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十四 悪い夢でも見ているような

「————————————は?」



 俺は本当に言葉を失っていた。現実を見失っていた。過去今までに味わったことがないほどのとんでもない聞き間違いに遭遇しただけだというのに。



「浜川さんだよ。浜川咲」



 俺は動揺を押し殺しながら平昭さんに尋ねるが、彼女は本当にわからないといった様子で俺を見ていた。



「ごめん。わからないや」



「いやいや。あなたの友達で、中学も一緒で」



「私の知り合いにそんな名前の人いないよ。その話誰から聞いたの。私が確認取るから」



「ちょっと待てよ。確認なんて取る必要ないだろ! なんでわからないんだ!」



 瞬間、教室中の目玉が俺を見た。



 しばらくの静寂の後、再び室内には話声が漂った。しかしその半数は恐らく俺のことについて話していて、「どうしちゃったんだろうね」なんていう言葉が侮蔑ともとれる笑い声と共に聞こえてきた。



 平昭さんは心の底から心配した眼差しを俺に向けた。



「小田。落ち着いて。きっとちょっとした勘違いだよ」



 平昭さんがそう言ったところでチャイムが鳴った。



 クラスの誰もが自分の席に戻る中、俺は最後の一人となるまでその場から動くことができずに、同級生の好奇の視線にさらされた。



 俺はいそいそと自分の席に座り、教師が教室に入ってきても授業に意識を向けることができずにいた。



 平昭さんは一体なんであんなことを言ったんだ。浜川咲を知らない? そんな馬鹿なことがあるか。



 俺が頭を抱えていると、ぽんっと肩に手が置かれた。



 見ると、明日葉が心配そうな顔で立っていた。



 どうして授業中に、と思い時計を見れば、いつの間にか授業は終わっていて、既に休み時間の時刻となっていた。



「大丈夫か? 何かあったのか?」



 明日葉の声も、表情も、心の底から俺を心配しているようだった。



「なあ。明日葉は、浜川さんのこと知ってるよな?」



 そう尋ねる俺の声は震えていた。



「・・・・・・ごめん。わからない」



 彼の心配の心に、不安の色が混ざったような気がした。



 ————————————いや、明日葉は果たして本当に俺のことを心配しているのだろうか。



 彼は俺の友人であるという立場から一応俺を心配している風を装わなければならない。しかし彼の本心としては、自分の彼女を怒鳴りつける悪い虫を成敗してやろうとそう考えているのではないだろうか。



 そんな考えに突然囚われて、いや、違うだろ、落ち着け、と自分自身に語りかけた。



「そっか。知らないならいいんだ」



 俺はなんとか平静を装うが、それでも心配の姿勢を崩さない明日葉は、川崎と尻手を呼んだ。



 おい! ふざけるな!



この声を言葉にすることができないまま、明日葉はやってきた川崎と尻手に尋ねた。



「ハマカワって誰かわかる?」



 明日葉の問いを聞いた瞬間の尻手の表情が、俺の目にはっきりと映り込んだ。



今まで生きてきた人生の中で、そのような名前を一度も聞いたことがない。尻手は、そんな顔をしていたのだ。



「知らないなあ」



「俺もわからん」



 尻手の言葉を聞いた瞬間、俺は席から立ち上がっていた。



椅子は勢いのあまり倒れたが、幸い一番後ろの席であるということもあり、誰にもぶつかることなく椅子は床に倒れ落ちた。



「本当にわからないか?」



 俺の目は、まっすぐ尻手を見据えていた。



「え、ああ」



「本当にわからないのか!?」



 俺は尻手の肩を掴み、激しく揺さぶっていた。



 彼は明らかに狼狽した様子で、「ちょっと、やめろよ」と俺の手を掴んで抵抗していた。



 尻手の瞳には一切の濁りがなかった。



あらゆる邪念や悪意が存在せず、俺の乱暴な行動に対しても、まるで怒りすらも湧いてないようで、ただ純粋に、俺の心配をしていた。



 俺は彼の目をえぐり出してやりたい衝動に駆られたが、明日葉によって引き離され実行に移されることはなかった。



「栄治。今日ちょっとやばいぞ、お前」



 明日葉の言葉は耐え難かった。



 俺がおかしいのか? いいや。おかしいのはお前たちの方だろ。どうして友達のことを覚えていない! どうしてクラスメイトのことを覚えていない! どうして好きな人のことを覚えていないんだ!



 俺は自分の荷物を全て学生鞄の中に放り込むと、椅子も直さぬまま、授業が全て終わらないうちに教室を去った。



 下駄箱まではまだ早歩きで我慢できたが、校門は走って出ていった。



 そのまま走りに走り、向かったのは自分の家ではなく、この疑問を解消するための場所だ。

家から川の土手へと向かうために使った道。その道を途中で曲がると、立派な和風建築のある区画に行き当たった。



 息を整える間も惜しく俺はその和風建築の門へと突撃し、インターホンを鳴らした。



 ピンポーンという音が建物の奥から聞こえてきて、やがて『はい』という女性の声が聞こえてきた。



「あの、僕は小田栄治というものなんですが、浜川咲さんは御在宅でしょうか?」



 俺は早口で捲し立てていた。



 恐らく、咲はこの家にはいない。父親の家に住んでいるはずだから。しかしこうして出向けば、彼女の情報を教えてくれるかもしれない。そう思ったのだ。



『この家に、浜川サキ、という者はおりませんが』



 声から察するに、通話の主は扇町さんだろう。



「あの、僕、小田です。小田栄治。扇町さん。以前にお世話になった男子高校生です。最後に会った時に、浜川咲さんはお父様の家に向かうとおっしゃっていましたよね。彼女は今そちらにいるという認識で大丈夫でしょうか?」



 家にいないというのは織り込み済みだ。早く、早く彼女の居場所を言えよ。



『・・・・・・ですから、浜川サキ、という女性は、この浜川家には籍を置いておりません』



 扇町さんはそう言い残すと、インターホンがぷつりと切れた。



 ふざけるな!



 俺は叫びたくなる気持ちを必死に抑え、言葉を口の中に押しとどめた。



 そして再びインターホンのスイッチを押した。何度も、何度も。ベルの音が繰り返し繰り返し聞こえてきて、その音の連なりを断ち切るように、ピッという通話の始まりを告げる音が聞こえた。



 その瞬間、俺は溜め続けた言葉を吐きだした。



「扇町さん。冗談は止めて下ささい。この家の奥様、浜川サダヨさんの一人娘、浜川咲さんのことです。扇町さん、彼女はどこにいるんですか」



『これ以上騒ぐと警察を呼びますよ。では』



 再びインターホンは切れた。



 もう一度インターホンを連打してみるが、浜川さんの家の中からベルの音は聞こえてこず、インターホンの電源を落とされたのだと悟り、苛立ちのあまり「くそっ!」と恨みがましく吠えていた。



 俺はその場から逃げ出すように、走って自分の家に帰った。



 家に着くとすぐに、自分の部屋に向かい、机の引き出しをまさぐった。

咲と一緒に書いた絵しりとりの紙がまだ残っているかもしれないと思ったからだ。しかし、紙は見付からなかった。



 もしかしたらゴミに出してしまったかもしれない。



 そんな可能性に縋って、他に何かないかと自分の不確かな記憶を掘り返した。

そうだ、とふと思い出し、前期に用いた教科書ノート類の山の中から世界史のノートを取り出した。

パラパラとページを捲り、ミミズのような線がいくつもノートを横断しているのを見て、自分が授業中に眠ってしまったことを思い出した。



 そして汚いページが終わった後、白紙のページがずっと続いていた。



 いくら捲っても白紙。白紙。白紙。



 ノートを閉じ、震える手で、もう一度、最初からページを捲っていった。しかし汚いページが終わった後は、やはり白紙が続くばかりであった。



 茫然と白紙のページを見詰めていると、スマホに着信が入った。



電話に出ると、『栄治。大丈夫か?』と綴人の声が聞こえてきた。



「なあ、綴人。浜川咲ってわかるか?」



 深い諦めの中でも、僅かな希望の光を辿って尋ねた。



『・・・・・・ごめん。わからない』



「・・・・・・そうか。もう切る」



 俺は電話を切って、力任せに壁に向かってスマホを投げた。大きな音がしたかと思うと、壁に跳ね返えされたスマホはそのまま床に落ちた。



 電話が掛かってきても、俺は耳を塞いで無視した。



 誰の話も聞きたくなかった。



 どうせ、誰も浜川咲のことを覚えていないのだから。


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