対する罪悪感が、返答のための声を喉の奥へと押しやった。それでも、邪な俺の心は、首を縦に振らせたのだ。





     *     *     *     *     *     *





「夏休みの予定、何か決まってたりする?」



 終業式の日の帰り道の定番の話題といえば、やはり夏休みの予定だろう。そしてそんな浜川さんの問いに対する俺の返答も、型にはまったものだった。



「部活以外何も決まってないや」



 強豪などではけしてない我がバスケットボール部では、約四十日ある夏休みの間に二十日間の活動がある。多い少ないの意見は部員の間でも割れるが、綴人は少ないと答えるだろう。俺の意見としては、丁度いい、だろうか。というのも、二日に一度はバスケをしないと体が鈍るからだ。



「浜川さんは?」



「私は部活に入ってないから、何も決まってないよ」



 ここで話が終わってしまうのが、いささか寂しいと感じたのだろう。



「じゃあさ、夏休み、どこか行ってみたいところとかある?」



 自分から、そんなことを浜川さんに尋ねていた。



 彼女はしばらく考えた後、ふと何かを悟ったように「川」とだけ答えた。



「川」



 全く予想していなかった返答に、俺はただ繰り返すことしかできなかった。



「うん。川。海とか山じゃなくて」



「泳いだりとか、釣りをしたりするの?」



「ううん。川沿いの道を、ひたすら上流に、もしくは下流に歩いていきたい」



「へえ。でも、景色とか良さそうだよね」



「景色も良いけど、こう、自分の住んでいる世界の輪郭をなぞりたいんだよね。自分はどこで生きていて、自分はどこに行けるのかが知りたい、みたいな」



 突然浜川さんの口から語られた壮大な計画に、俺は思わず「おおっ」と感動の声を上げていた。



「私達の町の横には、多分町ができるずっと前から川が流れてるでしょ。川を越えることは異界に行くことだって古文の授業で言っていたから、なら、川って世界の果てだっていうことにならないかな。そうすると私達の町って、世界の果てをずっと見ながら発展してきたことになるから、それを考えるだけでもすごくわくわくするし、その世界の果てをなぞりながら私達の町を見たら、きっと自分のいる世界がどんな形をしているのかわかるかも、みたいな」



「詩的だ」



「そうかな? 正直、言っててすごく恥ずかしいけど」



 話の区切りと丁度同じ時に、俺と浜川さんの家への分かれ道に着いた。



じゃあね、と言えばまた一か月後になるのだろうか。



それで構わないと、俺は既に思えなくなっていた。



「浜川さん」



 名前を呼ぶと、彼女はじっとこちらを見た。瞳は期待に揺れていて、恐らく、俺も同じ考えを持っていた。



「夏休み、一緒に川沿いを歩かない?」



「・・・・・・いいよ」



 返事をした後、彼女はふふっと笑う口元を手で覆い隠した。



「正夢になったね」



 彼女の言葉の意味がわからず、「どういうこと?」と尋ねてみた。



「ずっと前の話だけど、小田君が川原で私と会う夢を見たって言ってたでしょ。だから」



 笑いが止まらないのか、彼女はしばらく口元を手で覆い続けていた。



俺はその様子を穏やかな表情で見守りながら、自分の中の思い出の一つ一つを、別の思い出で塗り潰していく覚悟を固めていた。



 彼女の笑いが落ち着くのを見計らない、俺は詰めのために言葉をかける。



「連絡先交換しておかない?」



 ポケットからスマホを取り出そうとしながらそう言うと、浜川さんは申し訳なさそうに「ごめん」と言った。



「私、携帯持ってなくて」



 多少驚きはしたものの、そういうこともあるだろう。しかし、どうやって連絡を取り合えばいいのか。



まさか、浜川さんの家の電話にかけるとか?



「でも家に固定電話はあるから。平日の午後五時頃なら、必ず私が出られるから、その時間だったら大丈夫だと思う」



 フラグしか立っていないが大丈夫だろうかと思いつつ、俺は彼女の案を承諾した。彼女の家の電話番号と俺の携帯番号の情報を交換し合い、俺達は別れた。



 家に帰ってから、午後五時を待って電話をかけてみる。正直気が気でなかったが、無事浜川さんが電話に出てくれた。



そして、俺達は最初の約束をした。





     *     *     *     *     *     *





 夏休みに入り、部活三昧の日々になった。



家では夏休みの宿題に取り組み、学校に行けば部活に勤しんだ。かといって集中力は続かないので、疲れたら思い切り遊んだ。そして約束の日が来れば、俺は浜川さんに会いに外へと出た。



 暑さ対策のため、薄手の長袖長ズボンに水筒タオル帽子を装備。好きな女の子と歩く格好とはいえないかもしれないが、暑さで健康を害するよりはましだろう。・・・・・・例にもれず、小学生の時から来ていた服ではあるが。



 待ち合わせのために、浜川さんの家の近くの公園へと足を運んだ。予定の十五分前には着いたのだが、既に彼女は待っていた。



「ごめん待った」



 俺が駆け寄ると、彼女はぱっと顔を明るくさせた。



「ううん。大丈夫」



 今度からはもう少し早めに来るかと思いつつ、見慣れた制服姿とは異なる格好の彼女を観察していた。

俺と同じ長袖長ズボンに帽子を被った服装だったのだが、なぜだろう、華やかで凛としていた。服や着る人間の違いでこうも印象が変わるものなのだと素直に感心した。



「似合ってる」



 率直に感想を述べると、彼女はぼそりと「ありがとう」と言った。その様子を見ていてこちらまで恥ずかしいことを言った気分になり、顔が熱くなった。



 早速公園を出発した。土手までは徒歩約二十分。いつものように会話をしていると、思いのほかすぐに辿り着くこができた。



 土手から見える景色に、浜川さんは感動の声を上げた。



「すごい。遠くまで見える。・・・・・・なんか、変な感想だね」



 彼女は恥ずかしそうに言うが、俺も初めて訪れた時は同じ感想を抱いた。



普段は手近なものにしか注目しない生活を送っているのに、土手に来れば近くに建物がないので遠くにしか注目する物体がない。



周囲に土手よりも高い建物が存在しないためか、空が信じられないほど広く見えるのだ。



「普段は遠くを意識することなんてないから、その気持ち、すごくわかる」



 二人で景色に見とれながら、水分補給をしてしばらく休憩をした。五分ほど休んだ後に行動を開始。この日は、上流を目指すことにしていた。



 人間の歩く速度は時速四キロほど。ここから上流までは十三キロあるので、歩くとなると片道三時間以上かかる。往復だと七、八時間はかかるだろう。そこで今回の目標は、八キロ上流へ進むことに設定している。片道二時間、往復四、五時間というところだ。



 見上げれば青い空に白い雲。夏らしい景色だ。



しかし顔を正面に戻せば、普段は見ることができない、地平線まで続く青空を拝むことができた。



この道はどこまで続いているのか。先には何が見えるのか。



浜川さんの語った言葉を思い出し、俺も少し気分が上がってきた。



 歩きながら下に目を降ろせば、緑の草原から顔を出す色とりどりの花々が見えた。



白に黄色にオレンジに紫。花弁が小さな花がほとんどだが、中には握り拳が花弁の中に納まってしまうほど大きな花もあり、ついつい足を止めてはしげしげとその花を観察していた。



 下流よりも先に上流を目指したのは、こうした美しい花々が咲いているのを知っていたからだ。以前、自転車を二人乗りして走った道だから。



その時の思い出を今、浜川さんとの思い出で上書きする。



 歩く度に胸が苦しくなるのは、きっと息が切れてきたためだろう。



一歩、また一歩と、移り行く景色と隣で笑う少女の姿を目に焼き付けた。





     *     *     *     *     *     *





 時速四キロとはあくまで歩き続けた時の話であり、今回のように途中途中で足を止めたりいくつか休憩を入れたりすれば、当然想定以上の時間が過ぎていった。



初日ということもあり、少し目標設定が甘かったのだろう。



今回の結果としては六キロほど進んで折り返したところ、始めの位置に戻ってきた時に五時間が経過していた。



目標を達成することはできなかったが、すごくいい景色が見られたと浜川さんが喜んでいるから、これでいいのかもしれない。



 このような感じで、俺は夏休みの間、勉強、部活、遊び、浜川さんとの川沿い散策を繰り返した。



体力を使い果たすと、運動不足時特有のかゆみも起こらず、浜川さんからの電話のために、夕方は家にいなければならない。



こうして十分な理由を得た俺は、例え火曜日や木曜日になっても、土手へ走りにいくことはしなかった。



 もちろん、会う度に長距離歩行というのもさすがに味気ないので、夏休みの間、俺は浜川さんと都会の方へと繰り出すこともあった。



映画を見たり、美味しそうなスイーツの店を訪れたり、また以前断った過去がある服を見にいくことだったりなどなど、高校生らしい遊びに挑戦していた。



 しかし、そのどれよりも彼女の表情が輝いていたのは、川沿いをひたすらに歩くことだった。



きっと、浜川さんには俺が見ている以上に美しい景色が見えているのだろう。ならば、俺も彼女と共に歩くのみだ。



例え、ツルミエミと過ごした時間と、浜川咲と過ごした時間が、夢の中で混ざり、見分けがつかなくなろうとも。





     *     *     *     *     *     *





 八月の半ばに入ると、バスケ部の合宿が行われた。



朝から夕方まで一日中バスケの行う四泊五日。



学校の規則の関係上、夕方五時に練習を終えなくてはならないのは少し残念だが、いつの間にか習慣となっていた、浜川さんへの電話をかけることができるのは、不幸中の幸いというべきなのだろうか。



 バスケでくたくたになりながら寮へと戻り、夕食までの休憩時間。時間はいつもより少しずれて、五時半過ぎ。部員の目を避け、寮の外で電話をかけた。



 かなり疲れていたので、もしかしたら支離滅裂なことを言っていたかもしれない。それでも合宿から戻った後の話をして、花火大会に行こうと約束した。



 部屋は数人で一つを使うため、夜は修学旅行のように騒ぐかと思ったが、実際にそうなったのは初日の夜だけで、それ以降はみな早く眠りに就いてしまった。



 一人の夜というのも寂しいだけなので、自分もさっさと眠ってしまおうと目を瞑り横になった。



しかし、自分もかなり疲れているはずなのだが、なぜか目が冴えていた。



どうしたものかと天井をぼうっと眺めていると「起きてる?」と綴人が話しかけてきた。



「起きてる」



 俺が小声で応じると、綴人は枕と体を引きずって近寄ってきた。



「ツルミエミと会えたのか?」



 綴人の言葉に、ドキリ、と心臓が大きな音を立てた。鼓動が早くなり、汗が額からにじみ出てくる。



「いや、会えてないよ」



「そうか。でも、最近いいことあっただろ?」



 綴人に話すべきか、一瞬ためらってしまった。ツルミエミではなく、浜川咲への想いを優先している今の自分を責められるのではないか。そんな恐怖があったからだ。



 だから浜川さんとのことは伏せたまま、俺は綴人に自分の胸のうちを伝える。



「多分、色々と、諦めたからだと思う」



「諦めた?」



「うん。多分もう、ツルミエミと会うことはないんだって」



「そうか」



 夜の部屋を再び静寂が支配した。



眠れなくても取り敢えず体を休めようと目を瞑ったが、「なあ」という綴人の呟きに、俺は再び目を開けた。



「何?」



「栄治は、浜川さんとツルミエミが、本当は同一人物なんじゃないかって、考えたことはないか?」



 綴人は、俺が一番考えたくない問いをぶつけてきた。



「なんで、そんなこと聞くんだよ」



「俺なりにずっと考えていたんだ。そして、一応一つの結論に落ち着いたんだ」



 そう言って綴人は、「話していいか?」と同意を求めてきた。



 なぜ急にそんなことを言いだすのだろうか。なあ、綴人。お前は一体、何を知っているというんだ。



「・・・・・・話してくれ」



「わかった」



 綴人は、ぽつり、ぽつりと、語り出した。



「俺は、エイジから話を聞いた後、本当は二人が同一人物なんじゃないかって考えたんだ。でも、本人に聞いたところではぐらかされるかもしれないし、何か証拠はないかって、そう考えたんだ。そして、中学からずっと浜川さんのそばにいる平昭さんに聞いてみたんだ。浜川さんは、自転車を持っているのかって」



 自転車? 確かにツルミエミは自転車に乗っていた。でも、それが何だというのだ。自転車なんて誰でも持っているだろ?



「平昭さん曰く、浜川さんは、自転車を持っていないそうなんだ。家の方針で、危険だから買い与えなかったみたいだ」



「で、でも、自転車なら、誰かから借りればいいだろ?」



 なぜ、俺はこんな意見を言っているのだろう。



「平昭さんはそう思って、浜川さんを自分の自転車に乗せてみたことがあるそうだ。そうしたら、人の支えがないとまともに走ることができず、結局運転できるようにならないまま諦めたそうだ」



 心臓の鼓動が早くなる。息が苦しくなる。頭が痛くなる。心が重くなる。



もしかしたら、自分は、聞き間違いをしてしまったのかもしれない、とそう思い、綴人の話を丁寧に吟味する。



もし、浜川さんとエミが別人物ならば、エミが自転車に乗れることに何の不思議もない。しかし、仮に浜川さんとエミが同一人物であるならば、エミが自転車に乗れることに矛盾が生じてしまう。なぜなら、浜川さんは自転車に乗ることができないから。



 そこまで考えた瞬間、全身から冷や汗がしみ出てきた。勝手に体が震え出し、悪寒まで感じてしまった。



 一体、どうしてなのだろう。なぜ俺は、これほどまでに動揺しているのだろうか。



なんで俺は、この期に及んでまだ、浜川さんとエミが同一人物である可能性に、縋り付いていたのだろうか。


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