おまけ 桜井孔明、若者と飲み会する
四人は、それぞれの飲み物を手に取った。
蓮はハイボール、莉央は焼酎のロック。リサは見かけによらず大きな生ビールのジョッキを注文していた。桜井はホッピーのグラスに焼酎を注ぎ、慣れた手つきで軽くかき混ぜる。
「ほな、今日はお疲れさん。リサもよう頑張ったし、莉央も蓮も助かったわ。乾杯!」
「乾杯!」
四人のグラスがテーブルの上でぶつかり合った。
蓮は、相手のグラスよりわずかに低い位置に自分のグラスを当てていた。上下関係のある場での振る舞いが、すっかり身についているらしい。莉央はそんなことをまるで気にせず、焼酎をひと口飲んだ。
蓮はハイボールをあおる。ビールと違って蒸留酒ならいくら飲んでも二日酔いにならない――そんな妙な持論を、彼はかなり本気で信じていた。
リサは大きなジョッキを両手で持ち、豪快に生ビールを飲んだ。普段の上品な佇まいからは想像しにくい飲みっぷりだった。
「それにしても、莉央にはこのところ助けられてばっかりやな。モンスターチェスのAIの件から、弟子のストーカー騒ぎまで」
桜井はホッピーをひと口飲み、しみじみとした口調で言った。
「私も、先生には亡霊騒ぎでご迷惑をおかけしましたから」
莉央がそう返すと、リサが不思議そうに首を傾げた。
「亡霊騒ぎって、何のことなんですか? さっきのトークショーで話してたやつです。ネットに死んだ棋士の亡霊が現れて、その亡霊に桜井先生が呪われて交通事故に遭った、っていう話」
リサは桜井の顔を見た。
「……あれ、本当の話だったんですか?」
「いや、そこはまあ、話半分に聞いといてええねん」
桜井はさらりと受け流した。
もちろん、亡霊騒ぎそのものが冗談で片づけられるほど単純なものではなかった。莉央と蓮は、その一件のまっただ中にいた当事者だ。少なくとも桜井が事故に遭ったことも、その前後に妙な出来事が重なったことも、二人はよく知っている。
「え? 霊媒師って俺ですか?」
蓮がハイボールのグラスを置いて尋ねた。
「そうや」
桜井は即答した。
「姪っ子は私?」
今度は莉央が尋ねる。
「そうや」
こちらも短かった。
莉央は桜井をじっと見つめた。
「え、桜井先生。さっきのトークショーで、いったいどんな話をしたんですか?」
「悪霊に祟られて事故に遭ったら、姪っ子に霊媒師の彼氏を紹介されて、除霊してもらったって話」
桜井が答えるより先に、リサが口を開いた。
「それで、自分は霊とかオカルトなんて一切信じてないのに、姪っ子がすっかりスピリチュアルにハマってしまって悲しい、悪い彼氏に騙されてるんちゃうか、みたいなことを言ってました。めっちゃ会場の笑いを取ってましたよ」
「いろいろオブラートに包んだ結果、まったく別の漫談になっちゃってるじゃないですか」
蓮がとうとう吹き出した。
抗議する様子はまるでなかった。むしろ、桜井に悪い男呼ばわりされたことさえ面白がっているようだった。
「蓮は悪い男じゃないですよ。スピなだけで」
莉央がすかさずフォローを入れる。
もっとも、普段から不思議な話を面白がり、妙な縁や偶然を気にすることがあるのは、むしろ莉央のほうだった。そこはきれいに棚に上げている。
「スピ? あちゃー、気ぃ悪いなあ。そもそも、氣いうのはな……」
「米のほうの氣でしょ?」
蓮が何か言いかけたところへ、莉央が間髪入れずに返した。
そのやり取りを、リサと桜井はよく分からないという顔で見守っていた。
「……まあいいや。とにかく、俺は霊媒師でもスピでもないですよ」
「そして、私は姪っ子じゃない」
蓮と莉央が、ほとんど同時に桜井の説明を訂正した。
「え? 姪っ子じゃないんですか?」
リサは目を丸くした。
てっきり、莉央は桜井の親戚なのだと思っていた。トークショーでもそういう話だったし、桜井自身が姪っ子と呼んでいたのだから、疑う余地もなかった。
「莉央、話しても大丈夫なんか?」
桜井が、念のために尋ねた。
「あー、大丈夫、だと思いますけど……」
莉央は少し考えてから、念を押すように言った。
「ただ、話し方を間違えて暗い雰囲気になったら、桜井先生がちゃんとフォローして明るくしてくださいね」
「まかしとき」
桜井は胸を叩いた。
「いやあ。それなら、めっちゃ暗い話にしちゃおうかなぁ」
莉央が冗談めかして言うと、蓮がすかさず口を挟んだ。
「おいおい、気ぃ悪くなるぞー」
例の「氣」の話を引っ張っているらしい。莉央はそれを無視して、リサへ向き直った。
「実は、亡霊騒ぎのあった聖川広司って棋士は、私の父なんですよ」
「えっ……?」
リサの表情が固まった。
「ってことは、もしかして、リョウちゃん? 聖川先生が亡くなられたとき、一緒に事故に巻き込まれたって聞いたけど……」
思いがけない名前が、リサの口からこぼれた。
リョウちゃん。
そう呼ぶからには、二人は以前から面識があったのだろう。同い年で、幼いころから将棋を指していたのなら、将棋会館で顔を合わせる機会も少なくなかったはずだ。
「そう。その事故で、三年分くらい記憶が飛んでるのよね」
莉央は焼酎のグラスを指先で回しながら、淡々と話した。
「小学生名人戦の決勝で藤原君に完敗したあたりから、記憶がないの。だから、リサさんと面識があったとしても、マジで覚えてない。いや、悪いのはあの悪霊なのよ」
悪霊とは自分の父親の事だ。
「えーっ! 仲良かったんですよ」
リサは思わず身を乗り出した。
「奨励会と研修会で所属先は違ったけど、将棋会館でよく会ってたから。将棋を教えてもらったり、一緒にお弁当を食べたりして……」
そこまで話して、リサは少し寂しそうに笑った。
「でも、私もリョウちゃんの雰囲気が変わりすぎて、気づかなかったから。お互いさまか」
懐かしい友人との再会だと思ったら、相手は自分のことを覚えていなかった。
それはやはり、少し残念だった。
莉央はそんなリサの表情を見て、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ごめんなさい。覚えてないのは本当に申し訳ないんだけど……」
「ううん。莉央ちゃんが悪いわけじゃないから」
リサは首を振った。
「それに、こうしてまた会えたんだしね」
そう言って、リサはジョッキを持ち上げた。
「改めて、乾杯しよっか」
「せやな。湿っぽい話はここまでや。せっかくの祝勝会やねんから、楽しく飲もうや!」
桜井が明るい声で応じる。
四人は再びグラスを掲げた。今度は、誰もグラスの高さなど気にしなかった。
酒が進むにつれて、テーブルの上のグラスが次々と空いていった。
桜井はホッピーの中も外も順調におかわりし、蓮はハイボールを水でも飲むような勢いで空けている。リサも大ジョッキの生ビールを飲み干し、いつの間にか緑茶ハイに切り替えていた。見かけによらず、かなりの酒好きらしい。
一方、莉央は相変わらず焼酎のロックをちびちびと飲んでいた。頬にはうっすらと赤みが差している。どうやら、あまり酒に強いほうではないようだ。
蓮は酒が入っても、顔色も口調もほとんど変わらなかった。
「桜井先生、次どうします?」
桜井のグラスが空になれば、蓮がさりげなく尋ねる。リサの飲み物がなくなったときも同じだった。注文が決まれば、よく通る声で店員を呼ぶ。瓶ビールを注ぐ際には、ラベルを上に向けるのも忘れないタイプの人間だった。
今どきの大学生にしては、ずいぶん飲み会慣れしている。
それだけではなかった。蓮は時折、隣の莉央の様子をうかがっていた。
「莉央、トイレ大丈夫か?」
「んー……。行っとく」
「了解」
蓮はすぐに立ち上がり、莉央の車椅子を引いた。店から歩いて三十秒ほどの場所にある公園まで連れていく。そこには車椅子でも利用できるトイレがあった。
店を選ぶ段階から、こうしたことまで考えていたのだろう。飲み会の最中も、誰かに頼まれる前に必要なことを察して動く。大柄な体格に似合わず、細かなところまでよく気がつく男だった。
その様子を見ていた桜井は、感心したように何度もうなずいていた。
「蓮ちゃんは、今どきの若者らしゅうないなあ。ほんま、気ぃ利くし、助かるわ」
いつの間にか、桜井の中では「霊媒師」から「蓮ちゃん」へと呼び方が変わっていた。
「まあ、部活が体育会系の縦社会ですから」
戻ってきた蓮は、照れるでもなく答えた。
レスリング部では、先輩後輩の関係も厳しい。競技の練習だけでなく、こうした場での振る舞いも、先輩たちから自然と仕込まれていたのだろう。
「なるほどなあ。そら、身につくわけや」
桜井は納得したように言い、それから蓮の顔をまっすぐ見た。
「蓮ちゃん。ウチの姪っ子のこと、これからも大事にしたってな。頼むで、ほんまに」
「もちろんです。姪っ子さんを一生大切にします」
蓮は、思いのほか真剣な顔で答えた。
「ぶっ……!」
隣で焼酎を飲んでいた莉央が、盛大にむせた。
まるで、娘さんを僕にくださいと父親に頭を下げる場面そのものではないか。しかも、相手は自分の彼氏で、話の中心にいるのは自分だ。
「な、何言ってんのよ、蓮!」
莉央は咳き込みながら、蓮の大きな背中を平手でバシバシと叩いた。
「いや、桜井先生に頼まれたから」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「大切にするって言っただけだぞ?」
「一生?」
「一生」
蓮はどこ吹く風だった。莉央が照れているのを分かっていて、わざと真面目に答えたのかもしれない。
そのやり取りを眺めていたリサが、くすくすと笑った。
「それにしても、桜井先生は莉央のこと、相変わらず姪っ子って呼んでるんですね」
いつの間にか、リサと莉央の間でも「さん」付けはなくなっていた。昔の知り合いだったと分かったことで、自然と距離が縮まったらしい。
「そら、兄弟子の子どもやろ? 赤ん坊の頃から知っとるし、姪っ子みたいなもんや」
桜井は当たり前のことのように答えた。
「広司さんは、最後のほうはあんなふうに身を滅ぼしてしもうたけどな。若い頃は面倒見のええ兄貴分やったんや。莉央ちゃんは、聞きとうない話かもしれへんけど」
「大丈夫ですよ。もう子どもじゃないんで」
莉央は、落ち着いた口調で答えた。
父親の話を聞くことに、抵抗がまったくないわけではない。それでも、例の亡霊騒ぎを経て、父親に対する気持ちにはある程度の整理がついていた。
聖川広司は、身勝手な男だった。
家では暴力を振るい、娘を傷つけた。そして最後には、莉央を道連れにするかのようにトラックへ突っ込んだ。莉央は父親の無理心中によって、身体の一部だけでなく、心の一部まで奪われたのだ。
それでも、憎しみを抱き続けることだけが、父親との関係ではない。
亡霊騒ぎを通じて、莉央はようやく、聖川広司を自分の過去の一部として受け止められるようになっていた。
「ワシは中学三年でプロ入りしとるやろ? 広司さんも三段リーグを抜けるんが早うて、高校生でプロ入りしとる。せやから、広司さんはワシより二期先輩なんや」
桜井は、懐かしいものを思い出すように目を細めた。
「その頃は、ほんまによう面倒を見てもろた。それこそ、酒の飲み方まで広司さんに教わったんや。ワシ、中学入る頃に家を出て、師匠の家に内弟子として転がり込んどったからな。その頃から、ずいぶん可愛がってもろたんや」
桜井はグラスを傾け、少しだけ遠くを見るような目をした。
「せやから、嫌いにはなれへんねん」
それから、いつもの調子を取り戻したように口元を緩める。
「まあ、広司さんの悪口はぎょうさん言うけどな。祟られるくらいには」
そう言って、桜井は笑った。
「私は大嫌いですけどね」
莉央も笑いながら答えた。
その言葉に、恨みをぶつけるような響きはなかった。父親を好きになれと言われても、無理なものは無理だ。それでも、もう憎しみに囚われてはいない。
桜井はそんな莉央の顔を見て、ふっと笑った。
「せやかて、棋風は広司さんそっくりやんけ」
「え?」
リサが不思議そうに顔を上げた。
「子どもの頃は、全然似てなかったですよ。リョウちゃんと聖川先生。リョウちゃんは、もっとこう桜井先生好みの将棋だったと思います」
莉央は、しばらく考えてから肩をすくめた。
「それだけ無理してたってことじゃない?」
記憶のない三年間の自分を、まるで他人の話でもするように振り返る。
その三年間、莉央の中には「リョウ」と呼ばれる別の人格がいた。父親からの虐待によって生まれた、もう一人の自分。あの頃の記憶は、莉央自身にもほとんど残っていない。
そのことを知っているのは、今のところ蓮だけだった
「へえ……」
リサはそれ以上、深く尋ねなかった。昔の莉央と今の莉央。その違いには、本人にしか分からない事情があるのだろう。
少し間を置いて、リサが顔を上げた。
「ねえ、莉央。久しぶりに一局指したいな」
酒の席でも将棋の話が出てくるあたり、やはり好きなのだろう。
「いいね。これが私のアカウントだから、今度声かけてよ」
莉央はスマートフォンを取り出し、ネット将棋のマイページを開いて見せた。
画面には、アカウント名が表示されている。@Tokinchan。
「え? レーティング、二七六九?」
画面をのぞき込んだリサが、目を見開いた。
アマチュアなら七段相当ともいえる数字だ。事故で三年分の記憶を失ったとはいえ、事故の直前には奨励会初段程度の実力を示していた。そこから現在まで、趣味として将棋を指し続けてきたのだろう。
「この人、暇なときはずっと将棋指してるから」
蓮が、当たり前のように言った。
この三年間、莉央の暇つぶしといえば、ネット将棋か詰将棋だった。蓮も隣で何度となく対局を眺めてきた。自分も覚えれば一緒に楽しめるかと思ったが、残念ながら将棋は思ったほど簡単ではなかった。
「早指しも多いから、あんまりアテにならないけどね」
莉央はそう付け加えた。
「リサ。莉央ちゃんは強いで。棋風は広司さんそっくりで、チャラチャラしとうけどな」
桜井は、テーブルに置いたホッピーのグラスを傾けながら笑った。
ネット将棋のサイトでは、桜井と莉央はすでにフレンド登録を済ませている。過去に一度だけ直接対局したこともあれば、莉央のアカウント「Tokinchan」の棋譜を何局か並べてみたこともあった。
その感想を一言で表すなら、型破り。父親の聖川広司を思わせる大胆さと、どこからそんな手を思いつくのかと首をひねりたくなるような奇抜さが同居している。
「上等な料理にハチミツぶちまけるがごとき棋風や」
「範馬勇次郎か!」
桜井の言葉に、蓮が即座にツッコミを入れた。
もっとも、漫画のネタが通じたのは男二人だけだった。莉央とリサは顔を見合わせたものの、何がおかしいのか分からず、そろって首をかしげる。
「……何の話?」
「いや、漫画の話」
蓮は苦笑して、手元のハイボールを口に運んだ。
「まあ、冗談はさておき。ワシは、あの伸び伸びした指し方はええと思うで。亡霊騒ぎのときに、Tokinchanの棋譜を藤原先生と一緒に見た感想やけどな」
「えっ。藤原先生にも見られたんですか? 恥ずかしすぎる……」
莉央は思わず顔をしかめた。プロ棋士、それも第一線で活躍する藤原に、自分のネット将棋を見られていたとは。別に悪いことをしているわけではないが、普段の対局を覗かれたような気恥ずかしさがある。
「藤原先生はな、莉央ちゃんやのうて、広司さんの隠し子ちゃうかって言うとったで」
「確かに、当時と棋風が違いますからね。私だって、今の棋譜だけ見せられたら分からないかもしれません」
莉央は苦笑した。
かつての自分は、父親に教え込まれた定跡を忠実に守り、隙のない将棋を指していた。聖川広司は自分とは真逆の将棋を娘に教え込んでいた。けれど、今の将棋は、もっと自由だ。勝つための手段を探すことそのものを楽しんでいる。
その変化が、聖川の棋風を知る人間には、かえって血のつながりを感じさせるらしい。
「せやけど、せっかく二人とも将棋が好きなんやったら、ネットだけやのうて、ちゃんと盤と駒を挟んで指した方がええな」
桜井は、今度はリサの方を向いた。
「今度、二人でさっきのイベント会場の隣のカフェにでも行って、将棋指したらええ。リサにとっても勉強になると思うで。莉央ちゃん、先手七八金型の天守閣囲いみたいな、誰もやらんようなマイナー戦法まで指すからな」
「誰もやらないって……。そんなに変ですか?」
「変やろ。普通、そないなところから攻めようと思わへんて」
「でも、対ノーマル振り飛車なら、ちゃんと狙いのある急戦ですよ。四間飛車でも三間飛車でも向かい飛車でも、相手の形によっては十分戦えます」
莉央は、少しだけ得意げに説明した。
天守閣囲いは、もともと守りを固めるための囲いとして知られている。その七八金型を採用する構想は、囲いの堅さだけを頼みにするのではなく、攻撃力を重視して急戦を仕掛けるものだ。相手がノーマル振り飛車を選んだときに、意表を突きながら主導権を握ろうとする。
もちろん、どんな相手にも通用する万能戦法ではない。相手の対応次第では、こちらの陣形の偏りが弱点にもなる。だからこそ、使いどころを見極める必要があるのだ。
「ほら、そういうとこやねん。普通は『珍しい戦法ですね』で終わるところを、莉央ちゃんは急に講義を始めるんやから」
「桜井先生が話を振ったんでしょう」
「せやったかな?」
「そうですよ」
莉央が即答すると、リサが声を立てて笑った。
「でも、面白そう。私、そういう変わった戦法はあまり指さないから、一度教えてほしいな」
「教えるってほどのものでもないですけど。対局しながらなら」
「よっしゃ、決まりやな。二人とも、今度ちゃんと盤を挟んで指しや」
桜井は満足そうにうなずいた。
「もちろん、なんでも指せるわけじゃないですよ。間宮久夢流とかは無理です」
「……なんや、その物騒な名前は」
桜井が眉をひそめると、莉央は何でもないことのように答えた。
「初手から入玉を狙う戦法です。間宮純一六段が考案した、昔の奇策ですね」
「初手から敵陣に入るんか? 将棋の話やんな?」
「将棋の話ですよ」
「いや、分かっとるわ。せやけど、初手から入玉って……」
桜井は言葉を切り、しばらく考え込んだ。
「広司さんでも、そないな将棋は指さんかったと思うで」
「父なら、面白がって一度くらい試したかもしれませんね」
莉央がさらりと言うと、桜井は吹き出した。
「それはあるなあ。あの人、そういう無茶苦茶なこと、平気でやりよるからな」
懐かしそうに笑う桜井を見て、莉央もつられて微笑んだ。
将棋の話をしていると、父親のことも自然と話題に上る。以前なら、そこに苦い感情が入り込んでいたかもしれない。今はただ、将棋盤を囲んでいた一人の棋士として、少し離れた場所から思い出すことができた。
「まあ、間宮久夢流は置いといて。莉央ちゃんの変な将棋でうちの弟子を勉強させたってくれ」
「変な将棋って言わないでください」
「ほな、独創的な将棋や」
「それなら、まあ」
莉央が渋々うなずいた。




