五 君に恋する夢を見た
六月に入ると制服の移行期間も終わり、教室は夏服の生徒であふれかえる。身軽になった開放感からか、生徒達は五月とは打って変わって活発な交流を図るようになる。
そんな浮かれ気分漂う教室の隅に今日も集まる男子四人組。
人目を憚っているのか、同じ学級だというのに休み時間ほとんど彼女と絡んでいる様子を見ないが幸せそうな明日葉。いつも通りの調子の川崎。どこか落ち着かない様子の尻手。そして情緒が安定するようにはなったが悩みが消えたわけではない俺。
諸事情あって四月や五月までとは異なり恋愛に関する話題を避けていると、共通の趣味を持たない俺達の会話の選択肢は自然と絞られていった。
きっと行きつく先は低俗な話題だろうと高を括っていたのだが、この日、明日葉がぽつりと呟いた。
「みんなって、服とか自分で買ってる?」
色気づいた友人が選んだ話題はなんと、ファッションに関することだった。
一般的に、女子に比べ見た目を気にするようになる年齢が高齢である男子は、自らのファッションセンスのほとんど全てを母親に依存している。つまり、近所の服屋で季節の変わり目に安売りしている服の中から、自分に合う大きさのものを母親に買ってきてもらっている男子がほとんどであるということだ。
そんな人間が服を気にするようになるということはつまり、身近に身なりの感性を指摘する人間がいるということを暗示している。すなわち、彼女ができたことを公にしていることとほぼ同義なのだ。
未だ明日葉は自身に彼女ができたことを俺達に公表してはいない。それなので恐らく、この話題は本当に何気なく口にしてしまっただけなのだろう。
しかし勘の鋭い尻手が目の前に垂れ下がる餌に食いつかないはずがない。
俺は尻手が明日葉のことを煽るのだろうと思いながら尻手の様子を窺うが、幸いにも彼は明日葉の人付き合いの変化に気付いている様子がなかった。
察するに浜川さんのことで頭がいっぱいなのだろう。
一方、川崎は明日葉の事情にうっすらと勘付いているのか、うんうんと何かわかったように頷いていた。
「一応あるよ。季節ごとに買うってわけじゃないけど」
前言撤回。川崎は気付いていなかった。
川崎の発言は明らかに一般男子高校生よりも一歩進んだものだった。
恋人が過去にいたのか、それとも現在いるのか、それとも単にオシャレに対する意識が高いだけか。どれかはわからないが、ファッションの話題そのものに興味を示していただけみたいだ。
「栄治は?」
脇から冷や汗が垂れ、思わず唾を飲み込んだ。無垢な質問であるからなおさら立ちが悪い。先ほどまで上の空だった尻手も話に耳を傾けだしていた。
まずい。確実にまずい。
だからと言って嘘をつけるわけでもなく、俺は仕方なく覚悟を決めるしかなかった。
「服は自分で一切買ったことない。今ある私服は全部中学の頃のやつだし」
瞬間、まるで示し合わせたかのように教室全体が静かになった。
教室中に俺の発言が聞こえたわけでもないのに、俺の発言のすぐ後に静寂が訪れたという時系列的な問題のために、自分のせいのように感じて恥ずかしくなってしまった。
やがて、沈黙を破ったのは、明日葉のぼやきだった。
「まじかよ」
その言葉と共に教室の空気は一気に緩み、自然とクラス中の生徒達から笑い声が漏れた。自分が笑われているような気分になりなおさら恥ずかしくなった。
一方、俺の発言に対し、明日葉は目を大きく開いて少し引き気味に驚いた。その彼の大げさとも思える反応から何かを察したのだろう、尻手は口元を抑えながら笑い出した。川崎は「まあ、栄治は物を大事にしそうなタイプだし」と助け船を出してくれたものの、俺はそんな彼からどこか必死に笑うのを堪えているような気配を感じていた。
そして、ふと何か思い出したように明日葉が付け加えた。
「なあ、確かお前、中学で遊んだ時に着てきた服って、小学生の頃から着てたやつだって言ってなかったっけ」
明日葉の一言を聞いて遂に尻手は腹を抱えて笑い出し、それに釣られて明日葉と川崎も笑い出した。
今回ばかりは笑ってくれて全然かまわないのだが、自分の話はあくまでも脇道なのでさっさと本題に進んでくれないだろうかと俺が思い始めた頃、笑い疲れた様子の尻手は話しかけてきた。
「お前、普段何着て外出てんだよ」
なぜそんなことを聞いてくるのだろうと思いながらも、俺は正直に答えることにした。
「遊びに行く時や学校に来る時以外は基本ジャージ」
尻手は再び笑いが止まらなくなったようだ。
「典型的な学畜」
川崎は一言いい終わってもまだ笑い続けた。
「じゃ、じゃあ、仮に服買うとして、いくら。いくらくらいの服を買うつもり?」
笑い過ぎて呼吸が乱れている明日葉ではあったが、話題を逸らしてくれたことだけには心の中で感謝をした。
「一着千円くらいかな」
再び明日葉は笑い声を上げ、三人の爆笑が止まることはなかった。俺はこの三人ではろくな話し合いができないことを悟った。
以降の休み時間には絶対に服の話題を回避しようとしたが、結局その日一日中三人の笑いものとなった。
放課後。俺は笑い続けた三人への恨みをこっそりと抱えながら部活へと足を運んだ。
苛立ちを無意識にぶつけていたのだろう。身体接触が多かったことを心配して、部活後に綴人が心配そうに尋ねてきた。
「今日プレーがラフだったけど、なんか嫌なことでもあったのか?」
「ああ悪い。・・・・・・その、変な質問だけどさ、綴人って外行きの服持ってる?」
「服?」
そう言って彼はスマホを取り出すと、何やら調べ始めた。
「前にカラオケに着ていったやつとか、後は普段こんなのを着てる」
そう言って、彼は私服姿で家族と映った写真を俺に見せてくれた。
一目見た感想として、綴人は一世代前の時代感を纏った服を着ていた。彼本人には似合っていたのだが、恐らく参考にはならないだろう。
「この服って自分で買ってるの?」
「いや、家にあるやつ着てる」
「いつから着てるの?」
「いやあ、いつとかよくわかんない。とりあえず目に留まったものを着てるだけだから」
「だよね」
綴人の話を聞き、自分だけがおかしいわけじゃないとそっと胸を撫で下ろす。
そもそも俺の私服のほとんどは親がどこからか手に入れたおさがりのため、元々丈が余るものを小学校から袖を折るなどして着ていて、それが中学高校と身長が伸びたために体の大きさに丁度合うものになっただけだ。つまり小学校からの服を着ていようがなんららおかしいことなどあるはずがない。
そんな風に自分なりに納得していた。その日までは。
* * * * * *
翌日。朝一緒に校門が開くのを待っていた浜川さんが、何かを思い出したのか突然笑い出したことから始まった。
「どうしたの?」
「いやあ、昨日、新町君達と服の話してたでしょ? それ思い出しちゃって」
言われた瞬間、俺は自分の顔がどんどん熱を帯びていくのを感じた。鏡で確認すれば、恐らく耳の先まで真っ赤になっていたに違いない。
「小学校の服、まだ着てるって本当?」
くすくすと笑う浜川さんの様子を見て、俺は静かに絶望した。
理屈をこねて精神を支える柱を作ることで保っていた気持ちが一気に崩れ、小学生の服を未だに着ている高校生は恥ずかしい、という自覚が脳の記憶容量を一気に侵食していった。
「新しい服、買ったりしないの?」
「着れるから、いいかなって、思って・・・・・・」
言葉にする度にますます恥ずかしくなっていった。穴があったら入りたいとはまさにこんな気持ちなのだろう。
俺は内心、開門と同時に浜川さんを置いて走り出してしまおうかとさえ考えた。
「・・・・・・もし良かったら、その、小田君の服、私が選んであげよっか?」
「いや、ごめん、大丈夫。遠慮しとくよ」
慰めの言葉も余計に惨めになるばかりであった。
「そっか・・・・・・」
少し残念そうな浜川さんの表情を確認して、からかいながらも今の言葉は彼女なりの気遣いだったのだろうと何やら申し訳ない気持ちになった。
開門後、部活動の朝練へと向かい、それを終えて教室へと向かう。
教室の隅で、明日葉と川崎、尻手の三人は今日もいじってくる気満々の表情をしていたので敢えて三人に近付かないで自分の席に座っていると、六月の席替えでたまたま近くになっていた平昭さんが話しかけてきた。
「小田の話、女子の間でも結構話題だよ」
「止めてくれよもう。貧乏性で本当に申し訳なく思います」
うんざりしてぶっきらぼうに言い放ってからふと気が付いた。
「そう言えば、あの話って元々明日葉が俺達に服の話振ってきたのが原因なんだよ。ねえ平昭さん。明日葉の私服ってどんな感じなの?」
聞かれて、彼女は戸惑った様子を見せた。
「なんで私にって、まさか、知ってるの?」
「細かいことはどうでもいいでしょ。俺は明日葉を笑うネタが欲しいんだよ」
俺が急かすと、はあ、と平昭さんは深く溜息をついた。
「まあいっか。そうね。一言で表すなら、半袖短パンかな」
容易に想像がついたので、俺は耐えきれずにぷっと息を吹き出してしまった。
しかし、すぐに自分も似たような格好をしかねないという可能性に思い至り、冷静になった途端思わず身震いをした。
「やっぱり、そういう格好って女子的にはアウトなの?」
そう尋ねると、平昭さんは「うーん」と悩むような唸り声を上げた。
「そりゃ格好良いことに越したことはないけど、別にそういう服装でもあんまり気にはしないかな」
彼女の意外な発言に、俺は思わず眉を顰めた。
「だったらなんで指摘したの?」
俺の問いに平昭さんは、「それはねー」と少し躊躇するような素振りを見せた。
「やっぱり、口実が欲しいじゃん」
「口実?」
「・・・・・・デートのだよ」
点と点が繋がり、線になったようなすっきりとした感覚を得た。
平昭さんは明日葉の服装を指摘することで、服を買うという建前を用いて一緒に出かけるという本当の目的を隠すことができるのだ。
正直にデートしようと言えばいい気がしなくもないが、恥ずかしいという気持ちも加味すれば上手な誘い文句だと言わざるを得ない。
唐突に今朝の記憶が再生された。
浜川さんの言葉。あれはもしかして、デートのお誘いだったのではなかろうか。だからと言っていまさら聞き返すわけにもいかず、俺は自分の誤った選択をただただ後悔していた。
そんな俺に追い打ちをかけるように、次の休み時間には男子三人に席を取り囲まれ、ひたすら服の話題を振られ続けた。
* * * * * *
もうなんだっていい、という心持で土手までの道のりを駆け抜けた。
エミに会う時の服装はジャージや運動着といったファッションのフの字も無いような格好なので、難しく考える必要などないのだから。
そうは言っても予想以上に心の傷が深かったのか、半ば愚痴のような形でエミに身なりの話をしてしまった。
すると彼女はけらけらと笑い出し、「じゃあ問題です」と人差し指を立てながら言ってきた。
「私が今着ている服は、一回目に会った時、二回目に会った時、三回目に会った時、どの時と同じ服装でしょうか?」
瞬間、緊張から胃の内容物を全て吐き出しそうになった。
実体験は一度も無いが、綴人に借りた漫画から容易に予想がついた。
この質問は、女性が髪を切った時の「どこが変わったか気付いてる?」という類の質問だ。すなわち、答えられないことがそのまま俺の死を意味している。
外してはいけないと目を大きく開いて観察すれば、エミの服装の最もわかりやすい特徴が目に飛び込んできた。彼女の着ている文字入りのTシャツである。
胸元に大きく、「N/A」と印刷されていた。
これほどわかりやすい情報があればきっとわかるだろう。
そんな希望的観測を胸に自らの過去の記憶を振り返った。例えば一番脳裏に焼き付いている二度目の出会い。それとも三度目の名前を聞いた時。いや、最初に出会った時か。
そしてふと気が付いた。一番覚えているはずの二度目の出会いの時でさえ、エミが何を着ていたのかを正確に思い出すことができなかったのだ。
どれほどの時間悩んでいたのだろうか、やがて彼女の口から「残念。時間切れ」という言葉が聞こえてきた。
「ごめん。あ、いや、わからなかったとかそういうことじゃなくて、いや、その」
怖くなった俺はそんな言い訳を高速で唱えたのだが、すぐに「はいはい」と一笑に付されてしまった。
「別に覚えてないことは知ってたよ。エイジ、ファッションに興味なさそうだし。それに、私の顔ばっかり見てるから」
言われて、そんなに見ているだろうか、と彼女の様子を窺っていると、じっと顔を見詰めていたことに気が付いて慌てて目線を逸らした。
「学校のみんながエイジをからかい続けているのは、エイジの反応が面白くて、いじり甲斐があるから。だから逆に、エイジの方から積極的に服の話題出していけば、早く収まってくると思うよ」
実に役立ちそうなエミの意見に対し、神や仏に通ずる感謝の念が静かに、胸の奥深くから湧いてきた。
「エミ様~」
両手を胸の前で組んで彼女を見上げる形で見詰めると、エミは上機嫌になった。
「もっと崇めていいよ。ご褒美があるとよりいいかも」
中々に欲深いなと頭の隅で思いつつ、ふとある単語が突然思い浮かんで、途端に恥ずかしくなってしまった。
そんな俺の様子を見ていた彼女は、目を細めて口を尖らせる。
「なんか変なこと考えたでしょ?」
「そ、そんなんじゃないよ。いや、その、で、デートとかどうかなって」
面と向かって言う勇気などなく、俯きながら言った後に上目遣いにちらちらとエミの様子を確認していた。
「で、デートがっご褒美とか、なんか、偉そう、じゃない?」
喜びが隠しきれていないエミを見て、これでいいのか、と思いつつ、言った自分も恥ずかしくなりながら、これはいけるかもしれない、という期待が募っていった。
「どこか行きたいところとかある?」
「別に、デートっしたい、とか、まだ、その、言ってないし」
瞬間、彼女の瞳が川の向こう側へと揺れた。
ふとエミが川向こうの都会に憧憬の眼差しを向けていたことを思い出す。
これだけすぐそばにあるのだから行けばいいのに。
そう思った時には、言葉にしていた。
「あそこ、行ってみる?」
ビル群に視線を向けていた俺に、横から「えっ」と驚きの声が聞こえてきた。
「で、でも、この近くの橋は車専用だったり、向かい側にあるあの橋も電車の線路だったりして渡れないじゃん」
「近くに行けばわかるけど、あの橋は二段に別れていて、上の橋は人が通れるようになってるんだ」
土手の自分たちがいる位置より遥か遠く、夕日が沈みゆく方角にある橋を指差しながらそう言った。
エミはこちらに背中を向けてその橋を見ていたのでどんな表情をしているのかはわからない。
だが、なぜ高々一キロ程度しか離れていない場所の橋を確認しなかったのか、という疑問を気軽に口にできるような雰囲気を漂わせる背中ではないことは明白だった。
「行ってみようよ」
そう言うと彼女は振り返り、うん、と微笑みながら頷いた。
エミが自転車を取りにいっている間、俺は走るための準備として屈伸運動や足首を回していた。
そこに自転車に乗ったエミがやってきて、不思議そうな顔をして俺を見た。
「何してるの?」
「準備運動。走るのに怪我したらいけないし」
すると、先ほどまで意気揚々としていた彼女の表情が一瞬にして抜け落ちた。
「・・・・・・二人乗りに決まってるでしょ」
そう言って彼女はその場に自転車を止めると、荷台に座った。やがて足をぷらぷらと動かして口笛を吹き始めたので、彼女の二人乗りへの執着の強さに思わず顔を顰めてしまった。
「でも、エミが自転車を漕いで、俺が走るのが一番楽でいいと思うんだけど」
「ふ・た・り・の・り!」
どうあっても彼女の結論が変わることは無いと察した俺は、やむなく自転車に跨った。
二人乗りは人生初だが、果たして上手く漕げるものなのだろうか。
彼女の手が静かに俺の腰に添えられて、多少のくすぐったさと、顔を見られなくてかったと思うほどの恥ずかしさが全身を這いずり回った。
「じゃあ行くよ」
そう言ってペダルを踏んだ。だがペダルは信じられないほど固く、自転車は少しも前に進まなかった。
すぐに自転車が傾いたので慌てて足を突いた。
「う、動かん」
「頑張れ」
「これやっぱり俺は走った方がいいと思うんだけど」
すると、ちっちっちとエミは立てた人差し指を振った。
「二人乗りをすればなんと、私に抱き付いてもらえるというご褒美があります」
言っていて恥ずかしくはないのだろうかと思いつつも、「転んだら危ないし」と俺は現実的な危険性を指摘した。しかし、エミは態度を変えようとはしなかった。
「私がエイジにくっ付きたいんだけど」
「・・・・・・よかろう」
言われているこっちが恥ずかしんだよ馬鹿野郎、と思いはしたが、結局俺は二人乗りに挑戦することにした。
サドルに跨り、ふうっと息を吐いて集中する。
腰に回された手にどぎまぎしながら、ペダルを踏む足を強く踏みしめた。ペダルが重く、何度もバランスを崩して転びかけたが、しばらくすると自転車は前へと進みだした。
「進んだ」
後ろで元気のいいエミの声が聞こえてきた。
自転車が進む道は土手の一番上の整備された平坦な道だ。幅は最も狭いところでも人二人分はある。道の両側は斜面になっているので少し不安だが、緑の草はらの中から顔を出す白や黄色の花々が目を楽しませてくれる。
始めは重かったペダルも次第に滑らかに回り出し、景色がどんどん速く後方へと流れていくようになった。
そして速度が出てくると吹き抜け始める風が、爽快感を与えてくれる。
俺が自転車を漕ぐのに夢中になっていると、何かがそっと背中に乗せられた。恐らく、エミが俺に寄りかかっているのだ。
どうか、この鼓動の高鳴りに気付きませんように。
あくまでも興奮を態度に出さずにそのまま走っていると、ぽつりと彼女が呟いた。
「心臓。すっごいどきどきしてる」
自転車の車体が傾いてそのまま転びそうになったがなんとか持ちこたえ、無事そのまま走り続けることに成功した。
「緊張だよ」
「・・・・・・こうやってくっ付いて欲しかったんでしょ?」
俺が無言で自転車を漕いでいると、「否定しないんだ」とエミが嬉しそうに言った。
そうこうしているうちに橋の袂まで辿り着いた。
土手の道から橋はそのまま繋がっていて、右に曲がるだけですぐに渡ることができた。
交通量の多い車道を避け、橋の片側にしかない狭い歩道を慎重に進んでいく。幸い人通りが少なく、誰かと接触することなく橋を渡りきることができた。
川の向こう岸に着いた時の感想を一言で表すなら、都会の喧騒、というのだろうか。車の数も人の数も、自分たちのいた町とは桁違いの多さだ。
のんびりした時間感覚や広々とした開放感などどこにもなく、忙しさと窮屈さに満ち溢れていた。
「すごい」
自転車を降りたエミは周囲の高いビル群を見回しながら、そんな感想を口にしていた。
人の数も少なく建物の高さも低い、時間がゆったりと流れていく自分達の町。そんな親しみある町から橋で繋がる世界に広がっていた、高さ、大きさ、人数、個数といった数値の異常な多さが際立つ場所。
電車という箱舟に乗って何度も訪れた異界は、自分達の町の驚くほどすぐ近くにあった。
これからこの未開の地を冒険するのだろうとなんとなく思っていたのだが、振り返った彼女が俺に向かって言った言葉は「帰ろっか」であった。
「もういいの?」
「うん。来れるってわかっただけで充分」
そう言いながらエミは再び自転車の後ろに乗った。
意外なほどあっさりとした対応に肩透かしを食らっていたのだが、俺の体に回された少女の手が、俺の服をぎゅっと強く握っていたのに気が付いて、俺はほとんど無意識に自分の手を彼女の手に添えていた。
何をしているのだろう。
そう思った時には指が絡み合って離れなくなっていて、「ありがとう」という声がどこからか聞こえてきた。
返事をする前に手は解かれ、俺達は橋を渡り、それぞれ自分の家へと帰った。
その日の夜、少女の夢を見た。浜川さんなのか、それともエミなのか。顔を見ても判別はつかなかった。
前回見たような情熱的な内容ではなく、ただ手を握り合って、二人で横になり、ひたすら他愛のない話をする、そんな夢だった。
目を覚ました時、ふと、以前夢で口付けを交わした少女がどちらであったのかを理解して、自分でも信じられないほど穏やかな気持ちになっていた。
それと同時に、次の部活のない平日に、この想いを伝えようと、ただただそう思った。
* * * * * *
その日。部活のないその日。
目覚めた時はいつもと変わらない調子で、学校はいつもと変わらない様子で、当たり前のように放課後になり、いつも通り走って土手へと向かった。
着いた時にはまだ彼女はおらず、夕焼け色に染まる空の下、ただひたすらその時を待った。
そしてこの時になって、感覚がいつもと違うことに気が付いた。
時が経つのが恐ろしく遅く、その場でじっとしていることができず、何度も水を飲みにいったり、軽く走ったり、時計がある所に行って時間を確認していた。
唐突に寝転がったり、草をむしったり、起き上がって走り出したり、とにかく新しい情報で頭と体をいっぱいにしたかった。
突如として明日葉のことを思い出した。放課後に平昭さんに告白したあの日の朝、どうしてあの男はあそこまで平静を装っていられたのだろうか。
無性に怒りが湧いてきて、いつの間にか彼を尊敬していた。
どうして明日が来ないのだろうと意味不明なことを考え出し、伝えるべき言葉を思い出そうとするも何も出てこないことに愕然とした。
そうして、気が付けば夜になっていて、人気が完全になくなり、寒さを覚えたので俺は家に帰った。
その日、ツルミエミは土手に来なかった。




