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六 動き出す関係

六月も中旬に入れば、夏の顔よりも梅雨の姿を見せるようになる。雨が降った時の場合を微塵も考えていなかったので、まさかとは思いつつも、部活のない平日が来る度に、俺は雨が降っていても土手へと向かった。



当然、エミの姿は無かった。



 雨だから来なかったのだ。そういう風に自分に言い聞かせることができるのが本当にありがたかった。

会えない日が二度、三度と続いても、次こそは、と希望を持ち続けることができたから。



 そしてその次の機会。雨は降っていなかったし、エミも姿を見せなかった。会えると言われていた日に会えないことが何度も続いたためだろう。もう二度と会えないのではないか、という考えが腹の底から喉元にまでせり上がってきた。



今まで言語化してこなかった不安に襲われ、どうして連絡先を交換していなかったのだろうという初歩的な関係構築を怠っていたことを後悔した。



 もしかしたら事故に遭ったのではないかと思いはした。



だが、家から学校へと向かう道の途中にある交番が掲げている市内の交通事故の件数はここ数週間常にゼロであったので、幸いにして、と言うべきか、エミが交通事故に遭っている可能性は限りなく低い。



 ならば理由はなんだ。どうして来てくれないのか。



 そんな答えの見付からない問いを、雨の中、傘の屋根に引きこもりながら延々と繰り返していた。



「おはよう」



 待ち望んだ声がして、ばっと勢いよく振り返る。



今は朝。学校の校門前。頭の中では当然わかっていたことなのだが、そこにいたのは浜川咲だった。



彼女は傘の隙間から、少し驚いた様子で俺を見ていた。



 ぱらぱらと降る雨は、聴覚を雨音で埋め尽くし、その中で考え事をしてしまうと、いつの間にか深みにはまってしまうことが多々ある。



 反省しなければ。



「おはよう」



 きっと自分は正常ではない。浜川さんと言葉を交わす度に、エミとの記憶が脳裏にちらつくのだ。二人は別人だというのに。・・・・・・それとも、同一人物? いや、あり得ない。だが証拠もない。どうすれば、・・・・・・手を握れば、わかるのだろうか?



 そこまで考えて、戒めの意味も込めて自分のこめかみを指で強く押した。



「寝不足?」



 浜川さんが心配そうに尋ねてきた。



 ・・・・・・落ち着け。今目の前にいるのは浜川さんだ。



「あー、そうかも」



「もうすぐ期末テストだもんね」



 浜川さんに言われて、もうそんな時期か、と気が付いた。



確か今日からテスト期間に入っており、部活動も中止になっている。普段からある程度復習をしているものの、この機会に今一度知識を再確認しておかないといけない。



「どう? いい点とれそう?」



 こうして朝、校門が開く前から学校に来て勉強している相手に聞くのもいまさらだと思いはしたが、俺は浜川さんに尋ねてみた。



「うーん、どうだろう。いつも通りの点数だと思うけど」



 いつも通りと言われ、彼女の中間試験での点数を思い出す。確か、全ての教科において九十点を超えていたはずだ。



「一日どれくらい勉強してるの?」



「どれくらい、とかはあんまり気にしてないかな。課題が全部終わるまではやってるけど」



 俺も課題はちゃんと取り組んでいるつもりなのだが、九十点以上などなかなか出せない点数だ。地頭の違いというやつなのだろうか。



「勉強会でもする?」



「あ、いいかもね」



 自分の思考に囚われて、半ば反射的に返事をしてしまったが、よくよく考えてみると浜川さんにとって全く利がない。



俺が一方的に教わって彼女の勉強時間を奪ってしまうことになりはしないだろうか。



 そんなことを考えていると、彼女がさらっと口にした。



「じゃあ、私の家でいい?」



「——————えっ?」





     *     *     *     *     *     *





 休み時間の教室。いつもの四人組で教室の隅に集まり談笑しながら、今朝の一件をふと回想した。



 正直に言おう。浜川さんから誘いを受けた時、心臓がドキッと高鳴った。



ついこの間、自分が恋をしている相手がツルミエミであると気付き、次会った時に思いの丈を告白しようと決めていたというのに、半月以上会えていないからといって、いくら片想いの相手と顔が同じでも、違う少女からの遊びの誘いに心躍るとはなんて浮気性なやつなのだろうか。自分が自分であることが恥ずかしい。



 しかしよくよく考えてみると、俺は浜川さんのことも好きではあるわけで、心の反応としては正常である、というべきなのではないだろうか。



 いや、それはそれ、これはこれ、というやつだ。仮に好きな人が二人いるとしても、一人相手を定めたのなら、その人を裏切るような真似をしてはいけない。



 その後、浜川さんと話をした結果、他にも人を誘うという話になった。



個人的に一番安心できるのは綴人なのだが、彼は違うクラスで浜川さんとは恐らく知り合いではないので誘う相手としては好ましくない。よって、明日葉、川崎、尻手の三人の中から選ぶのが無難という結論に自分の中で落ち着いた。



 授業の合間の休み時間。いつものように教室の隅に集まった三人に対し、俺は声を掛ける。



「今日、放課後ってなんか予定ある?」



 部活もないしどうせ空いているだろうと高を括っていたのだが、「うん」とすぐさま明日葉は首を縦に振った。



「予定ある」



 予定の中身を言わない当たり、あまり言いたくない用事なのだろう。まあ、明日葉は彼女とよろしくやっていればいいだろう。



「二人は?」



 川崎と尻手に顔を向けると、尻手は渋い顔をした。



「あったらなんなんだよ」



「テスト前だし、勉強会でもしようかと思って」



きっと当人の予想が的中していたのだろう。尻手は露骨に嫌そうな顔で首を横に振った。



「いや、無理だわ。ごめん。ちょっと用事が」



 勉強嫌いなのか俺が嫌いなのかはわからないが、ある程度は予想していた反応だった。むしろ尻手が断ってくれてほっとしたくらいだ。



残った一人に期待の眼差しを向けると、川崎は困ったような顔をした。



「まあ、俺は用事ないよ」



「じゃあ、オッケーてこと?」



「うん。いいよ」



 あまり乗り気ではない様子が気になるが、まあ一人で勉強したいとかそんな感じだろう。



 俺は特に気にすることもなく、また逃げられる可能性を考慮して敢えて浜川さんの家で行うことを言わないまま、放課後まで待った。





     *     *     *     *     *     *





 放課後。明日葉と尻手が先に帰ったのを確認した後、頃合いを見て川崎に声を掛けた。



「実は、今日の勉強会なんだけど」



「まさかあんたとはね」



 俺の言葉を遮るように声が被せられた。



後ろを向くと、見るからに不機嫌な様子の平昭さんがいた。



「やっぱりか。なんとなくそんな気はしていたんだ。栄治は自分から勉強会を企画するようなタイプじゃないから」



 川崎は溜息をつきながらそう言った。眼鏡の奥の彼の瞳は、うんざりした様子で平昭さんを見詰めていた。



 ちっとも状況がつかめていない俺は、平昭さんと川崎を交互に見た後に、少々場違いともいえるおどけた調子で二人に尋ねていた。



「二人って友達だったの?」



 聞いた瞬間、二人は全く同時に俺の方を睨んだ。



「「違う!」」



 実は仲が良いんじゃないの、などとはやし立てた瞬間に自分の命が危うくなることが容易に想像できたので、俺は苦笑いで誤魔化した。



 すると二人のいざこざが途切れるのを見計らっていたかのように浜川さんが現れて、「それじゃあ行こっか」と言って教室の扉を出ていった。



 俺は誰かが緩衝材にならなければならないとはわかっていても、あまりに険悪な雰囲気に怖気づき、二人を置いて廊下に出た。



 川崎と平昭さんが付いてきていることを確認した後、先を行く浜川さんの隣に並んで小さな声で耳打ちした。



「あの二人が知り合いって知ってた?」



「うん。二人とは同じ中学だし。昔からあんな感じだから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」



 浜川さんと平昭さん、そして川崎が同じ中学出身だったという衝撃の新情報に目眩が起きそうだった。



今まで川崎と話していて何度か浜川さんのことが話題に上ったが、昔から知っているような素振りは見たことがなかったからだ。



 ちらっと後ろを向くと、平昭さんと川崎は並んで歩くことなく、前後に大きくずれていた。お互い肩にかける学生鞄を相手の方に向け、仮に近付いても一定以上の距離を保てるようにしているようだった。



犬猿の仲、というのだろう。同じ教室にいて今までよく衝突が起きなかったものだ。いや、衝突しないようにお互いがお互いを避けていたのだろうか。



 こう目に見えて仲が悪ければ、例えその事実を知らずとも雰囲気で察していてもおかしくないだろう。



だが今の今まで気付いていなかったのは、やはり自分は周囲の人間に興味がないためなのだろうか。



「ごめん。二人がああいう風だってこと知らなくて」



 隣を歩く浜川さんに小声で謝ると、あはは、と彼女は苦笑いする。



「私の方こそ、少し気を付けておけばよかったかも。てっきり新町君を誘うかと思ってたから油断したよ」



 そう言えば、ここに平昭さんがいるということは、明日葉が彼女と放課後いちゃこらするとう俺の予想は完全に外れていたということになる。



あいつは一体何をしているというのだろうか。普通に考えたら勉強だろうが、だったら勉強会の誘いを断るだろうか。一人で勉強したいというならわかるのだが、そういう様子でもなかった。



 そうこうしているうちに階段を降りて下駄箱に着いた。靴に履き替えている時間を調整して、先頭を浜川さんと平昭さん、後方を俺と川崎の二人組を作った。こうすれば余計な衝突が起きることもないだろう。



 下校時、幸いにも雨は降っておらず、俺達は傘置きから自分達の傘を取って晴れ空の下に進み出た。



 校門を出て通学路に入った頃、前の女子二人組の話が弾みだしたのを見計らい、小声で川崎に話しかけた。



「なんか、悪い」



「いや、いいよ。薄々気付いていたことだし」



 川崎の気が立っていないことを確認して、ほっと息を吐いた。



「その、どうして仲悪いの?」



 核心を突く質問をして、ちらちらと横目で川崎の様子を窺った。彼は動揺しているような素振りを見せることなく、何かを諦めたような表情をしていた。



「方向性の違いってやつかな」



 音楽バンドの解散時に使いそうな理由を唐突に突き付けられた。きっと答えなくないのだろうと思い、俺はそれ以上川崎を追及しなかった。



 しばらく浜川さんの後について歩くと、見慣れた景色になったので周囲に意識を向けた。丁度、いつも家から土手へ向かう時に通る道に差しかかったようだ。



 浜川さんの家はこの辺りなのか。



 そんなことを思っていると、大通りを逸れた脇道を少し進んだ先に、突如として立派な和風建築が現れた。正面には時代劇で見る奉奉行所の門らしきものがあり、車一台分が通れるほどの大きさがある。



「ここだよ」



 浜川さんはそう言って、目立つ大門の脇に丁度人一人分が通れるくらいの小さな扉を開けたかと思うと、すたすたと敷地の中へと入っていく。



平昭さんや川崎が特に驚いていない様子を見ると、間違いなくいま目の前の屋敷が浜川さんの家なのだろう。



 建物は二階建て。屋根は瓦。敷地の入り口にあたる場所から家の玄関まで円形の平たい石がいくつか並んでいる。その脇に松や低木が生い茂り、少し薄暗いと思っていると、道の先にある玄関には陽光が当たっており、神殿の扉を彷彿とさせる幻想的な光景だった。



 玄関先に立った浜川さんは、曇りガラスが貼られた引き戸を横にずらして開けた。がらがらと音を立てて開かれると、和の香り漂う室内の光景が目に飛び込んできた。



「ただいま帰りました」



 浜川さんが帰宅の言葉を口にすると、家の奥から彼女の母親というにはかなり若い女性が現れた。



「お帰りなさいませ、咲様」



 この時、平昭さんと川崎は無反応だったが、俺は内心「使用人だあああ!!」と非常に興奮しており、その感情を表に出さないように必死だった。



「そちら方々は、ご学友でございますか?」



「はい、そうです」



「「「おじゃまします」」」



 平昭さん、川崎、俺の三人で口々に言うと、ふっと使用人の女性の表情が少し和らいだ。



「今日は勉強会をしようかと」



 浜川さんの言葉に対し、使用人の女性は一瞬困ったような顔をするが、すぐに表情を戻して答えた。



「では、和室をお使いください。後ほどお茶菓子をお持ちいたします」



「わかりました。ありがとうございます」



 使用人の女性は一礼した後、家の奥へと引っ込んでいった。その様子を見届けた後、玄関の脇にある傘立てに傘を入れた浜川さんは靴を脱いで家に上がり、「こっち」と言って家に上がってすぐ左手にある障子を開けた。



 逆に家の右側には二階へ上がる階段と洋風の扉があり、こちらは使わないように、ということなのだろう。



 平昭さんと川崎が家に上がったのに続いて、俺も家にお邪魔した。



 案内された部屋は緑の畳が敷き詰められた和室で、壁側には習字や花が飾ってある。かなり広く感じたが、よく観察してみると二部屋を一つにして使っているのか、手前と奥の空間との間に障子が滑るレールがあった。手前に四人ほどが使える足が低く黒いテーブルがあり、左手には庭が見える縁側があった。



 縁側の方へ足を運べば、敷き詰められた小石の海の真ん中で日の光を一身に受けた輝く大岩が目に飛び込んできた。その周囲を木々が覆っているため、暗い背景の中から白く浮かび上がる岩が印象的だった。



「小田君」



 呼ばれて振りむくと、すぐ後ろに浜川さんが立っていた。



「洗面所に案内するね」



「うん。ありがとう」



 俺は学生鞄を部屋の端に置いた後、浜川さんに続いて和室を出た。



 先ほど使用人の女性が使っていた廊下を進み、突き当りを左に曲がったところの少し先、右手に洗面所があった。左手には障子が見えるので、恐らく先ほどまでいた和室と繋がっているのだろう。



「トイレは正面だよ」



 見るとドアノブが付いた扉があった。



「ありがとう」



 俺は早速洗面所に行き手を洗った。



自前のハンカチで手を拭き和室に戻ると、川崎と平昭さんが黒いテーブルの対角線上に座っていた。



俺は苦笑いをして、自分の鞄から勉強道具を取り出すと、部屋の奥にいた川崎の隣に座った。



 浜川さんが戻ってきて勉強道具を揃える頃に、使用人の女性が部屋に入ってきて、紅茶の入ったティーカップ四つとフォーク四つ、そして葉が取られたたくさんの苺が盛られた皿を置いて部屋を出ていった。



 この短時間で紅茶や葉が取られた苺を用意する辺り、浜川さんが帰宅する時間を計算してあらかじめ用意していたのだろう。



 あの使用人、やりおる。



 無表情のまま心は悪代官のようににやりと笑っていた俺であったが、まさか態度に表れていたのだろうか、浜川さんが先ほどの女性について説明をしてくれた。



「彼女は扇町さん。お母さんの秘書をしてるの」



 そうだったのか、と俺は少し恥ずかしくなった。使用人だったらメイド服を着ているか、などと一瞬考えもしたが、多分そういう話ではないだろう。



 それからしばらくの間、俺達四人は勉強に集中して、お互いのわからないところを教え合うなどしていた。



 意外なことでもないが、積極的に教える役目を果たしていたのは浜川さんだった。



特に彼女の正面に座る川崎は事あるごとに教えてもらっていて、俺の正面に座る平昭さんがいらいらした様子でその光景を見ていた。



 俺は数学や理科の問題の決めていた分を終わらせた後、世界史に手を付けた。



だが、自分のノートが所々ミミズ型の線が這い寄っているのを目撃し、世界史の授業中に夢の世界で気分良く遊んでいた過去の自分を恨みたくなった。



 そんな様子を見ていたのか、浜川さんが「どうしたの」と尋ねてくる。



「世界史のノートが」



 自分のノートを他の三人に公開すると、「ああー」とか「あるある」などの各々の同情の言葉をかけられた。



「よかったらこれ、使ってよ」



 そう言って浜川さんが渡してくれたノートを開くと、授業内容が見やすく丁寧にまとめられたページ達が目に飛び込んできた。



行間をしっかり開け、多様な色を用いて重要な点を解説してある。



「え!? すごい、これ。写していい?」



「どうぞ」



 俺は一心不乱に彼女のノートの内容を自分のノートに写し始めた。



これが九十点を取る人間のノートなのか、と素直に感動しながら、俺は書かれている内容を頭に叩き込んでいった。



やがて扇町さんが和室に現れて、「それでは、サダヨ様を迎えにいってまいります」と言って家を出ていった。



 ちらっとスマホで時間を確認すると、十六時四十分頃。十五時十分頃に学校を出たことを考えると、一時間ほど勉強したことになるだろう。丁度四人の勉強が一区切りついたということもあり、互いに遠慮しあっていた苺にみんなで手を付けた。



「うっま」



 俺が思わず感想を漏らすと、浜川さんがくすくすと笑った。



「いっぱい食べていいよ」



「栄治って、出された食べ物全部食べるタイプだよな」



「確かに」



 自身の発言に平昭さんが同意したことが意外だったのか、川崎は目を丸くしていた。しかし、その時間は確かに、和やかな空気が漂っていた。



二十分ほど休憩した後、各々自分の勉強へと戻った。



しばらく勉強を続けていて、引き戸が開く音がしたかと思えば、和室の扉が開き、見知らぬ美しい顔の女性が現れた。



「お母さん、お帰り」



 浜川さんは穏やかな雰囲気で自身の母親を出迎えたが、表情が険しく背筋が少しも曲がっていない浜川さんの母親の態度は、威圧感を感じるものだった。



 和室の中にいる俺達を一瞥したかと思うと、彼女は長く伸びた赤い爪が目に留まる手で自らの顎を撫でた。



そして、すごみのある声で言った。



「ただいま。咲、こちらに来なさい」



 そう言って浜川さんの母親は和室を出ていき、浜川さんもその後に付いていった。その時視界の端に、浜川さんの母親を睨む平昭さんの姿が映った。



スマホで時間を確認すると、十八時を少し過ぎたくらいだった。家庭によっては夕飯の時間かもしれない時刻だ。いい引き上げ時だろう。



 そんなことを考えていると、パシンッ、と鈍い音がした。最初は何の音かわからなかったのだが、しばらくして浜川さんが戻ってきた時に俺ははっとした。



 浜川さんの片側の頬がわずかに赤くなっており、何かに引っかかれたような白い線が走っていたのだ。



 俺は無意識の内に勢いよく立ち上がろうとして、膝が足の低いテーブルに当たりその痛みに悶えることとなった。



「大丈夫か?」



 笑いを堪えながら川崎が聞いてきたので、こちらもあくまでちょっとした失敗という風を装い、「大丈夫。トイレに行こうと思って」と答えることができた。



 言葉通り和室を出てトイレの中に入り、そして思った。



 先ほどの一瞬、自分は間違いなく怒っていた。



 果たして、同級生が母親に頬を叩かれたからといって、俺に怒る権利があるのだろうか。



 そんなことを考えながら和室に戻ると、平昭さんと川崎は自分達の勉強道具を片付け始めていた。



「ごめんね。今日はこの辺でお開きということで」



 浜川さんの言葉に素直に従い、俺達は彼女の家を後にした。



 平昭さんとは早々に別れ、俺と川崎は何も話さずしばらく並んで歩いていた。やがて、ぼそっと彼が言葉を発した。



「浜川さんの親、厳しいだろ? だから平昭は浜川さんの母親のことが嫌いなんだ。でも、俺はそれでもいいと思っていた。あくまでも家庭の事情だから」



「・・・・・・それで、平昭さんと仲が悪いの?」



 俺の問いに一瞬考えるような素振りを見せた川崎は、「正確には」と言葉を付け足した。



「俺の父親が浜川さんの母親のご機嫌を取りたがっててさ。俺が昔浜川さんと関わっていたのは、父親のためっていう側面があったんだ。あいつはそれが許せないんだと思う」



 しばらく無言で歩き、やがて踏切が見えた。ここから、俺の家と川崎の家の方向は分かれている。



「じゃあ、また」



 そう言って別れようとする川崎を、俺は呼び止める。



「ずっとお父さんのために関わってたのか? 今日も?」



 彼は奥歯にものが詰まったように、言葉を溜めながら返事をした。



「ずっとじゃ、ない。少なくても、今日はただの友達、いや、知り合いとして関わったつもり」



「平昭さんに、そのことを伝えたのか?」



 尋ねると、川崎は自虐的な笑みを浮かべた。



「・・・・・・俺が本音を語れるタイプに見えるか?」



 そう言い残して、川崎は帰っていった。


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