十一 少女の手
合宿が終わって家に帰ってくると、両親が入れ違いに旅行に出かけてしまったためか、出迎えてくれる人が誰もおらず、寂しさを感じた。
合宿から帰ってきた翌々日に、花火大会の日はやってきた。
浜川さんの家の近くの公園で、俺は彼女が来るのを待っていた。約束の時間は午後六時だったが、その時間を十五分過ぎても彼女は現れなかった。
公園と浜川さんの家を繋ぐ道は一本しかないから、入れ違いになることはないだろう。
そう考えた俺は、浜川さんの家へと向かった。
そして門の前に着くと、ふと違和感を覚えた。
既に日は沈んでおり、闇に包まれた周囲の家々は窓から漏れた光によって、自らの姿を浮かび上がらせていた。
だが、浜川さんの家からは一筋の光も見えなかった。
ひょっとすると、何かあったのではないか、とついそんなことを考えてしまった。
まあ考え過ぎか、と思いインターホンのボタンを押すが、ボタンを押した時のカチカチという音が聞こえるばかりで、どこからもピンポーンという音が聞こえなかった。
故障か? それとも、ブレーカーが落ちているのか。
しかし、ブレーカーが落ちているにしては、いつまで経っても家に電気が灯らない。
段々と心配になってきた俺は、どうにか家の様子を確認する方法はないかとうろちょろしているうちに、誤って家の敷地に入るための背の低い門に触れてしまった。
本来開くはずのない扉に寄りかかることができず、そのまま自然に開いた扉の向こう側へとバランスを崩して転んでしまった。
幸い怪我をすることは無かったが、鍵を開けたままとはずいぶんと不用心なことだ。
そう思い再び浜川さんの家の様子を確認するが、わずかな明かりも漏れていなかった。
俺は玄関へと向かい、戸を手で叩いた。
「すいませーん。誰かいませんかー」
声を掛けてみるも返事はない。一体どうしたというのだろうか。
試しに、スマホから浜川さんの家に電話をかけてみた。
家の中からベルの鳴る音は聞こえてこない。
勿論電話線が抜けているという可能性もなくはないが、もっとも高い可能性として、恐らくブレーカーが落ちているのだろう。
だとしたら、なぜいつまでも明かりがつかないのだろうか。家に誰もいないのか? それならば、浜川さんはどこにいるのだろう。
その瞬間、家の中から、ドタドタドタドタドタ、と何かが勢いよく落ちる音がした。
反射的に階段からの落下を考えた俺は、暗闇で足を踏み外したのかもしれないと思い、「大丈夫ですか」と声を掛けながら、玄関の戸に手をかけた。
だが、いくら力を入れても、鍵が閉まっているために一向に開かない。
俺は首を動かして、他に入れそうな場所がないか探した。
そして、そう言えばと思い出し、和室が面していた大きな岩がある庭を目指して家の周りを回った。
記憶の通り、中庭に面している戸は障子だった。俺は鍵のかかっていない戸を横にずらし、靴を脱ぎ散らかして家の中に上がり、玄関の方へと向かった。
その時、誰かが走って遠ざかるような音がして、俺が玄関へと着いた時には、玄関の引き戸のガラスから入り込んでくる仄かな外の光の中に浮かび上がって、誰かが倒れているのが分かった。
頭を揺らさないように肩の位置を触り、「大丈夫ですか」と声を掛けた。すると、「うん、大丈夫」という聞き慣れた声が聞こえた。
「浜川さん!? 頭ぶつけたりしてない?」
倒れている人物が浜川咲であるとわかった瞬間、猛烈な不安に襲われた。つい早口になり、大きくなった声で容体を聞いてしまった。
「頭は打ってないから。大丈夫」
そう返事が返ってくるが、灯りのない室内では心もとない。
俺は浜川さんの家の電灯のスイッチの場所を知らないので、スマホの灯りを使って彼女を照らした。
瞬間、肝が冷えた。
「血、血が出てる!」
見れば、彼女の頭部の周囲に血が纏わりついていた。
「腕が切れた傷だから落ち着いて。頭を怪我したわけじゃない」
俺以上に浜川さんが冷静だったので、俺はなんとはパニックにならずに済んだ。
一度深呼吸をした後、「念のため、救急車を呼ぶね」と言ってスマホの画面に触れようとした瞬間、浜川さんの手がスマホに覆いかぶさった。
「お願い、救急車は呼ばないで」
「どうして?」
「説明するから。今はお願い」
彼女が必死に頼み込んでくるので、俺は救急車を呼ぶことはしなかった。
しばらくして、痛みが引いたのか、起き上がれるようになった浜川さんが家のブレーカーを上げ、家の中に光が戻った。
彼女の様子を確認すると、彼女が言った通り、腕にいくつかの痛々しい赤い線が走っているが頭を怪我してはいなかった。
だが万が一どこかをぶつけていたらと思うと、つい救急車を呼びたくなってしまう。
一先ず、浜川さんが持ってきた救急箱を用いて、俺が彼女の腕の怪我を手当てした。
その後階段下の床に付いていた血などをふき取った。
一仕事を終えた後、休憩しようと浜川さんに提案された。
勉強会で来た時には入れなかった洋室に案内された俺は、浜川さんと向かい合うように机を囲み、彼女が出してくれた麦茶で落ち着きを取り戻しながら、何が起きたのか、どうして救急車を呼ばなくていいのか、その理由を尋ねた。
「まずは、待ち合わせの時間に公園に行けなくてごめん」
「そんなこと・・・・・・。本当に無事で良かった。それで、何があったの」
「その、簡単に言うと、お母さんに監禁されて、逃げようと思ったら階段から落ちた、というわけです」
浜川さんの非常に簡潔で明瞭な説明を聞いて、俺は彼女が置かれている状況を少しも理解することができなかった。
「監禁って何? どういうこと?」
完全に頭の中がこんがらがっている俺を見て、わからなくても仕方がない、という風に浜川さんは笑った。
「なんとなく察してるかもしれないけど、私のお母さんて、少し厳しいところがあって。あらかじめ伝えておかないと、遊びにいっちゃ駄目、とか、危ないから自転車に乗っちゃ駄目とか色々禁止されてるの。この前の勉強会も、無断でやったから怒られちゃってさ」
ではやはり、あの時浜川さんは母親に頬を叩かれていたのだ。
「でも、私も反抗期ってやつなのかな、つい抵抗したくなっちゃって。小田君と色々遊びにいったこと、全部お母さんに言ってなかったの」
段々と、点と点が繋がっていく。
「お母さんも不審に思ってたらしくて、そして今日の花火大会のことがバレちゃって、絶対行かせないって二階の私の部屋に閉じ込められちゃって」
「ブレーカーが落ちてたのは?」
「暗くなったらブレーカーの様子を見に下に降りるかと思って、ドライヤーとか電灯とかエアコンとかヒーターとか、部屋の中にある電荷製品を片っ端から使ってブレーカーを落としたの」
何という力技だろうと驚いていると、彼女は少しがっかりしたような表情になる。
「階段を降りる音がしたから部屋を飛び出したんだけど、それはお母さんがした階段を降りる演技で、そのまましばらく、言い合いやら取っ組み合いやらしてたら、私が階段から落ちちゃったの」
「それで、浜川さんのお母さんは?」
先ほどから物音はしてこない。辺りを見回しても、当然人の気配はない。
「さっきの小田君みたいに、私が血を出しているのがわかるとパニックになっちゃって、小田君が来たら逃げちゃった」
「逃げたって、俺達は玄関前にいたよね」
「この家には裏口があるから、多分そこから」
一通りの説明を受けて、ようやくわかったことがある。
浜川さんが救急車を呼びたがらなかったのは、母親が警察のご厄介になってしまう可能性を恐れたのだ。
怪我をしたのに際し、当然救急隊員に原因を聞かれることだろう。そこから母親の罪が追及されると浜川さんは考えたようだ。
部屋の中を見渡し、時計を探した。発見した時計が示していた時刻は、花火大会の終了する時間であった。
浜川さんが階段を転げ落ちるという大惨事が起きたのだから、花火くらい見られなくても仕方がないと自分に言い聞かせた。
浜川さんに出してもらった麦茶を飲み終え、ふと考える。
果たして、俺はこのまま浜川さんを家に一人にして帰っていいのだろうか。
俺達の間に沈黙の帳が降りた。帰るとも残るとも言い出せず、どうしたものかと悩んでいると、「あの」と浜川さんの声が聞こえた。
「もし良かったら、小田君の家に泊めてもらえないかな?」
彼女の提案に対し、俺が間抜けに響く驚きの声を上げたことはいうまでもない。
「ここに泊まっていくとかじゃなくて?」
「それだと、お母さんが帰ってくるかもしれないし」
考えてみれば確かにそうだ。俺が帰ってしまった状態で浜川さんが母親と遭遇しても、俺が泊った状態で遭遇しても、どちらにしても悪いことが起こるという予感がはっきりとある。
しかし、だからといって、現在両親が旅行に出てしまっているという状況を踏まえると、女子を男子の家に泊めるという行為はますます罪深いものに感じられる。
どうしたものかと浜川さんを見れば、彼女の不安そうな表情が目に飛び込んできた。
どうやら、俺に選択肢はないらしい。
「わかった。うちに来てよ」
「うん。ありがとう」
話もまとまったところで、早速出発しようと浜川さんに声を掛けると、「先に電話しておかなくて大丈夫?」という至極もっともな意見が返ってきた。
俺はどうせわかることだと思い、両親が現在旅行に出ていて家にいないことを伝えると、彼女はすっかり顔を赤く染めてしまった。
そういうこともあってか、浜川さんの家から俺の家に向かう途中、俺達の会話はほんのわずかで、気まずい沈黙を纏ったまま、誰もいない家の中に二人だけで入っていった。
時刻はまだ二十二時にもなっておらず、お腹も空いていない。テレビゲームでもして時間を潰そうかとも思ったが、浜川さんは一度も遊んだことがないという理由から遠慮していた。無理に勧めるわけにもいかず、だからといって一人で行うのも気が引けた。
何もすることがなく、しかし浜川さんは緊張からだんまりだ。何とかして空気をほぐそうと知恵を絞った結果、絵しりとり、という絶妙な遊びに落ち着いた。
ぱっと思いついただけの遊びとしては、それなりに盛り上がったと思う。
俺はそもそも曲線が上手に引けないので、短い直線を繋げて描いた角張った画風で、犬や猫などのわかりやすいものを描いた。そうは言っても、犬と猫の絵の違いはほとんど見られなかったので、「ずるい」と浜川さんに抗議される羽目になった。
一方浜川さんは、ある程度の画力があるためか、猿や楽器といったそれなりに書き込みを要するものを中心に描いていき、チンパンジーやゴリラといった細かい書き分けを行った。しかしビオラやチェロといったそもそも俺が知らないものまで書いてくるので、浜川さんが何を描いたのか、ラ行から始まる描けるものなど俺にあるのか、そういった困難に直面することになった。
浜川さんの緊張が解れたところで、丁度良い時間になった。寝る前に風呂に入るかどうかを訪ねてみると、彼女は少し困ったような表情をして「インナーが、ない」と呟いた。
まさか母親のものを、ましてや自分や父親のものを貸すわけにもいかず、財布と鍵を浜川さんに渡して近くのコンビニで買ってくるように言った。
彼女が買い物で外に出ている間、俺は風呂を沸かし、自分の部屋と両親の部屋に布団を敷いた。幸いにもお客様用の布団を押し入れの奥から発見することができたので、浜川さんを両親の布団に寝かせるという事態だけは避けることができた。
浜川さんが戻ってくるのを待ち、無事目的のものを手に入れて戻ってきた彼女に対し、俺は重要な決断を迫った。
「お風呂、先に入る? 後に入る?」
ここから、彼女の長考が始まった。顎に手を当てたり、天井を仰いだり、目を細めたり、貧乏ゆすりをしたりなど、将棋の棋士を彷彿とさせる様々な挙動を繰り返していた。
およそ五分の葛藤の末、先に入る、という決断を下した。
浜川さんが風呂に入っている間、俺は彼女が入った後の湯船につかるべきかつかるべきではないかを延々と考えていた。ただひたすらに、それだけを考えていた。
自分で考えている間は結論が出ることはなかったが、風呂上がりの濡れた髪の少女を見た瞬間、これは入るべきではないと冷静に悟った。
自分の番になると、風呂場に入ってまず真っ先に浴槽の水を抜いた。そしてシャワーを浴びて風呂場を後にした。
しばらくぼうっとした時間を過ごした後、浜川さんに両親の部屋に敷いてあるお客様用の布団で寝るように伝えると、彼女は少し寂しそうな表情を浮かべた。
「ねえ。一緒に寝ない」
冷静に考えれば同じ部屋で寝ようという意味であるだけで、けして同じ布団で寝ようという意味は含まれていないという何一つ誤りのない結論に至り、俺は自分の部屋に敷いていた布団を両親の部屋に移した。
日付が変わる前に、俺達は布団に入った。
両親の部屋は自分の部屋に比べて二倍以上広く、暗闇の中一人でこんな所にいれば、不安を感じてしまうのは仕方のないことかもしれないと俺は思った。
眠りに就くためには頭を空っぽにする必要があるのだが、隣で眠る少女のことが気になって、俺の目は冴え渡る一方であった。
電気を消してから、どれくらいの時間が経ったのだろう。
「起きてる?」
そんな声が聞こえてきたので俺は、「起きてる」と返事をした。
「今日、結局花火大会に行けなくて、本当にごめん」
「浜川さんが謝ることじゃないよ。むしろ、問題はこれからっていうか」
「・・・・・・実は、お母さんとお父さん、いま別居してるの。だから、お父さんの所に行こうかと思ってる」
浜川さんの家だけではなく、世の中には様々な複雑な家庭があって、両親とそれなりに仲良く暮らせている自分は、実に幸せ者だ、と一瞬思いはしたが、よくよく考えてみると、勝手に不幸だと決めつけた他の家庭と比較して自分が幸せだと思っているだけなので、本当に馬鹿みたいな考えだと思った。
俺がすべきことは、浜川さんと向き合うことなのだ。
「お父さんとお母さんが別居した時、どうして浜川さんはお父さんの方に付いていかなかったの?」
この問いに対する返答は、すぐには帰ってこなかった。暗闇の中、彼女がどんな表情をしているのかわからなかった。
「もしかしたら、同情、ううん、罪悪感から、かもしれない。お母さん、昔はあそこまで厳しくなかったの。・・・・・・私の家の庭に、大きな岩があったの覚えてる? 私、お母さんにあの岩の上に登っては駄目と注意されていたのに、よく登って遊んでいたの。でもある時、そこから足を滑らせて落ちて、怪我をしちゃって、そこからお母さんがどんどん厳しくなって、次第にお父さんに対するあたりまで強くなって、それが嫌になって、お父さんは家を出ていった。もし、私があの時、ちゃんとお母さんの言うことを聞いていれば、家族がバラバラになることもなかったのかなって」
そうなのかもしれない。浜川さんが岩から落ちる過去がなければ、こんな未来にはなっていないのかもしれない。
だが、俺が彼女にかけるべき言葉はそうじゃない。綴人なら、こういう時なんと言ってくれるだろう。
「・・・・・・家族や友達ってさ、仲良くあること、とか、ずっと一緒にいることが良いことだって、そう言うじゃない。でも辛くなったら離れることって、普通だと思うんだ。そうして距離を取って、お互いの傷が癒えたら、また、一緒になればいいんじゃないかな」
「・・・・・・そう、だね」
君が今、笑っていてほしい。
身勝手に、闇の中、表情が見えない少女に対し、勝手にそんな祈りを押し付けた。
「ねえ」
「なに?」
「私のこと、名前で呼んで」
浜川さんがそう言った瞬間、俺は自分自身にもひた隠しにしていた罪悪感が漏れ出してくるのを感じていた。
「浜川さんって、ずっと他人行儀だなって、そう思ってた」
どこかで距離を作っていた。それも、意図的に。
「私達、もう、他人じゃないでしょ」
自分の一番近い所に、一人分の空白を作っておきたかったのだ。
雲に覆われていた月が顔を出したのだろうか。窓から青白い光が差し込んできて、隣で横になっている少女の真っすぐな瞳がこちらを向いていた。
「・・・・・・咲」
「——————栄治」
たったそれだけで、一瞬で彼女は距離を詰め、空けていたはずの空白は埋められてしまった。
「栄治」
俺の名前を呼んで、彼女は手を伸ばしてきた。
俺は、その頼みを断れない。彼女の伸ばす手を振り払えない。でも、確かにもう一つ、掴んでおきたい手があったはずなのだ。
俺と咲は、手を繋いだ。指を絡め、しっかりと組み合った。
いつの日か、二人が結婚に至るとしても、どこかで別れたとしても、一緒にいて幸せを感じる間は、こうして何度も手を握り合うのだろうと、そう思った。
もしも、繋いだ少女の手に、懐かしさを覚えることがなかったならば。




