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パックス・トヨトミ~または豊臣秀次は如何にして粛清を心配するのを止めて海軍を愛するようになったか~  作者: 甲殻類


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9/10

ファシズムはサンバのリズムに乗って

 膨大な犠牲者を出した第一次世界大戦が終わり、戦勝国が集まって戦後世界のあり方を協議したのがパリ講和会議である。

 対独平和条約がヴェルサイユ宮殿の鏡の間で調印されたことからヴェルサイユ条約という呼び名が定着している。

 しかし、実務者協議が行われたのはパリのフランス外務省だった。

 講和会議において、日本は英仏伊にならぶ四巨頭として遇された。

 その四巨頭の座に平民から初めて首相にのぼった原敬が座った。

 原内閣は外務大臣や陸海軍大臣以外の閣僚を党人から選んだ日本初の本格的な政党内閣で、世論から大きな期待を寄せられていた。

 原首相は外務官僚として頭角を現した後、政界に転出したという来歴があり、イギリスのデビッド・ロイド・ジョージ首相やフランスのジョルジュ・クレマンソー首相とも旧知の関係にあった。

 そのため、英仏が対立する場面で、原首相が調停を行うことがしばしば生じた。

 後に原は講和会議を振り返って、世界の王になったような気分だったと振り返っている。

 しかし、そんな原首相もオブザーバーとして参加したアメリカ合衆国のウッドロウ・ウィルソン大統領には手を焼かされた。

 第一次世界大戦に参戦しなかったアメリカ合衆国には、講和会議に参加する資格はないのだが、膨大な戦債(戦時債務)を梃子にオブザーバーとして会議に乗り込んできた。

 確かにウィルソン大統領の発表した「十四か条の平和原則」はドイツから歓迎され、ロンドンやパリでもウィルソン大統領は公正な平和の使者として歓迎された。

 ただし、戦勝国からするとウィルソンのやっていることは戦債をたてに言いたい放題で会議を引っ掻き回しただけだった。

 最終的にウィルソンはスペイン風邪に感染して帰国しており、国際連盟の設置以外は何ら具体的な成果を挙げられなかった。

 そして、自分が提唱した国際連盟にも加盟しなかった。

 実際のところ、合衆国の政財界が気にしていたのは戦後世界のあり方ではなく、戦債の返済だけだった。

 英仏が戦債の返済原資としてドイツに課した賠償金は、当初は2,260億金マルクだった。

 その後、1921年のロンドン会議で正式に決定した金額は、1,320億金マルクとなった。

 どちらにせよ、この金額はドイツの支払い能力を完全に無視したものだった。

 全権代表団として非現実的な賠償額の算定に参加した高橋是清は結果として世界の平和を損ねることになった賠償金の算定に関わったことを後に後悔している。

 原首相もこの数字に現実はないと理解していたが、国土を戦場にされたフランスとしてはドイツへの復讐は譲れないレッドラインだった。

 また、日本も多額の戦債を抱えており、その返済に関心がないわけではなかった。

 日本は戦債の一部を放棄することで、英仏によるオスマン・トルコ帝国分割に一枚噛み、委任統治領としてイラクの一部を確保した。

 日本が確保した領域は後にクェートとして独立し、日本にとって重要な石油供給国となっている。

 当時の中東は油田地帯ではなかったので、この取引は大枚はたいて砂場を買ったと酷評された。しかし、現在は英断だったとされている。

 講和会議ではポーランド独立やロシア問題も協議されたが、ロシアは内戦中であるため継続協議となった。

 ヴァイマル・ドイツは連合国が提示した巨額の賠償金や一方的な軍備制限、領土の削減に愕然としたが、既に軍の継戦能力が尽きていたため受け入れも已む無しとなった。

 原は過酷な講和によってドイツが不安定化して、ロシアのような共産主義革命が起きるのではないかと懸念した。

 しかし、日本国内は欧州から帰国した兵士が持ち帰ったスペイン風邪が大流行してドイツの心配どころではなくなってしまった。

 20世紀初頭の日本で発生したパンデミックは、社会に甚大な被害を与えた。

 死亡者数は150万人に達し、日本の公衆医療制度は崩壊した。

 これは第一次世界大戦の日本軍の死亡者数の15倍であり、政財界の著名人も多くが病に倒れることになった。

 原自身もスペイン風邪で命を落としている。

 大公豊臣家では豊臣秀頼が急死し、継承権をもつ者が死亡するかウイルス性脳障害を負って再起不能になるなど、宗家が壊滅状態となった。

 そこで急遽に擁立されたのが、当時18歳の豊臣秀美である。

 秀美は母がイギリス人のハウスメイドで秀頼の手がついた私生児であったことから家督継承とは無縁の立場だった。

 帝国主義全盛期だった1910年代の日本では、富裕層は瀟洒な洋館に構えて、ヴィクトリア風のメイドを侍らせることが一種のステータスとなっていた。

 名古屋だけで10万人のメイドが職業登録されていた時代があったのである。

 スペイン風邪で後継者が不在となった豊臣家は、結婚して男児を産むまでの代役として女当主も已む無しとなった。

 ちなみに家督継承を知らされた時、秀美は名古屋市内の弁当屋で働いていた。

 届けられた電報を見た秀美は何かの間違いだと確信して、さしみ弁当にたんぽぽを載せる作業に戻ったという逸話がある。

 ちなみに日本ではなぜか良家令嬢の髪型は金髪縦ロールという思い込みが存在する。

 これは豊臣秀美が初登場で、マスコミの前に姿を現した秀美は日本の世論に鮮烈極まる印象を残すことになった。

 金髪なのは元からだったが、縦ロールにしたのは少しでも高貴な身分に見えることを狙った後付設定である。

 あとから高貴な身分と縦ロールは特に関係がないことを本人は知るのだが、それこそ本当にあとの祭りだった。

 なお、秀美の大公就任は臨時的な、例外的な措置であり、それまで豊臣家が担ってきた超法的な政治調整機能は期待されていなかった。

 マスコミや世論もまた政党政治の成長と護憲運動を支持し、豊臣家の閨閥政治を終わらせることを社会的な正義としていた。

 実際、秀頼は政党政治家の原敬を信任し、政党政治の発展によって豊臣家は歴史的使命を終えたものと考えていた。

 一家が動かすには、日本という国家は巨大になりすぎていた。

 中京遷都後は、特にその傾向が強まっていた。

 豊臣家の家督を継承した秀美も同じ考えで、当初は国政から距離をおいて慈善活動や奉仕活動に専念していた。

 秀美が行った三密回避といった防疫対策も慈善活動の中から生まれたものだった。

 三密回避とは、三密(密閉・密集・密接)を避けることであり、極めて単純ながらも空気・飛沫感染するスペイン風邪対策としては理にかなったものだった。

 大公秀美が画期的だったのは、そうした対策をラジオ放送で広く発信したことだった。

 ラジオ放送で、貴人が直接的に何かを訴えるということは、それ自体が一大センセーショナルだった。

 ラジオ放送は当時の最新の大量情報発信手段であり、貴人がそのようなものに直接触れるのはある種のタブーでさえあった。

 前の大公秀頼は、邸宅に一切の電話回線を引かせなかったほどである。

 ラジオ放送局も秀美から協力を打診された際に後難を恐れて謝絶したほどだった。

 そのため、秀美は放送局を丸ごと買収して、名古屋城内に自分専用のスタジオを作ってラジオ放送を行った。

 これは当時の貴人の行動としては著しく理非を欠いていたことから、最終的に秀美は婚約破棄(婚約期間半年)されるという前代未聞の事態へと発展した。

 日本の高家令嬢を扱った創作物で、悪事を働いた令嬢が婚約破棄されるというテンプレートの元ネタはここにある。

 なお、平民的常識しか備えていない本人は婚約破棄された理由が理解できず、


「私、なにかしちゃいましたか?」


 という、これもまた後の創作物でテンプレートとなる迷言を残している。

 平均的な上流階級の常識に基づいて婚約破棄を言い渡した近衛家の御曹司は後に自分の判断を死ぬほど呪うことになった。

 当時の日本ではスペイン風邪そのものに対する知見が全く不足しており、それまでの防疫対策は殆ど民間療法レベルだった。

 そのため、正しい対策を繰り返しラジオで発信することは大きな意義があった。

 ラジオ放送で直接、国民に語りかけるというスタイルを編み出した秀美は、まさにメディアを駆使した近代的な『指導者』の先駆けであった。

 これは余談だが、日本で初めて松平サンバをラジオで放送したのは大公秀美である。

 大公のような貴人が人前でサンバを歌うというのは当時としては極めて異例なことだった。

 秀美が急に松平サンバを歌い出したのは、婚約破棄されて自棄になっていたという説が有力である。

 しかし、野放図なまでに明るい松平サンバは大戦争や疫病で暗く沈んだ当時の世相を明るく励ますこととなりレコードが1,000万枚も売れる社会現象となった。

 ちなみにイタリア語版をムッソリーニがファシスト党の集会で好んで歌っていたことは広く知られている。

 それはさておき、私財を投じて防疫資材のマスクやアルコール消毒液を大量配布するなど、秀美はスペイン風邪対策に尽力した。

 秀美の主導した感染症対策によって目に見えて死亡者が減少に転じたことから、大公の奇跡として保守派を中心に大公主義と呼ばれる政治勢力が生じることになる。

 当初はサンバを踊る色物集団とされた大公主義が世論の支持を集めていったのは、愛知・名古屋大震災での対応も大きかった。

 1923年9月1日に発生した愛知・名古屋大震災によって、豊臣秀次が築いた愛知時代の古い町並みは殆ど姿を消すことになった。

 ただし、秀次公が築いた一町道路といった巨大な防火帯の設置により、火災による被害は地震が発生した時間帯を考えると少なくて済んだと考えられている。

 それでも沿岸部は20m級の津波の直撃を受けて壊滅状態となった。

 横須賀では建造中だった巡洋戦艦天城が船台から落下して再起不能になるといった甚大な被害が生じた。

 大公秀美は震災発生直後から名古屋の私邸(名古屋城)を解放して被災者を収容した他、私軍を展開して救護活動にあたらせた。

 戦国末期に築城された名古屋城は、戦闘要塞として10万人を収容できる規模があり、避難所としては最適だった。

 また、伝統的な理由から城警備は豊臣家に仕える七手組が行う習わしとなっており、1920年代であっても約3,500名が城詰めとして名古屋城の維持管理・豊臣家の身辺警護を担っていた。

 名古屋では警察や消防といった一般的な行政システムが震災によって崩壊しており、救護活動をしているのは豊臣家の七手組だけという状況が生じた。

 事実上、豊臣家の軍勢が名古屋を掌握していたと言える。

 当時の名古屋は情報の混乱から著しく治安が悪化しており、七手組が出動しなければ無軌道な暴力事件に発展していた可能性があった。

 大公秀美の果断な決断がなければ、名古屋がどうなっていたか分からない状況であったから、警察や消防、軍部にとっては面子丸つぶれである。

 軍部はあとから私軍が戒厳令の真似事をするのは如何なものかと苦言を呈したが、世論は概ね豊臣家の行動を支持することになった。

 元々、帝国の今日を築き上げたのは豊臣家という意識は、うっすらと社会の根底にあり、時代の移り変わりの中で実権を失ったとしても危急の際には頼りになると考える人は多かった。

 ただし、大公秀美は世論の支持が豊臣家に集中して、個人崇拝のような状態になることは好ましくないと考えていた。

 母親がイギリス人だった秀美は、イギリス流の立憲君主制や政党政治が日本の進むべき道と考えており、豊臣家の独裁復活には否定的だった。

 それでも、国民のために断固とした行動が必要な場合は、そうするしかないというのが秀美の政治姿勢で、その場合は政府との対決も厭わなかった。

 愛知・名古屋大震災後の名古屋復興計画はまさに大公豊臣家と中京政府との対決であり、国民の意見を大公秀美が代弁することになった。

 政府与党が策定した名古屋復興計画は、7億円の復興公債を発行して必要最低限の範囲内で復興事業を行って、公債は所得税に復興増税を行って償還するというものだった。

 政府、特に大蔵省は政府支出を削減したいという強い意向があり、復興事業の規模縮小を画策して代議士にロビイングを行っていた。

 ”ご説明”を受けた代議士からは、7億円でも多すぎるという意見が出ることになり、復興事業を予算委員会で精査するべきとされた。

 大蔵省が政府支出削減に熱心だったのは、金本位制への復帰が念頭にあった。

 第一次世界大戦において膨大な戦費支出のために各国は金本位制を停止していたが、あくまで停止であり、将来は金本位制に復帰することが前提だった。

 そのためには戦時中に発行した大量の不換紙幣を回収して、通貨の量を金本位制時代と同程度に戻す必要があった。

 一応、通貨量はそのままで金と通貨の交換レート(平価)を変更することで対応することも可能だったが、大蔵省は旧平価の金本位制の復帰を目指していた。

 つまり、増税による通貨の回収と支出の削減のあわせ技で戦時国債の償還(通貨減少)を行うこととなるので、論理的な帰結としてデフレーションが発生する。

 戦時中のインフレを帳消しにするためのデフレーション政策は、同時期のイギリスやフランス、アメリカでも行われており、戦後不況を引き起こした。

 世論は戦争特需が終わったことで不景気になったと考えていたが、実際は緊縮財政で発生した人為的なものである。

 ちなみに金本位制に戻す意味は特になかった。

 通貨価値の安定といった理屈は存在したが、そのために経済全体を戦前レベルまで緊縮財政によって痛めつけて縮小することは財政のために国民生活を破壊する行為であり、本末転倒としか言いようがない。

 各国でこれに対抗して国民の生活向上を目的した通貨政策を獲得しようとするポピュリズム運動が発展することになる。

 ポピュリズム運動は、まず既得権益層への反発という形から始まった。

 長い歴史がある金本位制こそが最良という意識は政財界のエリートに強く根付いていたからである。

 高等教育を受けた優秀な頭脳を使って、特に根拠がない金本位制度の理論的な正しさを捏造することさえしばしば行われたほどだった。

 大公秀美が、財務官僚の”ご説明”に全く同意しなかった理由も同じである。

 中京の財務官僚は中卒で働きにでた弁当屋の小娘を露骨に見下す態度をとらないように細心の注意を払って、バカにでも分かる丁寧さで経済学の基礎の説明をした。

 だが、それが逆に大公秀美の逆鱗に触れた。

 エリート官僚達が素人の経済学と蔑んだ日本のポピュリズム運動の先端に立ったのが大公豊臣秀美だったのは、そのような背景がある。

 ヨーロッパにおいて先頭に立ったのは、美大落ちのオーストリア人となる。

 経済歴史学を展開した葵九雀は、この二人をコインの裏表と表現した。

 チョビ髭の中年男性と金髪縦ロールのご令嬢が裏表に刻印されたコインというものがあるのなら是非にお目にかかりたいものであるが、ポピュリズム運動はこの二人を国家の中心に押し上げることになった。

 その原動力となったのが、世論と軍部の支持だった。

 決してサンバのリズムではない。

 葵九雀はポピュリズム運動と軍国主義との親和がナチズムや大公主義を拡大させたと指摘している。

 なぜなら軍部は常に仮想敵との競争に晒されており、競争に勝つために軍事費(歳出)の拡大を常に必要としているからである。

 これは積極財政を求めるポピュリズム運動との相性が良かった。

 よって大公秀美が帝都復興計画の拡大を主張した時、豊臣海軍との政治的な同盟を選択したのは殆ど必然だった。

 大公秀美は、震災で首都が壊滅し、国民が困窮しているときに行うべきことは減税であり、政府の復興事業では不足として50億円の復興試案を発表した。

 秀次公が築いた名古屋を再建するためなら豊臣家は出し惜しみはしないとして5億円を政府に寄付した。

 また、豊臣家として独自にロンドンで復興外債を発行して資金を集めて、さらに2億円を政府へ寄付している。

 国家予算規模の金をぽんと用意できるのが、豊臣家の恐ろしいところである。

 実際に一時期国家そのものだった時期があるのだから、できて当然という意見もある。

 また、金配りは豊臣家の流儀(トヨトミ・メッソド)としては初歩の初歩であり、300年近く日本という国家を支配してきた豊臣家の基本のきの字だった。

 豊臣家の動きに三井や安田といった財閥も同調した。

 名古屋復興はサンバのリズムに乗って国民運動となり、海外に広がる領土からも寄付金が集まった。

 大公秀美は、震災によって破損した巡洋戦艦天城の代艦建造費としてさらに1億円を寄付して海軍を味方につけ、政府に政策修正を迫った。

 震災復興にあたった海軍出身の山本権兵衛首相に古巣の要求を断ることは困難だった。

 ちなみに豊臣家の寄付で建造されることになった天城代艦が新戦艦高千穂となる。

 高千穂は35,000tの船体に、16インチ(40.6cm)4連装砲と連装砲を混載させた実験的な戦艦(合計10門)として完成した。

 なお、設計を行った平賀譲は、故障が多発した4連装砲の採用を強硬に主張したため海軍を追放されることになった。

 さらに余談だが、高千穂はその特徴的な外観と建造までの経緯から大公の戦艦として世界的に知名度が高く、大公秀美を乗艦させて太平洋一週の遠洋航海を実施したことがある。

 また海洋冒険小説の題材にもなり、1960年代には宇宙戦艦に改造されて銀河の果てまで航海することになった。


挿絵(By みてみん)


 さて、山本権兵衛内閣は当初の計画である7億円はそのままとしたが、世論と豊臣家の財力に圧されるかたちで第二次復興計画として13億円、第3次復興計画として減税財源を含む20億円の追加予算案を閣議決定することになった。

 帝国議会でも喧々諤々の議論はあったが、概ね追加予算案は原案どおりに可決されることになった。

 名古屋復興計画は最終的に55億円に拡大して、近代都市として名古屋を生まれ変わらせ、戦後不況とスペイン風邪に喘いでいた日本経済をV字回復させることになる。

 世論が豊国信仰を新たにし、サンバを踊り狂うことになったのは言うまでもないことだろう。

 さて、防火帯として使用されていた1町道路を活用して首都高速道路が建設されたのは1927年のことである。

 名古屋の道路交通網の急速整備によって日本は本格的なモータリゼーションの時代を迎えることになった。

 日本のモータリゼーションを主導したのは徳川自動車という評価もあるが、徳川自動車はあくまで自動車メーカーであって、自動車を走らせる道路行政を主導したのは国家の意思・決断であり、名古屋復興計画はその始まりだった。

 これは余談だが、徳川自動車の徳川とはまさに五大老の徳川家のことであり、創業者の徳川早人は徳川公爵家の御曹司である。

 早人はモータースポーツの熱狂的なファンだった。

 実家の金で輸入した自動車を自分で運転、改造して乗り回し、自分が出走するための自動車レース大会を開くために鈴鹿の山奥に実家の金でレース場をつくるというある種の狂人だった。

 あまりにも多額の金を浪費したため、親族会議によって自動車に関わる一切を自費で行うように言い渡され、仕方なく自動車会社を興したという経緯がある。

 なお、本人はレース以外のことは興味がない人間だったため、創業資金を確保したあとは経営の一切は地元の三河で出会った機織り屋の友人に委ね、技術については徳川家の旧領である遠州で見つけてきた天才技師に委ねた。

 この組み合わせは奇跡という他なく、徳川自動車を短期間で世界最大の自動車メーカーへと押し上げることになった。

 なお、売れる車をつくることを最優先する三河の経営者とレースで勝てない車に意味はないとする遠州の天才技師は性格が水と油で、顔をあわせると殺し合いが始まるほどお互いを憎んでいたが、早人を上様と呼んでそのカリスマには平服した。

 そのため、1955年に徳川早人がニトロ噴射装置の爆発事故で亡くなると徳川自動車は僅か半年後足らずで内部崩壊し、三河派と遠州派に分裂することになった。

 それはさておき、大公主義は日本の軍備計画にも大きな影響を及ぼした。

 1921年に開催されたワシントン海軍軍縮会議においては、主力艦(戦艦)の保有トン数を50万を上限として日英米で同率とする軍縮条約を結んだ。

 ワシントン海軍軍縮会議は、WWⅠの講和会議で結論が出なかった戦後の軍備管理、国家安全保障政策を検討する場だった。

 軍縮条約によって、豊臣海軍の八八艦隊計画は中止となった。

 八八艦隊計画とは、既存の出雲級(金剛級)戦艦15隻を次世代の40cm砲搭載戦艦(戦艦8隻・巡洋戦艦8隻)で置き換えるという海軍軍備の更新計画である。

 既存の出雲型(金剛型)15隻も近代化改修を施して、艦齢20年までは維持する方針だった。計画達成の暁には超弩級戦艦だけで31隻、弩級戦艦を含めた場合は38隻の戦艦を保有することとなり、英米海軍と同等かやや上回る戦艦戦隊を保有する見込みだった。

 同時期、アメリカ合衆国も豊臣海軍の拡張に対抗してダニエルズ・プランに基づき戦艦10隻、巡洋戦艦6隻の建造を進めた。

 日米の艦隊競争に大戦で疲弊したイギリスは付き合う余力がなく、軍縮条約によって現状を固定化しようとしたのがワシントン海軍軍縮会議となる。

 また、金本位制度への復帰を図る各国の財務当局にとっては、緊縮財政(歳出削減)を進めるためにも重要な会議だった。

 会議の焦点となったのは、アメリカ海軍の戦艦メリーランドと未完成状態の戦艦ウエストバージニアの取り扱いだった。

 どちらも16インチ(40.6cm)砲を搭載しており、日英は同級の艦砲を備えた戦艦を保有していなかった。

 これは第一次世界大戦により戦艦建造が後回しにされた影響だった。

 唯一参戦しなかったアメリカ合衆国は建艦競争で有利となっており、アメリカ海軍は質的優位を確保するため、ウエストバージニアを完成済みと言い張った。

 これに対して日英はウエストバージニアを未完成艦とし破棄を迫ったので会議は破談になりかけた。

 大戦で疲弊したイギリスにとって軍縮会議破談と建艦競争再開は致命的であったことから、アメリカ海軍のウエストバージニア保有を認めるしかなかった。

 しかし、交換条件で日英が2隻ずつ16インチ砲搭載戦艦の保有を認めることになった。

 この交換条件で建造されたのが豊臣海軍の天城級巡洋戦艦(天城、赤城)である。

 天城級よりも建造が進んでいた長門級や加賀級が廃艦となったのは、ユトランド沖海戦の戦訓反映が不十分だと判断されたためである。

 ただし、天城級はそのまま就役すると条約上限の35,000tを超過してしまうので装甲を減じる必要があり、16インチ砲対応防御を施すことができなかった

 実際にはそれでも条約上限を3,000t以上超過していたが、極限まで弾薬と燃料の定数を減らすことで対応した。

 なお、天城は前述のとおり愛知・名古屋大震災により破棄され、高千穂が代艦建造されたので、天城級で完成したのは赤城1隻のみである。

 前述の長門級と加賀級戦艦は破棄されることになった。

 ただし、長門級は標的艦として使用され水中弾効果の検証実験に用いられて有意データを齎した他、加賀級(加賀・土佐)は航空母艦に改装されることで生き延びた。

 新造戦艦を破棄するだけでも断腸の思いだったが弩級戦艦や前弩級戦艦も大量廃艦となり、その乗組員は海軍を去らざるをえず、豊臣海軍には怨嗟の声が渦巻いた。

 ちなみに軍縮条約を生き延びた戦艦は、


 ・呂宋級戦艦   1隻(呂宋)

 ・金剛級戦艦   7隻(金剛、霧島、榛名、比叡、雲仙、磐梯、浅間)

 ・出雲級戦艦   8隻(出雲、伊予、樺太、馬来、薩摩、丹後、三河、伊豆)

 ・天城級巡洋戦艦 1隻(赤城)

 ・高千穂級戦艦  1隻(高千穂)


 合計18隻となる。ただし、呂宋は途中で練習艦へと変更されたことから、戦力としてカウントできるのは17隻だった。

 ワシントン海軍軍縮会議では、カリブ海での緊張緩和も議論され、日米双方が要塞や軍港建設の禁止で折り合った。

 しかし、会議が終わると双方が建造禁止となった戦艦以外の艦種(補助艦)で優位を確保するため、再び建艦競争を始めた。

 これに慌てたイギリスが主催したのがロンドン海軍軍縮会議(1925年)となる。

 ただし、この会議は日米双方が譲らず破談に終わった。

 ワシントン海軍軍縮会議では妥協的だった豊臣海軍が強気に転じたのは大公秀美との政治同盟があってのことである。

 軍縮で煮え湯を飲まされた海軍としては、やっと話が分かる旧主が帰還したという思いだった。 

 議会に足場がなく、移ろいやすい世論の支持に依存していた秀美としても軍部の支持は極めて重要だった。

 金と武力で国を操るというのも豊臣家の流儀(トヨトミ・メソッド)の基本のきの字であり、大公秀美は豊臣家の申し子という他なかった。

 1920年後半の日米はどちらも積極財政や英仏から戦債返済によって資金が流入したことから好景気となり、軍事費も増加傾向だったことから補助艦の建艦競争は狂気に片足を突っ込んだ速度で進んだ。

 1920年代後半の日米海軍はカリブ海で艦隊決戦をして勝利することを希求することになり、どちらも海軍としてはかなり歪な方向へと向かっていたと言える。

 ただし、特型駆逐艦のような革新的な軍艦が産まれたのは、日米建艦競争があったからこそであり、必ずしも全てが誤りだったとは言えない。

 日米海軍が熱心に研究を進めた航空母艦についても、競争相手が存在したからこその発展であり、欧州に適当な競争相手を持つことができなかったイギリス海軍は少しずつ立ち遅れを見せることになる。

 ただし、イギリス海軍の名誉のために付け加えるとしたら、1930年代までイギリス海軍の海上航空技術は間違いなく世界の先端を走っており、空母の保有数でも日米を圧倒していた。

 豊臣海軍が7,000t級の鳳翔や米海軍が石炭運搬船を改造したラングレーを就役させて空母運用のノウハウを手探りで積み上げていた時に、空母3隻(アーガス、ハーミーズ、イーグル)を運用し、巡洋戦艦から改造したフューリアスのような大型空母まで持っていたのはイギリス海軍だけだった。

 豊臣海軍も加賀と土佐を航空母艦に改装する際に、英空母を見学して参考としている。

 ちなみにこの時、見学したのはイーグルとフューリアスだった。

 フューリアスは三段式飛行甲板をもつ新鋭艦という触れ込みだったが、建造の参考とされたのはイーグルの方だった。

 理由は、単純なものでイーグルが戦艦からの改装艦だったためである。フューリアスは特殊な巡洋戦艦からの改装艦だったことで参考外

 加賀と土佐はイーグルを参考に煙突と艦橋をまとめた島型艦橋や高さ6.2mの使い勝手に優れた単層式格納庫が採用され、アメリカ海軍の空母レキシントン・サラトガに並ぶ大型空母として完成することとなる。


挿絵(By みてみん)


 海軍航空の分野で日本がイギリスを逆転したのは1930年代後半からで、イギリス海軍の足が止まってしまったのは、世界大恐慌による経済の停滞が大きかった。

 1929年は、世界にとって運命が交錯した年だった。

 爆心地となったのは日本の大坂堂島金融街で、10月24日に名古屋復興計画による土地の収用から始まった不動産バブルが株価大暴落という形で崩壊した。

 24日だけで大坂のトレーダーが11人も投身自殺し、10月24日が木曜日だったことから暗黒の木曜日と呼ばれることになった。

 さらに、10月29日は悲劇の火曜日として記録されることになった。

 ニューヨークの株式市場が日本の経済後退予想に反応して投げ売り状態となり、半年間で株価が3分の1以下まで減少した。

 日米の金融当局はお互いに責任をなすりつけあったが、公平に見て日米どちらのバブルが先に弾けてもおかしくない状況だった。

 どちらも中央銀行もバブル潰しのために金利引き上げを行っており、実体経済は既に後退局面に入っていた。

 金融当局は、金利操作によって緩やかに市場の沈静化を図ったが、実際には金利引き上げのペースが早すぎた。

 世界大戦後、世界経済を牽引してきた日本とアメリカの経済が同時に信用崩壊を起こしたことは日本の広大な植民地ネットワークや戦債返済のために構築された国際金融システムを通じて全世界へ波及することになった。

 英仏では金本位制に復帰していたことから、信用不安によって金が流出することになり、金の流出を止めるために不景気にもかかわらず金利を上げるという現代の経済的常識からすると狂気の行いが強硬され、景気後退を止めるすべを失ってしまった。

 状況はドイツでも同じで、元々金準備がないところに金流出が止まらなくなり、金融システムが不安定化を一気に飛び越え銀行倒産となったため全銀行が閉鎖されることになった。

 銀行倒産による資金繰りの破綻で連鎖的な企業倒産が相次ぎ、ドイツでは深刻なデフレーションが到来し、失業率が50%という狂気の世界となった。

 なぜドイツがそんな狂気の世界に突入したのか?

 政府は賠償金の支払いのために金本位制の停止に最後まで抵抗したためである

 ドイツ中央銀行も賠償金支払いのために英仏の管理下にあり、政府と協調して金融緩和することもできなかった。

 なぜこのような硬直した体制になっていたかといえば、英仏がアメリカに戦債を返済するためにドイツから賠償金を絞りとるためだった。

 ドイツ経済を救うにはもはやヴェルサイユ体制そのものを破壊するしか方法が残されていなかった。

 オーストリアからやってきた男がドイツをその軛から解き放ってから、ドイツ経済が急速に回復したのは、ある意味、必然だったと言える。

 最初からドイツに課された賠償金は非現実的で無謀なものだった。

 そして、その報いを受けることになったのが、第二次世界大戦だった。




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― 新着の感想 ―
徳川早人、ゼロの領域に目覚めてしまったのか…
世界恐慌を倍プッシュですと?!世界に与えるダメージは倍ドンなわりに日本は売り先には既に中華を確保済みだしブロック経済しても持ってる側になるんよな。
前回のブラキオサウルスから気になっていたんですが、食中毒先生とのご関係が………。
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