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後編 美人女流棋士、ストーカーを捕まえる

 結局、その場では結論が出なかった。

 最も怪しいアカウントは、やはり @kanbe_kurodaだった。三年ほど前までは応援のメッセージを送っていたのに、ここ一か月ほどで態度が一変し、リサを罵倒するようになった。さらに「見たぞ」「裏切り者」「マスコミにバラした」といった不穏なメッセージまで送っている。

 ただし、それだけで彼がリサを尾行していると断定することはできない。マスコミに情報を流した可能性はあるが、実際に尾行しているのが誰なのかは、依然として分からなかった。

 莉央は、警察に相談する際に役立ちそうな情報をまとめることにした。ストーカー気質レベル三と判定されたアカウントについて、プロフィールやDMの内容、送信時期、AIによる分析結果などを整理し、データをUSBメモリに保存する。さらに、主要な内容を大学のコピー機で印刷し、紙の資料としてもリサに渡した。

「AIの分析はあくまで推測です。これだけで相手が犯人だとは言えません。でも、DMの内容や送信履歴は実際に残っているものですから。警察に相談するとき、参考資料にはなると思います」

「ありがとうございます。自分だけでは、どう整理していいか分からなかったので」

 リサは資料を受け取り、何度も頭を下げた。

 少なくとも、これで何の手掛かりもない状態からは一歩進めた。だが、疑わしい人物のアカウントを特定することと、尾行の正体を突き止めることは別の問題だった。

 蓮には、リサの事情をどこまで話すか、あらかじめ二人で相談していた。

 リサの方も、桜井の弟子であり、ストーカー被害に困っていて莉央に相談してきた――その程度なら話しても構わないと同意してくれた。俳優との交友関係や、マスコミに狙われているかもしれないという推測については、まだ伏せておくことにした。

 もっとも、蓮がラウンジを出てコーヒーを買いに行っている間に、莉央は彼について、もう少し詳しい説明をしていた。

「蓮は桜井先生とも面識があるんです。先生からは、なぜか霊媒師って呼ばれていて」

「霊媒師、ですか?」

 リサは不思議そうに聞き返した。

「秋に、桜井先生が兄弟子の悪霊に祟られたことがあったんです。そのとき、蓮がお祓いをしたんですよ」

 説明だけ聞けば、冗談のような話だった。けれど、莉央はいたって真面目な顔をしていた。

 リサにとって、桜井は信頼する師匠だ。その桜井が蓮と面識を持ち、実際に頼りにしているのなら、少なくとも素性の分からない相手というわけではない。話の内容にはにわかに信じがたい部分もあったが、師匠が信頼している人物なら、自分もある程度は信頼してよいだろう。リサはそう考えることにした。

 やがて、蓮がコーヒーを手に戻ってきた。三杯のコーヒーを起用に運んでいる。

 莉央は、リサから相談を受けたことと、ここまでの経緯を簡潔に説明した。もちろん、本人の許可を得た範囲に限っての話だった。

 蓮は黙って聞いていたが、説明が終わると、あっさりとした口調で言った。

「それなら、二重尾行しようか?」

「……二重尾行?」

 リサが思わず聞き返した。

 莉央も、すぐには返事をしなかった。


 リサが誰かにつけられていると感じるのは、決まって将棋の仕事の帰り道だった。

 将棋イベントや対局、あるいは日本将棋協会が主催する道場での指導。仕事を終えて帰宅する途中、ふと背後に人の気配を感じる。振り返っても、それらしい人物はいない。人通りの少ない道に入ると足音が気になり、立ち止まって様子をうかがうと、いつの間にか気配が消えている。

 そんなことが何度か続いていた。

 仕事の予定は、協会のホームページで公開されている。イベントや指導対局の告知を見れば、リサがいつ、どこに現れるのかは誰でも調べられた。もし誰かが意図的に彼女を追っているのなら、予定を確認して現場に現れ、仕事が終わるのを待つことも難しくない。

 つまり、尾行している人物は、リサの予定をあらかじめ把握している可能性が高かった。

 そして、莉央に相談したその日の夜にも、リサには仕事が入っていた。

 日本将棋協会が主催するトークイベントである。師匠の桜井孔明が復帰することを記念した催しで、リサは大盤解説の聞き手を務める予定だった。

 企画の内容は、桜井門下の若手棋士が、招待されたVIP客と駒落ちで対局するというものだった。対局の模様を大盤に映しながら、桜井が持ち前の軽妙な語り口で解説し、ときには対局者を茶化して会場を笑わせる。リサはその隣で話を拾い、観客にも分かりやすいように進行を助ける役回りだった。

 桜井のトークは、ファンの間で「桜井ワールド」と呼ばれている。将棋の解説をしていたはずが、いつの間にか棋士の裏話や身近な出来事に脱線し、それでも最後には妙に納得させられてしまう。そんな独特の話術を楽しみにしているファンは少なくなかった。

 会場は定員四十名ほどの小さなスペースだったが、募集を始めるとすぐに応募が殺到し、あっという間に満員御礼となったらしい。抽選に漏れたファン向けに用意された有料のネット配信枠も、飛ぶように売れているという。

 リサからイベントの説明を聞いた莉央は、目を輝かせた。

「その企画、面白そうだからVIP客として対局したい!」

「それはさすがに……。大人気だったので、抽選になっていました」

 リサは苦笑した。

「えー、残念。桜井先生のトークを聞きながら将棋を指せるなんて、絶対に面白いのに」

「指す方は、先生にさんざん茶化されると思いますけど」

「それも含めて楽しそうじゃないですか」

 莉央は本気で残念そうだった。

 結局、莉央がイベントのチケットを手に入れることはできなかった。もっとも、今回の目的は桜井のトークを楽しむことではなく、リサを尾行している人物の正体を確かめることだ。

 蓮の提案した二重尾行は、イベントが終わった後に実行することになった。

 リサが会場を出て帰宅するまでの動きを、まず蓮が少し距離を置いて追う。その一方で、リサの後ろをつける人物がいないか、周囲にも目を配る。もし本当に誰かが尾行しているのなら、その人物の存在や行動を確認できるかもしれない。

 ただし、尾行されているという前提そのものが、まだ確定したわけではない。マスコミなのか、厄介ファンなのか、それともリサの思い過ごしなのか。そこを見極めるための試みだった。

 莉央としては、桜井の復帰記念イベントをぜひとも生で聞きたかった。けれど、チケットがない以上、会場に入ることはできない。

 そこで、イベント会場に併設されたカフェで蓮と待機することにした。

 リサがイベントを終えて出てくるまで、二人で時間をつぶす。普段なら、蓮が練習を終えるのを莉央が待つこともあれば、その逆もある。待ち合わせ自体は珍しくなかった。

 ただ、今回はいつもの待ち合わせとは少し違う。

 リサが会場を出た後、何が起きるのか。それを確かめるための、長い夜になりそうだった。


 会場は、四十名ほどで満席になる小さなイベントスペースだった。客席の前方には大盤が設置され、その脇に桜井孔明と北条リサが並んで座っている。

 復帰記念トークショーの幕開けから、桜井は絶好調だった。

「いやあ、皆さん。ご心配をおかけしました。ワシ、しばらく将棋から離れとったやろ? 実はな、えらい目に遭うとったんですわ」

 桜井は、いかにも深刻そうな顔で客席を見渡した。

「ネットでもちょっと話題になったんやけどな。死んだ兄弟子の亡霊に祟られましてん」

 客席から、どよめきと笑いが同時に起こった。

「いやいや、笑い事ちゃうねん! ほんまに車に撥ねられましてな。ワシ、将棋指しやで? 盤上の駆け引きには慣れとるけど、道路の上で車と駆け引きする趣味はあらへんのや!」

 桜井は身振り手振りを交えながら、事故に遭ったときの様子を大げさに語った。ひとつひとつの出来事に絶妙な間を置き、客席の反応を見ながら話を膨らませていく。

「それでな、さすがにこれはアカンと思いまして。ワシもええ歳やし、命は惜しい。せやから、姪っ子に相談したんですわ」

 リサは隣で、困ったような笑みを浮かべていた。

「そしたら、その姪っ子が言うんです。『彼氏が霊媒師だから紹介してあげる』って」

「へえー」

 リサが相槌を打つと、桜井はすかさず彼女の方を向いた。

「いや、北条さん。聞いてください。ワシ、霊なんかこれっぽっちも信じてませんねん。幽霊なんぞおるわけないやろ、と思うとった。ところがやで? まさか自分の姪っ子がスピっとるとは思わんかった! 悪い男に騙されとる」

 客席から笑いが漏れた。

「ワシ、その子のことは小さい頃から知っとるんです。そらもう、賢い子でしたわ。頭の回転も速いし、物事をよう考える子でな。将来はどんな立派な人間になるんやろうと、楽しみにしとったんです。それが……」

 桜井は、わざとらしく天井を仰いだ。

「幽霊やらオカルトやらを信じるギャルになってもうた!」

 今度は会場全体が笑いに包まれた。

「いや、ほんまに嘆かわしい。ワシは悲しい。賢かったあの子が、いったいどこで道を間違えたんやろうなあ!」

 リサもとうとう堪えきれず、口元を押さえて笑った。

「でも、桜井先生。その霊媒師さんにお祓いをしてもらったんですよね?」

「せやねん。そこがまた不思議な話でな。ワシは信じてへんのに、姪っ子がえらい熱心に勧めるもんやから、しゃあなしに紹介してもろうたんです。ほんなら、その霊媒師がなかなかの好人物で……」

 桜井はそこで言葉を切り、客席を見回した。

「まあ、詳しい話は長うなるから、今日はやめときましょ。せっかくの復帰記念や。いつまでも亡霊の話ばっかりしとったら、将棋の神様にまで見放されてまうわ!」

 客席から、再び笑いと拍手が起こった。

 話の真偽を確かめようとする者など、ここにはいなかった。桜井の話術にかかれば、事故も亡霊も、すべては客席を沸かせるための絶好のネタになるらしい。

「まあ、そんなこんなで、しばらく休ませてもろうたわけですけどな。悪いことばっかりやなかったんです。普段は将棋の仕事で家を空けることも多いから、この機会に家族孝行もできました。子供らとも、ぎょうさん遊べましたしな」

 桜井の表情が、少しだけ柔らかくなった。

「娘がハマっとるカードゲームがあるんですけど、これがまた、なかなか手に入らん景品がありましてな。ほんなら大会に出て獲ってきたろ、いうことで、ワシも参加してきたんですわ」

 客席から、感心したような声が上がる。

「将棋の大会やったら慣れたもんですけど、子供のやるゲームは勝手が違う。子供らに教えてもろうて、なんとか頑張りましたわ。いやあ、親も大変ですなあ!」

 桜井は、いかにも苦労したという顔で肩をすくめた。

「せやけど、子育てには金も掛かります。うちは長男が医学部に通うとりましてな。これがまた、学費が高い! 医学部いうのは、親の財布に対する攻撃力がえげつないんですわ! 藤原名人の終盤戦顔負けですわ」

 会場がどっと沸いた。

「下の子らもまだまだこれからですし、ワシも頑張って稼がなあきません。いつまでも休んどるわけにはいかんのです。せやから、これからは本格的に将棋に戻って、バリバリ働かせてもらいます!」

 桜井は背筋を伸ばし、客席に向かって頭を下げた。

「皆さん、これからも桜井孔明を応援したってください。家族のためにも、将棋界のためにも、まだまだ頑張りますさかい!」

 拍手が会場を満たした。

 深刻な事故の話から始まり、亡霊騒動を経て、最後は家族と学費の話に着地する。どこまでが本当で、どこからが笑いのための脚色なのか、聞いている側には判然としない。

 それでも、桜井の言葉には、将棋から離れていた時間を取り戻そうとする意気込みがあった。

 北条リサは隣で微笑みながら、客席の拍手に耳を傾けていた。


「へっくしゅー!」

 蓮が口元を押さえながら、豪快なくしゃみをした。

 目の前のテーブルには、将棋盤と紅茶、それにケーキが並んでいる。将棋ファンが集まるカフェというだけあって、テーブルそのものが将棋盤を模した造りになっていた。盤面の升目を囲むようにカップや皿が置かれ、なんとも将棋好きらしい内装である。

「蓮、汚い」

「いやあ、先月は減量で体力落ちてたし、風邪ひいたかな?」

 蓮はティッシュで口元を拭き、それを押さえていた手も念入りに拭きながら答えた。

 先週、全日本学生グレコローマン選手権が開催された。蓮はそこに照準を合わせ、練習を重ねながら減量にも取り組んでいたのだ。一般に、厳しい減量やエネルギー不足は免疫機能にも影響を及ぼすとされる。試合を終えて緊張が緩んだところで、体調を崩したとしても不思議ではなかった。

 もっとも、蓮は無事に三位入賞を果たし、天皇杯への出場権を手にしている。次の大舞台に向けて、これからまた調整を始めなければならない。こんなところで風邪をひいている場合ではなかった。

「なんか、あのオッサンに噂されてる気がする」

 蓮は鼻をすすりながら、隣のホールの方へ目を向けた。

 そちらでは、桜井孔明の復帰記念トークショーが開催されている。会場からは、ときおり笑い声や拍手が聞こえてきた。

 まさか桜井が、自分のことを「姪っ子をたぶらかす霊媒師」のように紹介しているとは、蓮も夢にも思っていない。莉央から聞いた話では、桜井は自分のことを霊媒師と呼んでいるらしいが、いったいどんな話になっているのやら。

「噂されてくしゃみするなんて、それこそスピじゃない?」

 莉央は紅茶を一口飲み、呆れたように言った。

「それは気が悪いなぁ。あ、米の方の『氣』ね」

 蓮はわざとらしく顔をしかめた。

 スピリチュアルな話を信じるどころか、むしろ茶化しているような口ぶりだった。日本語の「気」と、気功やオカルトで使われるような「氣」を掛けた、いかにも蓮らしい冗談である。

「はいはい。そういうの、桜井先生の前で言わないでよ」

「なんで? あのオッサンだって、俺のこと霊媒師って呼んでるんだろ?」

「だからだよ。変なところで話が盛り上がるんだから」

 莉央はため息をついたが、その口元には笑みが浮かんでいた。

 隣のホールでは、今日も桜井ワールドが絶好調らしい。二人は紅茶とケーキを前に、イベントが終わるのを待っていた。


 夜の街を、リサは一人で歩いていた。

 駅へ向かう道からは、少しずつ外れている。街灯はあるものの、飲食店の並ぶ通りと比べれば人影はまばらで、歩道を行き交う人もほとんどいない。

 少し離れたところに、蓮がいるはずだった。

 あらかじめ、イベント終了後に歩くルートは莉央と蓮に伝えてある。二人はリサの後を追う人物がいないか、周囲を警戒しながら待ち構えていた。

 イベントそのものは、盛況のうちに無事終了していた。

 終演後、リサは桜井に挨拶を済ませると、早々に帰り支度をした。桜井はこのあと、門下の弟子たちと飲みに行くつもりらしかったが、リサの様子を見て心配そうに眉を寄せた。

「おい、リサ。帰り、大丈夫なんか? まだ誰かにつけられとるかもしれへんのやろ。迎えでも寄越そか?」

「ありがとうございます。でも、明日、警察に相談するつもりですし、駅までは人通りも多いので大丈夫です」

「せやけどなあ……」

「本当に大丈夫です。心配しないでください」

 リサはそう言って、桜井の申し出を断った。

 師匠にまで余計な心配を掛けたくはなかった。それに、いつまでも誰かに守ってもらうわけにもいかない。明日には警察に相談する。今夜はできるだけ普段どおりに帰宅したかった。

 そうして会場を出たリサは、約束したルートを歩き始めた。

 しばらくすると、背後から足音が聞こえてきた。

 自分が歩けば、少し遅れて足音がする。立ち止まると、向こうも止まる。気のせいだと思おうとしても、一度意識してしまうと、もう無視することはできなかった。

 誰かがいる。

 やはり、ついてきているのだ。

 少し離れたところにいるはずの蓮なら、こんなふうに背後から一定の距離を保って歩く必要はない。前もって決めた段取りを考えれば、今、自分を追っているのは蓮ではないはずだった。

 心臓が早鐘を打ち始める。

 それでもリサは、歩みを止めなかった。

 やがて、人通りのほとんどない道に差しかかった。周囲に人影はなく、車の走る音も遠い。

 リサは足を止めた。

 そして、意を決して振り返った。

「あの。私に何か用でしょうか?」

 声は震えていた。けれど、相手に聞こえなければ意味がない。リサはできる限り大きな声で尋ねた。

 その瞬間、少し離れた物陰から、ガサッ、と音がした。

 誰かが身を隠そうとしたのだ。

 リサがそちらへ目を向けるより早く、別の方向から人影が飛び出した。

 蓮だった。

 長い脚で一気に距離を詰めると、物陰に身を潜めていた男の肩を、後ろからポンと叩いた。

「アンタ、何者だい?」

 蓮の声は、思いのほか落ち着いていた。

 男はびくりと肩を震わせたものの、取り乱して逃げ出すようなことはなかった。振り返った顔にも、犯罪者めいた険しさや、追い詰められた者特有の露骨な動揺は見られない。

 むしろ、こうして誰かの後をつけることに慣れているようにも見えた。

 探偵か、記者か。それとも、誰かの行動を調べることを生業にしている人間なのだろうか。

 蓮は男の肩に置いた手に、ほんの少しだけ力を込めた。

 男はその手を一瞥すると、小さく息を吐いた。

「……分かりました。逃げませんよ」

 観念したような溜息だった。自分よりも体格の大きな男に捕まったうえ、逃げ道もない。抵抗しても無駄だと悟ったのだろう。

 蓮は男を連れ、莉央の待つカフェへと戻った。

 店内には、すでに莉央だけでなく、桜井孔明の姿もあった。莉央から連絡を受け、イベント後の予定を変更して駆けつけたらしい。

 男が連れてこられると、桜井は椅子から立ち上がった。普段の陽気な表情は消え、目つきが厳しくなる。

「兄ちゃんが、うちの弟子を散々つけ回しとったんか?」

 関西弁の声音には、いつもの冗談めいた調子はなかった。

 男は答えず、店内にいる一同を見回した。

 リサは蓮の少し後ろに立ち、ようやく息をついた。誰かが自分を追っていたことは、もう間違いない。

 だが、その男が何者で、何のために自分を尾行していたのか。

 それは、これから確かめなければならなかった。

 男は観念したように小さく息を吐くと、ジャケットの内ポケットから名刺入れを取り出した。一枚抜き出し、テーブルの上に置く。

 そこには、週刊春秋の記者、仙石と記されていた。

「週刊春秋……。仙石さん、ねえ」

 桜井は名刺を手に取って眺めると、何やら納得したように頷いた。

「春秋で戦国やと? 始皇帝に統一されそうな名前やな」

 ぼそりと呟いた桜井に、蓮だけが吹き出した。歴史好きの蓮には、桜井の冗談が妙にツボに入ったらしい。一方、莉央とリサは何が面白いのか分からず、顔を見合わせていた。

 仙石は愛想笑いすら浮かべず、淡々と口を開いた。

「取材しようと思って、後をつけていました」

「なんやて?」

 桜井の表情が一変した。

「まさか、スキャンダルかいな?」

 リサの顔が強張る。仙石は答えず、テーブルの上の名刺を指先で揃えた。

 桜井はその様子を見て、すぐに莉央と蓮へ視線を向けた。

「おい、霊媒師。莉央。お前ら、ちょっと席を外してくれへんか。あとでたっぷり礼はするさかい、これで先に店取って、一杯呑んどいてくれ」

 そう言って財布を取り出し、一万円札を一枚、蓮に差し出した。

「え、いいんですか?」

「ええから、行っとき。ここはワシに任せとき」

 桜井の口調は軽かったが、目は笑っていなかった。

 蓮も、ようやく事態を理解したらしい。ストーカーだと思っていた相手が週刊誌の記者で、しかも取材のために尾行していたと認めたのだ。ここから先は、リサのプライベートに関わる話になる。自分たちが同席し続けるのは、かえって彼女を困らせるかもしれない。

「莉央、俺たちの仕事はここまでだな」

「そうだね」

 莉央は頷き、車椅子の向きを変えた。蓮も立ち上がり、彼女の歩調に合わせるように店の出口へ向かう。

「桜井先生、ご馳走様です」

「おう。あとで連絡するわ」

 二人はリサに余計な気を遣わせないよう、あえて振り返らずにカフェを出ていった。

 扉が閉まると、店内は急に静かになった。

 残されたリサと桜井、そして週刊春秋の記者、仙石。

 桜井は一万円札を渡したときの気さくな表情をすっかり消し、改めて仙石と向き合った。

「ほな、話を聞かせてもらおか。うちの弟子を尾行してまで、何を取材したかったんや?」

 今度は、誰も笑わなかった。

「先月、テレビ番組の企画で共演した、俳優の松原海さんとの関係を教えてください」

 記者の男がそう切り出した瞬間、桜井の眉がぴくりと動いた。

「松原!?」

 思わず声を上げたのは、リサではなく桜井だった。

 松原海といえば、子役時代からキャリアを積み重ねてきた若手俳優だ。自然体の演技を持ち味とし、繊細な感情の揺らぎを、表情や佇まいで静かに表現する。青春ドラマや人間ドラマでの内向的な役柄に定評がある一方、ミステリーやアクション、時代劇、医療ドラマなどにも出演し、着実に活躍の場を広げていた。派手さよりもリアリティーと情感を重視する演技で、若手の実力派として注目されている俳優である。

 そんな男と、自分の弟子が何かあったというのか。

 桜井はリサをちらりと見たあと、記者へ向き直った。

「聞いてへんなあ。ウチの門下ではな、男だ女だの関係になるんやったら、必ず師匠であるワシのとこに挨拶に来させる。それだけが唯一のルールなんや」

 もっともらしい口調だった。

「弟子には自由にやらせとるけど、恋愛関係だけはワシの許可制や。ワシが知らんっちゅうことは、なんもない、ただの友達っちゅうことやろ?」

 もちろん、そんなルールはない。

 桜井は冗談めかすこともなく、記者を睨みつけていた。声を荒らげているわけではない。それでも、鋭い目力には相手を怯ませるだけの迫力があった。

「北条さんに聞いているんですが」

 しかし、記者もさすがに場数を踏んでいる。師匠の剣幕に気圧されることなく、質問の矛先をリサへ戻した。

「あの、その……お友達です」

 リサは少し困ったように答えた。

 友達というのは、今の二人の関係をそのまま表した言葉なのか。それとも、まだ友達という段階なのか。あるいは、リサ自身が松原海という男に好意を抱いているのか。

 桜井には分からなかったし、分かる必要もなかった。

 弟子が誰を好きになろうと、誰と親しくなろうと、それは本人が決めることだ。ただ、こうして面白おかしく書き立てられ、本人の知らないところで勝手な関係を作り上げられるのは、どうにも気に入らなかった。

「そういうことや。健全な友達や」

 桜井は念を押すように言った。

 リサと松原の関係がどんなものであれ、余計な騒ぎを起こされて、せっかく築いた関係を壊されるようなことになれば気の毒だ。そんな思いもあったのだろう。

「そもそも、ソースはどこや?」

 桜井が話を切り替えた。

「情報源は明かせません」

「明かせません、やないやろ。どこの誰が、何を根拠にそんな話を持ち込んできたんか、聞いとるんや」

「それについては、お答えできません」

「たいがい、ネットのDMに踊らされとるんちゃうんか?」

 その言葉に、記者の表情がわずかに変わった。

 桜井は、さきほど莉央から話を聞いていた。日中にリサのInstagramに届いたDMを整理し、ストーカーの可能性があるアカウントをいくつか洗い出したという。もちろん、それだけで犯人を特定できたわけではない。だが、リサを執拗に攻撃している人物がいることは、すでに把握していた。

 桜井は記者の顔をじっと見据えた。

「まさか、黒田官兵衛みたいな名前の奴とちゃうやろな?」

 記者の顔から、すっと血の気が引いた。

 ほんの一瞬のことだったが、桜井は見逃さなかった。男は目を逸らし、口を閉ざした。

「……当たりやな?」

 桜井は低い声で言った。

「そいつ、リサの熱心なネットストーカーやねん。警察にも相談しとる。そんな奴の言葉を真に受けて、金のために若い女の子を傷つける記事を書くんが、アンタらの仕事なんか?」

 男は何も答えなかった。

 桜井は一歩も引かず、相手の目を見据えたまま続けた。

「どうなんや?」



 桜井とリサは、莉央から送られてきた店へ向かった。

 桜井門下の若手棋士は、翌朝の研究会が早いということで、先に帰ってしまったらしい。師匠と二人きりで飲むとなれば、なかなか断りづらかったのだろう。ほかにも飲みに行くメンバーがいると分かれば、もう少し気楽に断れたのかもしれない。

 案内された店は、桜井が想像していたものとは少し違っていた。

 車椅子でも出入りしやすい、ゆったりとした店を選んでくれたのかと思っていたのだが、実際は雑然とした大衆居酒屋だった。店内は狭く、客の話し声と食器の触れ合う音が入り交じっている。歩道に面した席には、寒さをしのぐための透明なビニールシートが張られていた。

 もっとも、莉央と蓮にとっては都合がよかった。路面席なら店に入って他の客に気を遣われないで済むし、後から来る二人の様子をうかがえる。 

 ただ、蓮の装いは、こうした店にはいささか上品すぎた。

 仕立てのよいネイビーのジャケットに、すっきりとしたアイビー調の着こなし。育ちのよさがにじむオールドマネー風の服装は、油の染みたテーブルや雑然とした店先とは、どうにも釣り合わない。

 季節は冬に差しかかり、夜風はすっかり冷たくなっていた。

 そのジャケットは、今や蓮の肩にはない。隣に座る莉央の膝に掛けられ、膝掛け代わりになっていた。本人は寒くないのだろうか。少なくとも、莉央が冷えないようにという気遣いらしかった。

 二人は防寒用のビニールシートのすぐ内側、歩道に背を向ける席に並んで座っていた。莉央は落ち着かない様子で、何度も店の入り口へ目を向けている。

 やがて、こちらへ歩いてくる二人の姿が見えた。

「席、取っときましたよ。桜井先生、有名人だから、普段はこんなとこで飲まないでしょ?」

 莉央が顔を上げ、桜井に声をかけた。

「案外、そうでもないねん。こういう店のほうが、気ぃ使わんでええしな。ホッピー飲める店やったら、むしろ嬉しいくらいやわ」

 桜井は気取る様子もなく答えた。

 リサと桜井は促されるまま、二人の向かいに腰を下ろした。

 奥側の席は、ビニールシート越しに吹き込む風が届きにくく、比較的暖かい。年長者である桜井に奥を譲ったのだ。

 桜井は椅子に落ち着くと、莉央の膝に掛かった蓮のジャケットに目を留めた。

「……なんや、蓮。えらい寒そうな格好になっとるやないか」

「そうですか? 案外、平気ですよ」

「ほう。そうかいな」

 桜井は意味ありげに口元を緩めたが、それ以上は何も言わなかった。

 桜井は椅子に腰を下ろすと、メニューを手に取った。

「ほな、まずは乾杯やな。今日はリサもよう頑張ったし、蓮も莉央もご苦労さん。細かい話は飲みながらでええやろ」

「桜井先生は何をお飲みになりますか? リサちゃんも」

 蓮がメニューを開いてそれを桜井に見せる。この辺りは体育会系でしっかり仕込まれてる。

「せやな。ホッピーと、あと何や。とりあえず、食べたいもん頼み。今日はワシが持つからな」

「ごちそうさまです」

 莉央がすかさず言うと、桜井は豪快に笑った。

「ちゃっかりしとるなあ!」

 蓮も笑いながらメニューをのぞき込む。莉央の膝には、相変わらず彼のネイビーのジャケットが掛かっていた。

 冷たい夜風の吹く店先で、四人の祝勝会が始まった。

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