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三 違和感を感じる

五月に入りゴールデンウィークが明ける頃。



川崎曰く、この時期の学生は大体二つに大別できるようになってくるらしい。



一つは五月病で様々なことに身が入らなくなってくる生徒達。そしてもう一つは、先輩達の引退がかかった最後の大会が近付き緊張感に包まれる生徒達だ。



普段集まる四人組も、俺を含めてこの分類で綺麗に二つに分けられた。前者には川崎と尻手。そして後者には、俺と明日葉が当てはままる。



「あー、しんどい」



 机に突っ伏しながら愚痴を漏らす明日葉の顔色を確認するが、体調が悪そうな色はしていなかった。



「サッカー部の期待のエースなんだから。頑張るしかないだろ」



「栄治だってベンチ入ってるだろ。綴人から聞いたぞ」



「綴人はともかく、俺はただの人数合わせだよ。うちのバスケ部そもそもの部員数が少ないから」



「だとしても、出る可能性はあるだろ」



「俺と違って、お前は確定してるけどな」



「あー止めて。プレッシャーかけないで」



 明らかに精神的にまいっている様子の明日葉に、川崎が心配そうに声を掛ける。



「俺は文系の部活だからわかんないんだけど、そんなに練習がきついのか?」



「きつい。きついね。でも練習がきついのは百歩譲って許せる。問題は自分のミスよ。わかる? 試合に出れない三年生の前でミスした時の俺の気持ち」



 わかる、とはいえなかった。バスケットボールに限らず、自分が今までスポーツや勉強で人より優れていたことがないので、誰かを結果的に蹴落とす形になったことがない。だから、想像することはできても、理解することはできなかった。



「別にミスしたってお前が出ることに変わりはねえんだから、気楽にやりゃあいいんだよ」



 尻手としては本人なりに励ましのつもりでかけた言葉なのだろうが、明日葉はいい顔をしなかった。

それもそのはず、尻手はここ最近勉強に身が入らないといった愚痴をさんざんこぼしており、授業中も終始机に突っ伏していた。



そんなたるんだ様子の人間から、緊張ではち切れそうな人間に言葉を投げかければ、内容の如何を問わず相手を苛立たせるのは明白だ。



「明らかに気の抜けた様子のやつに言われるとすごくイラッと来るんだが」



「わりいわりい。でもしょうがねえじゃん。五月病なんだから」



「そんなの気の持ちようじゃねえの?」



 段々と険悪な雰囲気になってきたので今のうちに話の流れを変えたいのだが、俺が口を出すと明日葉との付き合いが長い分、彼を優先的に擁護するような形になってしまうことは容易に想像できるし、たとえその意図がなくとも尻手に明日葉の側に付いていると受け取られる可能性がある。



またただでさえ尻手とは浜川さんのことでしこりがあるのにその状態で明日葉の側に付けば関係が悪化することは避けられない。



 口を挟んでも挟まなくても嫌な雰囲気になることは必至であるという頭が痛くなるような二者択一を前に選択を躊躇していると、川崎が二人に声を掛けた。



「まあまあ。明日葉。あくまでも友達としての意見だから。尻手も、わざと人に怒られるような言い方をするのは良くないと思うぞ」



「へえへえ、わかってらい」



 気力のない返事をする尻手と、無言で苛立ちを静める明日葉。



川崎に心の中で感謝を述べつつ、自分がこの役割を果たさなければならないとしたら、どんな言葉を掛ければいいのだろうと考える。



もっと上手に決断できる人間に生まれたかった。



そんな結論に至って、少しだけ悲しくなる。





     *     *     *     *     *     *





 あっという間に公式戦の日はやってきた。



綴人は要所で試合に出場し、しっかりと役割を果たした。一方、俺が試合に出たのは相手に逆転不可能な点差を付けられた後だった。交代したばかりで体力もあったためか、走力のある相手チームから何度か守備の不意を突いて点を取ることができたが、チーム全体としては明らかに走り負けしており、結果としては俺が出る前と出た後で点差はさらに広がっていた。そして、そのまま先輩達の最後の試合は終わった。



 一方の明日葉はというと、大会前の緊張が逆に良い効果をもたらしたのか、試合で大活躍をしてチームの得点に大きな貢献をした。だが後半に入って相手チームの対策に遭い、明日葉は徹底的に目を付けられ、思うようなプレーをできずにそのままチームは負けた。



俺はその試合を応援席から見ていたので、試合後の明日葉のやけ食いに付き合い、結果俺の奢りとなって財布が大きな痛手を負うことになった。



 部活の公式戦が終わる頃には、もう五月は下旬に差しかかっていた。



四月の半ばからのおよそ一ヶ月。未だに俺と浜川さんとの奇妙な交流は続いていた。



その習慣が言葉にしない約束であるというような感覚が身に付くようになってようやく、自分の中に生まれつつある感情を言葉にすることができた。



俺は浜川咲に対し、恋、をしているのではないだろうか。



 その疑問の答えがすぐに出てこないのが自分らしいといえば自分らしい。



 だが、ある日の休み時間。俺はその疑問を解決するためのヒントを図らずも耳にすることとなった。



「自分が異性に抱く感情が恋愛感情かどうか判断するには、恋のABCの内、どこまで想像することができるか、を基準に考えるといいらしいよ」



 そんなインターネット上の知恵袋の欄に書かれているような豆知識を川崎が話しているのが聞こえ、俺はなぜだが妙に生々しい想像を膨らませて動揺してしまった。



一方、やけに真剣な表情をして川崎の話を聞いていたのは明日葉であった。



川崎が自分から恋バナを振ったと考えるよりも明日葉が尋ねたと考える方が自然であり、その推測はそのまま明日葉に気になっている人がいるのではないかという予測を導いた。



 さすがに突っ込んで尋ねるのは野暮だろうと考えた俺とは対照的に、悪代官の笑みを浮かべた尻手は明日葉に耳打ちをした。



「誰か好きなやつでもいんのかよ」



 俺にまで聞こえ耳打ちの体をまるでなしていないその問いに対し、多少鬱陶しそうにはしたものの、明日葉が次に発した言葉には怒りの色は見られなかった。



「仮にいたとしても言えないね。お前ならわかるだろ?」



 空気が冷えていくのがわかった。



 尻手は動揺したのか一瞬身が固まり、その後、彼の顔に少しずつ苛立ちの表情が現れたかと思えば、感情を言葉にすることなく教室を後にした。



尻手を追いかけようとした俺を明日葉は呼び止める。



「栄治。一人にしてやった方が良いと思うぞ」



 明日葉の言うことももっともであったし、俺と尻手の間にはまだしこりが残っていた。それらを踏まえて、心配な気持ちを抑えつつ俺は尻手を追うことはしなかった。



休み時間が終わる前に彼は教室に戻ってきて、次の休み時間からは表面上普通に四人で会話をした。



 しかし、以前の和やかな雰囲気とは違う張り詰めた空気が俺達の間に漂い、息が詰まりそうになってしまった。



自分がどうこうして解決できるものではないとわかっていても、何かできることはないかとついつい悩んでしまう。



その日の放課後。



俺と川崎だけが部活のない日であったので、二人きりで帰ることとなった。



教室での自分達の空気感の話題を何と切り出せばいいのかわからず、「どう思う?」と脈絡のない質問を



つい川崎にぶつけてしまうが、彼は間髪入れずに「時間の問題だよ」と言った。



「二人の仲が険悪に見えるのは、ここ最近どちらかがストレスを溜めた状態で二人が関わっていたから。尻手だって、自業自得と思ったから教室を出ていったんだ。だから、この手のいざこざは時間が解決してくれるタイプだよ」



 理路整然と話されると、そうなのかも、とつい思ってしまい、俺は何も言えなくなってしまった。



気落ちした様子の俺を元気づけようとしてくれたのか、川崎は急に明るい声の調子で話し出した。



「そう言えばさ、栄治は想像できた? 恋のABC」



「いや、俺は」



「気になる人、いるんだろ?」



「・・・・・・あんまりからかうなよ」



 へらへらと笑ってその場は誤魔化した。



いる。確かにいる。ここ最近、俺の頭の片隅には浜川咲のことが常にあり続けている。



でも、だからこそ、俺は川崎に言えないことがあった。



 自分は浜川咲に対して恋愛感情を抱いているのではないかと考えた。だから川崎の話を聞いた時、半ば反射的に浜川咲の顔が浮かんだ。



そして、そのまま思考が停止した。



俺は、そこから先を、浜川咲と口付けをしている自分の姿を、少しも想像することができなかったのだ。





     *     *     *     *     *     *





帰宅後、少しの休憩を挟み、制服から運動しやすい格好に着替え、家の前で軽い準備体操をする。そして車や自転車に注意をしながら、俺は家の前から走り始めた。



 部活のない日にもこうして走るのは、勿論体力を付けるという意味もあるのだが、実際にはそれは副次的なもので、本当の目的は自分の体質が関係しているのだ。



というのも、一日運動しないだけで肩回りや股関節周りがむずがゆくなる。原因は不明。だが動かせば治ることはわかっている。つまり、そのかゆみを解消する目的で走っているのだ。



以前この理由を綴人に話したところ、変な理由だと首を傾げられてしまった。



だが、自分にとっては大問題で、実際走るだけでかゆみも解消され、加えて体力も付くのだから、まさに一石二鳥というやつだろう。



 走る経路は決まっていて、家から町の北を流れる川を目指す。



川の土手は整備されており、到着次第目印となる二つの鉄橋の間を往復して、帰り道も走って帰ってくる。家から川までが約一・五キロメートル、鉄橋間が約一キロメートルの計往復五キロメートルの道のりだが、常に全力で走っているわけでもなく、途中で立ち止まることもあるので、幾度も繰り返した今となってはそれほど苦ではなくなっている。



 家からしばらく走ると踏切があり、そこを渡ると高速道路沿いの長い一本道の一般道が現れる。この道は歩道も狭く道路も狭いので自転車で走るのには向いていない。



だが今日は珍しく、しばらく走っていると自転車が後ろから俺を抜いていった。



 すれ違う瞬間、ちらっと運転手の顔が見えた。



浜川咲だった。



しかし、彼女の方はすれ違いが一瞬のことでこちらに気付かなかったのだろう。自転車は何事もなくどんどん先へと進んでいった。



すれ違う時に声を掛けることができなかったのだ。仕方がない。



そう思おうとした矢先、何かが彼女の漕ぐ自転車から落ちたような気がした。



 駆け寄って拾い上げて見ると、それは小さなリスのフィギュアで、背中から伸びていた紐が千切れているのを確認することができた。



その落とし物を持ち主に届けようと、俺は力いっぱい自転車を追いかけた。



「おーい! 待って!」



 走りながら声を出すのは非常に疲れるのだが、自転車を呼び止めるために何度かそうして声を掛けた。

数度目の声掛けで自転車の主がこちらに振り返ったのだが、彼女は明らかに驚いている様子で、速度を落とすどころか逆にペダルを強く踏み込みだし、一本道をどんどん進んでいく。



 なんで止まらないんだ。



心の中でそう愚痴りつつ、もう追いつくしかないと覚悟を決め、俺は全力で浜川咲を追いかけた。



高速道路沿いの一本道。自転車にとっては走り辛い道であるとはいっても、速度を落として走らなければならないような障害は存在しない。こちらが部活でそれなりに鍛えているとはいっても、自転車と人の足には歴然とした差があった。



結局、俺と自転車の距離が縮まることはなく、ついにはその後ろ姿を見失った。





     *     *     *     *     *     *





 県境を流れるいくつもの町に隣接する大きな川。



その川の土手の斜面には整備されている草はらがあり、川沿いの広い平地は市民が遊べる公園となっている。



時刻は現在十七時。



日は傾いているが夜というにはまだ早い。気温は昼間よりはかなり下がっていて、日陰に入って風に吹かれれば、少し寒いと感じるかもしれないほどだ。



川の土手に生えている柔らかさと涼しさを兼ね備えた草の絨毯に寝転がれば、図らずも夢現な気分になり、眠気に襲われるのだろう。



そうして気持ちよさそうに横になっている浜川咲のもとに、俺はくたくたになりながらもなんとか辿り着いた。



 俺がやってきたことに気付き、浜川さんはばっと勢いよく体を起こした。



「うわっ! よく追いついたね」



「たまたま、だよ」



 本当に運が良かっただけだった。自転車が一本道をひたすら進んでいったので、もしかしたら川へと向かっているのかもしれないという思いはもちろんあった。しかし実際の所、浜川さんの目的地と俺の目的地が偶然一致していたことが浜川さんを発見することができた一番の要因だろう。



「これ」



 息も絶え絶えにリスのフィギュアを差し出すと、彼女は目を丸くしながらそれを受け取った。



「ありがとう。これを届けるために追いかけてきてたんだ」



「全力で逃げるから、すごく疲れた」



 少しずつ息を整え、申し訳なさそうにする浜川さんに対し、自分は気にしていない、ということを示すために笑ってみせた。



「ごめん。なんだか、怒られるのかと思って」



 俯きながら言う浜川さんの顔を見てしまうと、それ以上追及する気は起きなかった。



自分がたくさん汗をかいているのが気になったので、少し離れた位置で彼女の隣に腰を下ろす。



「ここにはよく来るの?」



 何気ない問いかけのつもりであったのだが、見ると浜川さんは意外そうな様子で、何か答え辛いような理由でもあるのだろうかと不安になったが、やがて彼女は口を開いた。



「たまに、来るくらいかな」



「てことは何度も来てるんだ。俺もよくここに走りに来るけど、普段もこのくらいの時間に来てるの?」



「うん。大体このくらいの時間。三十分くらいのんびりしてる」



 この時、全力で走った後で気分がいつも以上に気分が高揚していたのだろう。無意識に、言葉が口を突いて出た。



「じゃあ、またここに来てもいい?」



 言葉を発して数秒の後、何を言っているのだろうと猛烈に恥ずかしくなってきた。遠まわしではあるものの会いたいと言ってしまったことを、きっと浜川さんも気付いているだろう。



 気まずさのあまり彼女の方を向くことができなかった。返事が返ってくるまでの沈黙が、ひ弱な胃を締め付け、落ち着いてきたはずの心臓を過剰に動かした。



拍動に痛みを覚えるほどになる頃に、少女の答えが風に乗って聞こえてくる。



「別に。一人になりたいってわけでもないし。・・・・・・いいよ」



 少し詰まったような言い方だった。



首をわずかに傾けて浜川さんの様子を窺う。



日差しが傾き始め、夕日が横から照らしていたためだろうか。ほんのりと彼女の顔が赤くなっているような気がした。



「・・・・・・うん」



 つい緩んでしまった口元を手で覆い隠しながら返事をした。しばらく沈黙が流れたかと思うと、彼女はすっと立ち上がりながら「あっ」とどこかを指差した。



 何かを見付けたのだろうか、勢いよく浜川さんは土手の坂を下っていく。理由はわからなかったが、俺もすぐにその後を追いかけた。



 しばらく走った後に、彼女は草むらから何かを拾い上げた。どうやら野球ボールのようで、浜川さんが「いくよー」と十メートルほど離れたところから声を掛けてきたかと思うと、腕を大きく振ってボールを投げた。



 ボールは地面に付くことなく俺の手元まで飛んできた。軟式の球のようで固くなく、素手でとっても痛みはなかった。



「投げ返して」



 彼女の声に、なぜ突然キャッチボールをすることになるのだろうか、とは思いつつも、俺はボールを浜川さんに向かって投げた。



 浜川さんは球を取り、俺に向かって投げてくる。俺もまた投げ返す。いつの間にか夢中になってしまい、時間の感覚がなくなるほどキャッチボールを続けていた。



やがて彼女が「もう時間だ」と明るい笑みを携えて言う。



「今日はここまで」



 そう宣言をされて俺は驚いてしまう。もう三十分も経っただろうか。



「今度からは早めに来てね」



 拾ったボールを元あった場所に置いた後、そう言い残して彼女は土手を上がっていく。俺は何も考えずに彼女の後を追いかけた。



浜川さんはしばらく土手を上がった後、何かを思い出したようにくるっとこちらを向いた。



「そうだ。名前、なんて言うの?」



 正直、質問の意味が分からなかった。まさか忘れてしまったのだろうか。動揺を上手く隠すことはできなかったが、念のために質問には答えておくことにした。



「小田だけど」



「下の名前」



 言われてはっとした。下の名前がわからない。まだ一ヶ月半しか共にしていない同級生だ。そういうこともあるだろう。



「栄治」



「エイジ。・・・・・・うん、覚えた。じゃあね、エイジ」



 軽く手を振ったかと思うと、彼女はすいすいと坂道を登っていった。俺は「じゃあね」と言葉を返すことも手を振り返すこともできず、ただひたすらに、彼女が呼んでくれた自分の名前を、眠りに就くその瞬間まで脳内で再生していた。





     *     *     *     *     *     *





 翌日。浮ついた気持ちで登校すると、家を出るのが少し早過ぎたのか、はたまた歩調が速くなっていたのか、通学路で浜川咲に会うことはなかった。



綴人から借りた漫画を読むことにも集中できないほど浮足立った気持ちが落ち着かないまま校門の前にいると、待ちわびた声が聞こえてきた。



「おはよう」



 こちらも「おはよう」と返事をしながらすぐさま後ろを振り向くと、驚いた様子の浜川さんがいた。



「小田君、今日はテンション高いね。何かいいことでもあった?」



 ————————————あれ?



 期待していたものとは違う言葉が聞こえてきためか、上手く口から言葉が出なくなっていた。しかし少し考えればわかる通り、どのように人のことを呼ぶかなどは、相手次第なのだ。



名字で呼んだということは、昨日の名前呼びは単なる気紛れだったのだろう。俺は深く息を吐いた後、落ち着いて言葉を発した。



「いや、大したことじゃないんだ。ちょっと昨日のことで」



「昨日? 何があったの?」



 本人に自覚はないらしい。



「いや、本当に何でもないんだ」



 朝の数分間。これは浜川咲と俺のわずかな時間における会話を、俺はある種の密会のような気分で行っていた。自分だけの特別なもののように感じていた。



だがそれと同時に、これはあくまでも学校という世界に付随した出来事でしかなく、どこまでいっても日常の物事でしかなかった。



放課後、誰にも知られていない場所で会うという行為。それは紛れもなく非日常で、昨日のことを思い返す度に今までにないほど俺は興奮していた。



 部活は隔日で行われるため、部活のある今日は土手へと走らない。正確には、午後五時に川の土手にいることができないのだ。



早く明日が来てほしいと思うなど、小学校以来の感情だろう。



 部活を終わらせ、家に帰り、布団に入り、目を瞑って、ただひたすらに、その時を待った。



 そうして待ちに待った朝日は、この世の他の何よりも美しく見えた。



学校に登校し、早く時が進むようにとひたすら時計を睨み続けた。永遠に感じられるほど長い授業が終わり、ようやく放課後になった。



俺は走って家に帰り、全速力で川へと向かった。



 息を切らしながら前回彼女を見かけた場所に到着したが、そこに人影はなかった。来るのが早過ぎたのだろうか。それとも。



そう不安になったのも束の間。



「エイジ」



 呼ばれてすぐに振り向いた。そこには楽しそうに笑う浜川咲の姿があった。



「犬みたい」



 そんなに感情が出ていただろうか。恥ずかしくなって頬の筋肉に力が入る。



「来ない日があるなら教えて欲しかったな」



 彼女は口を尖らせ、少し寂しげな表情を見せた。



 浜川さんが昨日土手で俺のことを待っていたのだと思った瞬間、自分の愚かさに胸が痛くなった。犬という形容は、彼女なりの皮肉も混じっていたのかもしれない。



「ごめん。部活がない日にしか走らないってことを伝え忘れてた。基本的には月水金と土日のどちらかに部活が入ってるから、その日は来られない」



 必死に頭を下げながら彼女に謝罪をした。



「本当に悪いと思ってる?」



「思ってる。心の底から。本当にごめん」



 両の手を合わせ、頭を下げる。彼女の機嫌が直るならばなんだってしようと、自然にそんな気持ちになっていた。



「許して欲しいなら態度で示して欲しいなあ」



「します。示します。何でもするから」



 そう言って浜川さんの表情を確認すると、「ふうん」と何やらご満悦の様子だった。俺は返答を間違えてしまったのだろうか。



「許して欲しかったら、手、握ってよ」



 彼女の発した言葉の意味がわからず、俺は数学の難問を前に思考放棄をした時と同じ気持ちの顔を目の前の少女に向けることしかできなかった。



「嫌なの?」



 そう言って少女は自らの手を俺に向かって差し出してくる。



 —————————————握るの!?



 これから自分がしなければならない行為について考える度に、浜川さんは正常な判断ができなくなってしまったのではないかと思ってしまった。



 手を握る? 手を握るだと!?



 裏にある意図を考える度に頭が痛くなってくる。少女の表情を窺っても、何を考えているのかさっぱりわからなかった。



 握る。



 そう意識する度に、ただでさえ走った後で湿っていた手の平から汗が湧き出てきた。ズボンに何度も手の平をこすりつけ、頭を必死に空っぽにした。



 余計なことは何も考えるな。握りさえすれば全てが円満に解決するのだ。



 そう自分に言い聞かせて、俺は震える手を伸ばし、差し出されている少女の手を指で包み、そっと、握った。



 と思った瞬間、するりと彼女の手は俺の手の平の中から抜けていった。俺の手は空を掴むばかりであった。



 あれ?



 浜川さんの表情を確認すると、イタズラっぽい笑みを浮かべていた。



「本気にしちゃった?」



 ————————————は!?



 くるりと俺に背を見せたかと思うと、浜川さんは高らかな笑い声を上げながら走り出してしまった。



「ちょっ、おい!」



 一泊置いて、俺は彼女を追いかけた。



 全力で走ったのだが、俺はなかなか浜川さんに追いつくことができなかった。



少し前まで走っていたために疲れていた、ということもあるだろう。しかし、彼女の足は予想以上に、恐らく短距離走ならば俺より速いのではないだろうか、と思うほどの俊敏さであり、加えて土手の斜面を縦横無尽に動き回るために、捕まえたと思っても蝶のようにするりと手元から抜けていってしまうのだ。



 だがしばらく追い駆けっこを続けていると、疲れてきたのだろうか、少しずつ向こうの速度が落ちていった。



 もう少し。



 そう思ったところで、ふと彼女が足を滑らせた。咄嗟に俺は少女の手を掴み引き寄せた。しかし斜面でバランスが悪かったのだろう。俺と浜川さんはそのまま土手の草むらの上に倒れ込むことになった。



 衝撃に備えきゅっと瞑っていた目蓋をそっと開くと、浜川さんとばっちり目が合った。ふっと息が漏れたかと思えば、彼女は勢いよく笑い出した。



その快活な笑い声を聞いているうちに、いつの間にかこちらの気分も良くなっていき、気が付けば俺も笑い声を上げていた。



 しばらくして笑いが途切れると、少女は自身の手を顔の前に持ってきた。



その手を、俺はしっかりと握っていた。



草むらの上の二つの手の平は、指を広げて踊り出し、やがてしっかりと絡み合った。



気付けば、お互いの指が互い違いに組み合わさり、その奥で少女の瞳が夕日を浴びて輝いた。



無意識のうちに覗き込むと、瞳の奥に別の光があるような気がした。



「これで許してあげる」



 そこから先の会話は本当に他愛のないもので、彼女は終日には土手に来ないという情報以外は有益なものはないと言ってもいい。



だが、彼女の一言一句を違わず思い出すことができ、一分一秒ごとの彼女の表情や仕草、背景のほんの些細な部分までも目を閉じれば浮かんできた。数十分に渡る経験全てが脳に焼き付いて、この先一生忘れることはないだろうと、単純にそう思えた。



 家に帰って、夕飯を食べて、お風呂に入って、布団に潜る。そして目を瞑れば、土手で手を握り合っていた光景が浮かんできて、そこから先はただの想像であると、本当はなかった出来事であるとわかっていても、俺は彼女と口付けを交わしていた。



 目を開けて、まだ夜が明けていないことを確認する。



夢なのか、それともただの行き過ぎた妄想なのか。どちらにしても、自分が正常な状態ではないことは明白だった。



目を瞑る度に同じ景色に辿り着いて、そし再び目蓋が開いてしまう。夜が明けるまで、そんなことを繰り返していた。



 気付けば、朝日が昇っていた。





     *     *     *     *     *     *





登校し、校門前で浜川さんが来るのを待っていた。



やがて視界の端に少女は現れ、彼女は手を振りながら近付いてきた。



「小田君。おはよう」



悲しみが一瞬湧き上がるも、すぐに希望的な観測が生まれた。



もしかすると、土手と学校では何らかの区別をしているのかもしれない。どういう理由であるかはわからないが、きっとそうに違いない。



 浜川さんは今までの朝と全く変わりない様子で、俺に話しかけてくる。



「そう言えば知ってる? 今日先生たちの会議があるから、部活動禁止ですぐに帰らなきゃいけないんだって」



 浜川さんからもたらされた思わぬ情報に、俺の胸は高鳴った。



「じゃあ、今日も行くね」



 反射的に口を突いた俺の言葉に、彼女は不思議そうな顔をした。



「行く? どこに?」



 いくら土手での態度の学校での態度を分けているとはいえ、ここまで白を切る必要があるのだろうか。



「土手だけど」



「ドテ? どうして?」



 なんだか話が噛み合わない。



「えっ、昨日は部活がある日は行かないって話だったけど、今日はなくなるから土手に行けるじゃないか」



 俺が言葉を付け加える度に、彼女の表情は険しくなっていく。



「えっと、私達、そんな話してたっけ?」



「してたっけって。昨日土手で」



「話を戻すけど、そのドテって一体なんののこと?」



 何を言っているんだ? なかったことにしようとしているのか? 君にとって、あの時間はどうでもいいものなのか?



 怒りなのか悲しみなのかもわからぬどす黒い感情が体を支配して、呪いの言葉を唱えるように、思いつく単語を吐き出した。



「昨日、放課後、川原で、浜川さんが」



 土手という言葉を川原に変えても、目の前の少女はわからないと言った様子で首を傾げていた。心臓の鼓動が早くなり、手足が震えてきた。



 自分が何か根本的な間違いを犯しているのではないかという強烈な不安が、一気に全身を覆い尽くした。



「ねえ、浜川さん。昨日の放課後、何してた?」



 自分でも何でこんな質問がするりと出てくるのかと不思議で仕方がなかった。そして、この質問をしてはいけないという不安が、言葉を発すると共に確信へと変わった。



「昨日は家でずっと勉強してたよ」



 世界がひっくり返る、という言葉はこのような時のためにあるものなのかもしれない。

俺は立っていることができず、校門前のアスファルトに尻餅を突いた。



世界が少しずつ回転していき、九十度回転したと思えば伸びきったゴムが一瞬で縮む時のように素早く正面の景色に戻り、また回転を始めた。



視界はその奇妙な周期運動を何度も繰り返し、浜川さんが呼んでいるのであろう俺の名前すらも、はっきりと聞き取ることができずにいた。



 外部情報を遮断するために俺はきゅっと目をつむった。体育座りのような形で蹲り、膝の中に顔を埋めて聴覚も塞いだ。



 情報の一切を拒み、脳裏に焦げ付いている昨日の記憶を再生する。



 土手出会った少女の容姿、声。紛れもなく浜川咲と同じものだ。だから疑いもなく、あの少女のことを浜川咲だと思っていた。



 言いたくない。言葉にしたくない。決定的なものにしたくない。



「小田君。大丈夫?」



 聴覚は正常に戻ったようで、浜川さんの声が聞こえてきた。



「ああ、ちょっと目眩がしただけ」



 顔を上げずに答えた。まだ「大丈夫」と言い張れる表情を作れる自信がなかったのだ。



「さっきの話、よくわかってないんだけど、私が覚えてないだけ、とか」



「いや、違うよ。俺の勘違いだ」



 そう。ただの勘違いだ。



「勘違い?」



「恥ずかしながら、多分そういう夢を見たんだ」



 いいや。夢じゃない。いや、夢ならばまだよかったのかもしれない。



「夢? 私の夢ってこと?」



「ごめん。変なこと言って」



 顔を上げて笑って誤魔化すも、浜川さんの気まずそうな様子にやはりいた堪れない気持ちになった。



 ただの情緒不安定な男子高校生が学校で評判の美人女子高生にダル絡みをして迷惑をかけた朝の光景は、幸いにも他の生徒や先生に目撃されることなく、俺と浜川さん、二人の間の気まずい空気以外は、朝の開門までの時間は普段となんら変わらないものだった。



 体育館に行って、一人になって、準備運動もそこそこに、俺は全速力のドリブルでコートの端から端までを何度も往復しながら、レイアップという走った勢いのままにシュートを打つバスケの基本シュートを繰り返した。



 息が切れて、心臓が痛くなって、このまま死んでしまえと一人思って、当然そんなことはなく、やがて息苦しさに耐えられなくなって足が止まった。



 そうして、酸欠気味の脳みそで、既に出ていた答えを言葉にした。



「浜川さんと、土手出会った彼女は、別人だったんだ」



 この日ばかりは、綴人がまだ来ていなくてよかったと心から思った。


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