Beautiful Hitler
1930年代後半から40年代前半はヨーロッパ統合の時代だった。
その最初の一歩は、1933年のオーストリアの王政復古から始まる。
ドイツの同盟国として第一次世界大戦を戦ったオーストリア=ハンガリー帝国は敗戦によりドイツと同様に多額の賠償金や軍備制限を課せられた。
東欧から中欧にまたがるハプスブルク帝国は解体され、経済システムが崩壊した上に、国家としてのアイデンティティまでも失ったオーストリアの政情は極めて不安定なものとなった。
さらに1929年に発生した世界恐慌でオーストリアの銀行が連鎖的に倒産して経済が壊滅状態になると国家再建のために王政復古が望まれた。
世論に推される形でオーストリア国王に復帰したのが、暗殺未遂事件を乗り越え、戦後もオーストリアにとどまって国家再建に奔走していた廃帝フランツ二世(フランツ・フェルディナント大公)であった。
そのフランツ二世を宰相として支えたのがアードルフ・ヒットラーである。
アードルフはオーストリア出身でありながら、第一次世界大戦中にドイツ軍に志願するほどの熱烈なドイツ民族主義者だった。
ある種のドイツ至上主義だったとさえ言える。
そのため、戦後にはドイツ移住と軍務への復帰を希望していたが、戦時中に捕虜となったことが不利に働いて職を得ることができなかった。
アードルフが捕虜となったのは友軍撤退のため死守命令に従った結果であり、決して本人の落ち度ではなかった。
この裏切りでアードルフが受けた心の傷は深く、傷心のまま帰郷すると心神喪失状態となり、ホームレスに落ちぶれた。
浮浪者保護施設で人生を破棄していたアードルフを慰めたのが、全国を戦後巡幸する廃帝時代のフランツ二世だった。
アードルフは著作「我が君の闘争」の中で、兵士ひとりひとりの手をとって励ます皇帝を見て帝室尊崇の念が湧き上がり、己の政治的使命に目覚めたとしている。
自身の呼び方をオーストリア風に改めたのもこの頃で、アードルフはドイツ民族主義と完全に決別した。
その後、王政復古を掲げる保守派政治家としてアードルフは、持ち前の弁舌とカリスマ性でオーストリア政界に頭角を現した。
アードルフの主張は、反共産主義と黄禍論。そして、立憲君主制による統一ヨーロッパだった。
1925年6月の街頭演説集会でアードルフは、
「ヨーロッパという一つの家に、共産主義と黄禍の厄災が迫っている」
と述べており、政治活動初期から国境なきヨーロッパとコミュニズムの破壊、そして大日本帝国との対決を想定していたことが分かる。
国境なきヨーロッパという思想は、解体されたオーストリア・ハンガリー二重帝国という多民族を内包した国家をヨーロッパ全土に拡大した発想である。
戦後、ドイツで敗戦への不満からユダヤ人が迫害されるとオーストリアに避難所を開設するなど、アードルフは多民族主義は言葉だけではなく実践を伴うものだった。
また、アンチコミュニズムは当時のヨーロッパの保守派に共通する主張だった。
黄禍論についても同様である。
第一次世界大戦の趨勢を決めた大日本帝国の欧州遠征は、ヨーロッパ諸国にとってモンゴル帝国の再来と言えた。
大日本帝国の皇帝はモンゴル諸部族の大ハーンを兼ねているのだから、再来と表現するしかない。見た目もモンゴル人そっくりだったのだから、欧州社会が味わった衝撃は極めて大なるものがあった。
勝つために日本を誘った英仏でさえ、戦後にアレで良かったのかと後悔したほどだった
モンゴルの脅威に直接晒されたドイツや東欧諸国が感じたものは恐怖でしかなかった。
しかも、ヨーロッパが戦争で疲弊する中、戦前よりも強大な経済力を日本人が持つことは、文明の危機という見方さえあった。
アードルフの黄禍論はさらに過激な色彩を帯びており、日本人を劣等人種に位置づけ文明の敵として抹殺すべきとしていた。
なぜアードルフが、そこまで日本人を敵視したのかは不明である。
それはさておき、宰相の座についたアードルフは国民投票による王政復古を成し遂げ、サン=ジェルマン条約を破棄すると再軍備に着手した。
オーストリアの再軍備には、ドイツ軍部が深く関与しており、自国で生産・テストができない様々な試作兵器が持ち込まれた。
アードルフが邁進した旧領回復政策で最初に帝国の版図に復帰したのが旧オーストリア・ハンガリー帝国の重要な構成国だったハンガリーである。
1935年の国民投票の結果、ハンガリーは帝国構成国に復帰することが決まり、翌年には旧帝国の工業地帯だったチェコ・スロバキアも同様の手順をへて帝国へと復帰した。
帝国に復帰した地域に共通していたことは、日米を爆心地とする世界大恐慌(深刻なデフレーション)で政権が支持を失っていたことである。
そのため、帝国復帰後に短時間で経済が回復するとドナウ川の奇跡として、世論はアードルフをメッテルニヒに並ぶ天才宰相と称えた。
時勢もオーストリアに味方し、1937年にはドイツ内戦に介入した。
1937年11月の総選挙の結果、共産党が単独過半数となったドイツでは軍部によるクーデタが発生し、武装蜂起した共産党のカウンター・クーデタによって内戦状態に陥っていた。
オーストリア軍は、秩序回復を掲げて内戦に介入し、短時間で共産党ゲリラを排除してベルリンへと攻め上がった。
旧帝国時代のオーストリア軍のイメージを刷新する電撃作戦の立役者となったのは、チェコ・スロバキア製のLTvz.35(35年式軽戦車)だった。
LTvz.35は10tクラスの小型戦車であったが、火炎瓶以上の対戦車火器を持たない共産党ゲリラには圧倒的な兵器だった。
オーストリア軍はチェコ製の軽戦車を先頭にトラックに歩兵を乗せる自動車化歩兵を組み合わせた快速師団を編成し、僅か1ヶ月でベルリンへと攻め上がった。
快速師団を指揮したアルフレート・フォン・フービキ中将は、共産党に寝返ったドイツ軍部隊を一蹴してベルリンを解放した。
オーストリア軍の快進撃には、空軍の展開や特殊部隊といった要素も大きかった。
ドイツ軍が秘密開発し、オーストリアで生産されたメッサーシュミット戦闘機がヴェルサイユ条約で空軍保有を禁じられたドイツの空を支配し、オットー・スコルツェニーが率いた特殊部隊が快速師団を先回りして交通の要衝を確保していた。
また、ドイツの充実した道路交通網(ガソリンスタンドを含む)が、機械化部隊の迅速な進撃を助けた。
快速師団は、燃料を現地調達することができたのである。
1938年の国民投票の結果、ドイツ国民は8割以上の賛成で墺独併合に合意した。
鉄血宰相ビスマルクでさえなしえなかった”大ドイツ帝国”の誕生に欧州各国は驚愕したが立役者のアードルフはあまり併合には乗り気ではなかったとされる。
周囲に対して、
「ドイツのようなエゴイズム国家を決して信用してはならない」
と漏らしていたほどだった。
アードルフは大ドイツ主義を前面に出すことを避け、国号も中欧帝国とするようにフランツ2世を説き伏せた。
これはハンガリーやチェコ・スロバキアでは歓迎され、帝国内の民族自治が守られることになった。
ただし、ドイツ系はこれを不服として、ブランデンブルク門事件が発生した。
ブランデンブルク門事件とは、1938年11月8日に発生したアードルフ暗殺未遂事件である。 ドイツの極右民族政治組織の主催者だったエルンスト・レームがアードルフ暗殺を図った。
元々レームは、ドイツ内戦時に右派民兵組織を率いてオーストリア軍に協力していた。
しかし、帝国内の諸民族の共存共栄を重視するアードルフに対して、ドイツ民族の優越を主張するレームは、内戦終結後に意見が対立し、右派民兵組織も解体されるなど冷遇された。
レームは、内戦で破壊されたブランデンブルク門の修繕作業を視察したアードルフに、ドイツ民族の指導者となるように説得したが受け入れられなかった。
レームの説得は長時間に及び、必ずしも暗殺がレームの本意ではなかったとされる。
ただし、レームの菊紋は長時間の異物(爆弾)挿入に耐えることができず、ズボンに異様な膨らみが生じたことを護衛の警官にみとめられため、やむを得ず自爆して果てた。
護衛の警官が盾となったことでアードルフは難を逃れている。
事件後、家宅捜索を受けたレームの寝室から、日本語の書籍が大量に見つかったことから大日本帝国の関与が疑われた。
ただし、内容は主に男性同士の同性愛を扱った本で警察当局は特に事件とは関係無しと結論した。
しかし、アードルフは日本帝国によるマインド・コントロール装置の一種とみなし、退廃芸術として一般所持が禁止された。
これは21世紀現在でも継続しており、INMUコードとして登録されている。
事件後、アードルフのドイツ嫌いは深刻なものとなったが、その産業力を活かすことには躊躇がなく、アンシュルスによって中央帝国の軍備は飛躍的に強化された。
中欧帝国の主力戦車であるLTvz.38(38年式軽戦車)の大量配備が実現したのは、ドイツのクルップ社やヘンシェル社といった大手企業でのライセンス生産によるところが大きかった。
また、空軍拡張が進んだのもドイツの産業力があればこそである。
空軍拡張にはドイツ軍部が裏で進めていた覆面空軍計画も活用された。
覆面空軍計画とは、ヴェルサイユ条約の軍備制限を回避してドイツ帝国時代の航空軍備を温存する軍部の秘密計画である。
ルフトハンザ航空への採算度外視の国費投入により、近代的なパイロット養成システムや旅客機名目での軍用機開発・製造能力が維持されており、アンシュルス後に設備や人員は中欧帝国空軍に編入された。
内戦で活躍したMe109といった戦闘機の他に、He111爆撃機やDo17爆撃機は旅客機や郵便機として秘密開発されたものだった。
アンシュルス後は、これらの機材もおおっぴらにドイツ国内で生産されることとなり、中欧空軍は飛躍的に増強された。
再軍備によってドイツ経済はそれまでの不調が嘘だったかのように急速に回復したと説明されることが多い。
ただし、それだけは説明の半分にしかならず、ドイツの奇跡を演出した金融緩和の果たした役割が過小に評価されている。
具体的にはライヒスバンクの追加利下げと国債や民間債権の買いオペ、そして政府紙幣による通貨供給量の増大である。
ドイツでは1933年に国内の銀行倒産が相次ぎ、金流出と経済後退が深刻になると金本位制が維持できなくなり、管理通貨制度に移行したが金融緩和は殆ど行われなかったのでデフレーションが長期化した。
アンシュルス後、ライヒスバンクは漸く金利引き下げと国債・民間債権の買いオペという現代的な金融緩和に舵を切ることになる。
なお、ライヒスバンクが購入した民間債権とは、ダミー会社を通じて発行された手形(政府紙幣)であり、実質的には中央銀行による財政ファイナンスだった。
こうした資金調達のスキームは第一次世界大戦において各国が採用したもので戦時限定という意識があった。
しかし、これこそが現代の管理通貨制度の常道である。
全く同じことを1930年に実施していち早く世界恐慌から回復したのが大日本帝国だった。
1929年に不動産バブルが崩壊した日本では経済対策を巡って、減税を主張する大公豊臣家と税収減少を理由に緊縮財政を主張する中京政府が対立した。
最終的に大公豊臣秀美は、濱口内閣を倒閣するため1930年の名古屋海軍軍縮条約を統帥権干犯として、海軍大臣を引き上げさせた。
濱口内閣は後任の海軍大臣が得られず、総辞職に追い込まれた。
大日本帝国憲法では政府と軍部は法的には独立して存在しており、首相には軍に対する命令権がなく、海軍大臣を首相が兼任することも不可能だった。
大公秀美の推挙を受けて成立した高橋是清挙国一致内閣は、名古屋海軍軍縮条約から離脱し、海軍が要求した金剛級戦艦代艦4隻の建造を認めたほか、恒久減税や大規模公共事業計画を発表した。
日本の中央銀行も大公秀美の圧力により、金利引き下げや国債直接引受、買いオペといった金融緩和を行ったことから、デフレーションは1931年に底を打った。
1933年には日本経済は世界恐慌前の水準にほぼ回復している。
ただし、高橋首相はインフレを懸念して金融緩和や拡張財政の終了を主張して大公秀美と対立したため、1935年に再び海軍大臣が辞職して、内閣は崩壊に追い込まれた。
これを以て戦前の政党政治は崩壊し、大公主義と軍国主義が日本を席巻することになる。
イギリス流の政党政治や立憲君主制を理想としていた大公秀美は、
「わけがわからないよ」
と嘆いたとされる。
原因は概ね選挙制度の不備で、被選挙権が華族(旧大名)や士族といった伝統的な富裕層に有利に設定されていたためである。
つまり、選挙をしてもデフレで有利になる富裕層ばかりが当選するため、経済政策が常にデフレ誘導的になり、インフレを発生させる経済発展を目指そうとすると民主主義を否定するしかなくなるというバグが発生した。
図らずしも太閤秀吉の再来として独裁体制を築いた秀美にはもう一つ誤算があった。
対外関係の著しい悪化である。
議会政治を空文化し、海軍拡張に転じた日本は、外から見た場合、極めて危険な軍事・権威主義国家だった。
しかも世界大恐慌の爆心地でありながら、最短で経済を立て直した。
それどころか、他国が不景気に沈む中で1930年代後半には世界最大の経済国へと日本を導いてみせた。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
が実現した瞬間だった。
日本以外の列強国にとって、これはあまりにも異常な光景だった。
何しろスペイン風邪で150万人が死亡し、帝国最大の都市が大地震で壊滅した挙句、世界恐慌の爆心地になった国が民主主義を否定して、何故か世界で最も豊かな国になっているのである。
ヨーロッパが第一次世界大戦で大きく国勢を損ねて、さらに世界大恐慌からの脱出にも手をこまねく中で、ファシズム国家日本が経済再生のお手本のように語られることは、自らを世界一の文明と信じて疑わない白人社会とって悪夢のようなものだった。
日本と同じく世界恐慌の影響を受けずに発展を続けるコミュニズム帝国のソ連と同レベルか、それよりも日本人の帝国は異端視された。
このままでは半世紀以内に日本のファシズム経済が世界を席巻して、あまねく地球人類が赤いミソ・スープを飲む世界がやってくるという終末思想が生じるほどだった。
ちなみに赤いミソ・スープを嗜んでいるのは、日本国内でも名古屋近辺だけで、日本人全員が赤味噌党というわけではない。
1930年代に吹き荒れた日本排撃思想の最たるものとして有名なのが「トヨトミの議定書」と呼ばれる偽書である。
議定書によれば、大公豊臣家の陰謀家がロシア革命を背後から操り、スペインで悪疫を流行らせ、世界大恐慌を利用して富を違法に独占し、マスコミを操って宗教・民族対立を煽り、世界の食卓を赤いミソ・スープで染め上げる諸悪の根源となっていた。
アードルフも演説でしばしば議定書を引用して日本を口撃していたことから中欧帝国では偽書が事実のように語られることになった。
日本語訳された「議定書」を読んだ大公秀美は、
「赤いミソ・スープを義務教育にするなら、コメダも履修するべきじゃない?」
と一笑に付したが、ヨーロッパで議定書が500万部以上売れたことを知ると頭を抱えた。
ちなみにコメダは、21世紀現在で世界最大の喫茶チェーン店であり、約8万199店舗(世界80カ国以上)に展開している。シロノワールが全世界で一億食を達成したことも記憶に新しい。
それはさておき、赤いコミュニズムと黄色いファシズムに怯える西欧は、中欧帝国という旧敵の復興を前にして旧連合国陣営の再集結を模索したが上手くいかなかった。
エチオピア侵攻でイタリアを国際連盟から追放したイギリスとフランスはイタリアとの再同盟には踏み切れなかったからである。
また、ウィーン会談(1938年9月29日)で、英仏がルーマニアを見捨てたことから、ムッソリーニはイギリスのチェンバレン首相を信じることができなくなった。
ウィーン会談は、中欧帝国がルーマニアに対してトランシルヴァニア地方の返還を要求し、受け入れられない場合は戦争も辞さないと軍事恫喝したことに始まる。
トランシルヴァニア地方は旧オーストリア・ハンガリー帝国の領土であり、第一次世界大戦の結果、戦勝国となったルーマニアが領有することになった経緯がある。
ルーマニア国王のカロル2世は窮して英仏に援助を求めたが、戦争回避のため見捨てられることになった。
中欧帝国はトランシルヴァニア地方に進駐するとそのまま国境線を突破して、ルーマニア全土を制圧した。
英仏から見捨てられたと考えていたルーマニア国民は中欧帝国の軍事侵攻に対して殆ど抵抗することができなかった。
国王のカロル2世が真っ先にブルガリアに逃亡したのでなおさらだった。
ルーマニアにはヨーロッパ最大のプロエシュチ油田があり、中欧帝国が燃料資源を確保したことでいよいよ戦争は不可避の情勢となった。
ウィーン会談とルーマニア占領を見て、ムッソリーニは英仏が当てにならないことを悟り、一時的に中欧帝国に接近した。
しかし、トリエステと南チロルの還付を求められたため進退極まることになる。
進退窮まったのは英仏も同じで、ユーゴスラビア王国が中立を宣言し、ポーランドが孤立した。
中欧帝国の復讐戦争が不可避の情勢となってから、英仏はロシア(ソ連)との同盟を画策したが、スターリンが求める具体的な利益を提示できなかったため交渉が進まなかった。
反共を掲げるムッソリーニは、同じファシズム国家である大日本帝国に接近した。
この場合、ソ連と日本との同盟交渉はほぼ二者択一だった。
1930年代の中華帝国では、日本からの独立を掲げて爆弾テロを繰り返す中華ソビエトが治安問題となっていたからである。
中華ソビエトの背後には活動資金や武器弾薬を供給するソ連がいることは明瞭であったことから、日ソ関係は極めて緊張したものとなった。
ただし、ソ連に一方的に問題があるわけではなく、日本は日本で1923年に東シベリアにロシア帝国の後継国家「シベリア帝国」を建てて混乱期のソ連から領土を掠め取った。
日本がシベリアに手を突っ込んだのは債務問題があった。
ロシアには第一次世界大戦以前から多額の円借款を行っていた。第一次世界大戦でも多額の戦時国債を日本は貸し付けており、それが10月革命(1917年)で踏み倒された。
債務を踏み倒されたのは日本以外の列強国も同じで、各国はチェコ軍団救出を名目にロシア内戦に介入することになる。
所謂、シベリア出兵であり、この中でも日本は最大兵力を展開した。
混乱期のソ連に対抗する術はなく、レーニンはバイカル湖から流れるレナ川を国境とする緩衝地帯国家の設置を認めるしかなかった。
なお、シベリア帝国の皇帝となるはずだったロマノフ皇帝は既に処刑されており、他のロシア皇族は全員シベリア送りを拒否したため、その帝位は日本の天皇が兼務することとなった。
公式文書における天皇の表記は1923年以降「大日本国天皇 兼 中華帝国皇帝 兼 大和民国元首 兼 モンゴル諸部族の大ハーン 兼 ロシア皇帝」となる。
天皇の全国巡幸の旅程にシベリアが加わったのは1926年からである。
なお、冬季はできるだけ避けることとされた。
それでも完全に避けることは不可能であり、分厚い防寒着を着て-47℃のイルクーツクに行幸した昭和天皇の写真が残されている。
ちなみに気温-47°Cというのは、頭部に適切な防寒処置を施さないと脳の機能が寒気によって阻害され、死に至る世界である。
ロシア皇帝を兼務したことで日本には各国からロシア帝国時代の債務返済要求が殺到したので、総合的に見てこの領土拡張は失敗だったと言える。
借金をとりかえそうとして、却って借金が増えたようなものである。
ただし、債務承認と引き換えに天皇がロシア皇帝の継承者であることが公的に認められた。
ソ連当局の弾圧から逃れるためシベリアへ逃亡したロシア正教会は、保護と引き換えに昭和天皇を神に選ばれた絶対的支配者と認定している。
追い詰められたムッソリーニが1939年7月に緊急来日した際、
「エチオピア皇帝も兼務していただきたい」
と大公秀美に迫ったのはこうした下敷きがあったためである。
ムッソリーニの野心から始まったエチオピア侵攻(1935年)は多額の国費を費やした挙句に国際的孤立を招くというマイナスばかりが目立つ結果に終わっていた。
エチオピアは英仏伊という旧連合国の再同盟の妨げにもなっており、不良債権を日本に売却して、ムッソリーニは日伊同盟を買おうとしたのである。
日本政府は亡命したエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の保護していたので、さすがにこの取引は成立しなかった。
昭和天皇もムッソリーニの提案を聞いて書院に一日引きこもるなど反対の意を示した。
しかし、日本はアードルフから劣等人種国家として名指しされており、旧敵との再対決は不可避の情勢だった。
1933年以降、日本企業はオーストリアでの営業を停止、ハンガリーやチェコスロバキアでも営業が禁止されるなど、中欧帝国の拡大に伴って日貨排斥運動の嵐が吹き荒れた。
1938年のアンシュルス以後は、ドイツからも日本企業が排除され、その財産が没収された。
影響は日本だけにはとどまらず、大和民国企業も排斥され、中欧・東欧から日系資本が排除された。
当初、日本国内ではアードルフの劣等人種発言は支持者向けのリップサービスで、本気ではないという観測があった。
世界規模に広がった日本の経済網から完全に独立するなど現実的なコストでは不可能だと考えられていたためである。
特に日本は日領東印度のプランテーションで生産される天然ゴムの世界的なシェアを確保しており、中華帝国のタングステン、南太平洋ヌメア島のクロムやニッケル鉱山など先進工業国に必須の資源を輸出していた。
日貨排斥は当然のことながら、日本からの輸入を自ら閉ざす行為である。
そのため、日本国内世論では財産没収への怒りよりも困惑といった感情が広がった。
合理的に考えてありえないことだったので、よく理解できなかったのである。
ただし、先の大戦勃発の経緯から、どのような異常な原因で大戦争が始まっておかしくはないという見方も存在した。
エチオピア軍を相手に苦戦したイタリアの軍事能力は当初から疑問視されており、並行してイギリスとの交渉も持たれた。
日英仏伊ソが次の戦争に備えて同盟者を探す中で発生したのが、1939年8月のバイカル湖紛争だった。
バイカル湖紛争は、国境侵犯を繰り返すソ連軍とシベリアに駐留する日本軍が衝突した大規模紛争である。
どちらの軍も衝突を意図していたわけではなく、戦闘拡大は偶発的なものだった。
日ソ双方が師団単位で衝突したことから近代的な戦車戦や航空戦も発生した。
日本軍の61式戦車が初めて実戦投入されたのもバイカル湖紛争からで、20t級の車体に24口径75mm砲を搭載した歩兵支援戦車だった。
日本軍は戦車を概ね歩兵支援兵器に位置づけており、榴弾威力が高い山砲をベースとした短砲身砲を採用した。配備初期には対戦車戦闘用の徹甲弾がなかったほどである。
ただし、ソ連軍のBT-5/7といった軽戦車には榴弾でも十分であり、草原の戦車戦では概ね互角以上に推移した。
ちなみに61式とは、中京歴61年(西暦1937年)採用という意味である。
日ソの武力衝突は、日英交渉にも微妙な影響を与えた。
チェンバレン首相はソ連と並行して日本とも同盟交渉を行っていたが、英ソ交渉がドイツメディアによって暴露されると二股外交の批判を浴びた。
日英交渉も中止に追い込まれ、当座の交渉相手としてイタリアだけが残った。
エチオピア皇帝兼任はともかくとして、日本人殲滅を掲げる危険な国が欧州を制覇することは国家安全保障の危機だったので1939年8月に日伊防共協定が結ばれた。
防共と銘打たれていたが、実質的にはイタリアとの軍事協力を約した軍事同盟であり、仮想敵は中欧帝国とソ連だった。
ほぼ同時に中欧帝国とソ連が不可侵条約を締結して、イギリスの外交的敗北が確定する中、中欧帝国はポーランドに旧帝国領土であるガリツィア地方の還付を要求した。
ガリツィアは、1772年(第1回ポーランド分割)でオーストリアが獲得し、第一次世界大戦の結果、失われた領土だった。
中欧帝国が突きつけた最後通牒をポーランドが拒絶したことから、第二次世界大戦の幕が開けることになる。
バルト海沿岸からスロバキア国境まで広大な範囲で国境を超えた中欧帝国は、1ヶ月でワルシャワまで攻め上がりポーランドを降伏させた。
この間にイギリス・フランスが中欧帝国にそれぞれ宣戦布告していた。
イタリアが中立を保ったため、大日本帝国も英仏支持を表明するに留まった。
そして、フランス軍は国境から動かず、ポーランドが蹂躙されるに任せることになった。
開戦理由が変態自慰行為かどうか確認する作業に追われていたわけではなく、単純にまるで戦争準備が整っていなかったためである。
ただし、混乱の度合いでいえば、中欧帝国内部の方が深刻だった。
アードルフはポーランドを攻めても英仏は日和見すると決め込んでおり、フランツ2世に都合のいい報告しかしていなかった。
そのため、英仏の宣戦布告に直面するとフランツ2世に叱責され、引責辞職を考えるほど精神的に追い詰められた。
アードルフが開戦直後からマスコミに政治的解決を連呼したのはそのためである。
イギリスのチェンバレン首相も交渉による停戦に前向きとなり、スイスやイタリアで接触がもたれた。
宣戦布告した英仏と中欧帝国が法的には交戦状態にありながら、実質的には戦っていないという奇妙な戦争が半年に渡って続くことになる。
冬というヨーロッパで戦争をしづらい季節ということも大きかった。
それにもかかわらずソ連が極寒のフィンランドに攻め込んで手痛いしっぺがえしを食らうことになったが、それは自業自得というものだった。
この間、アードルフは停戦に向けて奔走していた。
しかし、領土割譲を絶対拒否するポーランドの抵抗に直面し、水面下での交渉はほぼ暗礁に乗り上げた。
さらにドイツ系を中心に発言力を増す軍部からの突き上げにも遭遇した。
英仏が戦争準備を整える前に攻撃すべきという軍部の意見は戦争に適した春が近づくに連れて高まり、フランツ2世も外交ではなく武力による解決へと傾いていった。
軍部を代表してフランツ2世を説得したのが、エーリッヒ・フォン・マンシュタイン参謀次長だった。
ヴァイマル政権時代からドイツ陸軍のエリートとして将来を嘱望されていたマンシュタインは、中欧帝国においても重用された。
自身で立案してフランツ2世に示した対仏攻勢計画は、マンシュタイン・プランと呼ばれる画期的なもので、フランツ2世の目を開かせることになった。
ちなみにマンシュタインとアードルフの関係は最悪の一言だった。
プロイセンの軍人貴族然としたマンシュタインは、アードルフにとって裏切り者の権化のような存在だった。
マンシュタインも伍長止まりで日本軍の捕虜になったことがあるオーストリア人の宰相などというものは笑止千万という他なかった。
欧州の歴史教科書では大モルトケとビスマルクに並ぶ神の配剤とされるアードルフ首相とマンシュタイン参謀総長という組み合わせの実態とはそういうものだった。
この組合せが機能したのは、間にフランツ2世という調停者がいたからである。
1940年4月1日には大公秀美がヨーロッパへの義勇軍派遣を表明する中、中欧帝国のフランス侵攻は1940年5月10日に始まった。
オランダ・ベルギーへ同時侵攻した中欧帝国の動きは、第一次世界大戦と同じシュリーフェン・プランの焼き直しに思われた。
そのため、英仏軍は主力をベルギー北部へと集中させた。
しかし、マンシュタインの狙いは、フランス軍の防御が手薄となっていたアルデンヌの森だった。
5月10日は中欧帝国の装甲部隊がスダンでミューズ川をわたり、15日は英仏海峡へと到達するという快進撃を見せた。
パリとの連絡を遮断された連合国軍はパニックを起こし、戦わずして敗走した。
局地的には、イギリス軍のマチルダ歩兵戦車やシャールB1重戦車が、中欧帝国のLTvz.38軽戦車をダース単位で撃破したが、戦況を覆すことはできなかった。
個々の装備に関していえば、英仏は中欧帝国よりも優れたものが多く、兵員の訓練の度合いも同等かそれ以上の場合が多かった。
中欧帝国が勝利したというよりも、フランス軍の指揮系統の麻痺によって自滅したという方が実態に近かった。
5月20日にはダンケルクで連合国軍の主力34万人が全軍降伏し、中欧帝国にとっての西方戦役は殆ど終わったようなものとなった。
最良の兵員と重装備を同時に失ったイギリス・フランスにもはや戦争を継続する気力は残されていなかった。
チェンバレンから首相を引き継いだウィンストン・チャーチルは徹底抗戦を訴えたが、アードルフが政治的解決・捕虜の即時解放を発表すると内閣支持率は急落した。
フランツ2世から戦争の即時終結と白紙講和を約束する親書を受け取ったイギリス国王ジョージ6世は、チャーチルから外相のアンソニー・イーデンに首相を交代させた。
休戦交渉において、アードルフは皇帝の約束通りに白紙講和を申し出て、英仏を拍子抜けさせた。
フランスのフィリップ・ペタン元帥はまたドイツが普仏戦争以来の係争地であるアルザス・ロレーヌの割譲を要求してくると予想していた。イーデン首相も同じ考えで、艦隊接収ぐらいは言ってくるだろうと予想していた。
しかし、アードルフが求めたのは、旧領回復と日本人の追放だけだった。
これはアードルフ流のドイツ人に対する嫌がらせだった。
自分を裏切ったドイツには1m平方メートルの領土も復讐の機会も与えなかった。
アルザス・ロレーヌだけではなく、ポーランドからガリツィアを返還させても、ダンツィヒを要求しなかったほどである。
軍部(特にドイツ人)は復讐のため、先の大戦で休戦協定が締結されたコンピエーニュの森で同じく調印作業に使われた食堂車の中でフランスと休戦協定を結ぼうと画策したが、アードルフの妨害によりパリのフランス外務省で休戦協定が結ばれた。
アードルフのドイツへの意趣返しは不毛なものだったが、結果として英仏世論を軟化させる効果があり、日本人追放以外は殆ど白紙で講和が成立した。
「ただし、イタ公。テメーはダメだ」
とアードルフが言ったかどうかは定かではないが、中欧帝国は英仏から奪えなかったものをイタリアから奪うことになった。
戦争以前からアードルフが掲げていた欧州の家構想において、英仏は重要なパートナーに位置づけられており、戦場で決着がついた以上は過度な関係悪化は避けるべきだった。
イタリアは中立を保っていたが、第一次世界大戦では同盟から旗を返して連合国に寝返り、さらに旧帝国領を掠め取ったオーストリアにとって怨敵だった。
イタリアには南チロルとトリエステといったイタリア北部の旧帝国領返還と中欧帝国海軍再建のため艦隊接収が申し付けられた。
受け入れられなかった場合は速やかに国家の破壊あるのみという最後通牒である。
同じく中立だったユーゴスラビア王国は中欧帝国の軍事恫喝に屈して領土返還に同意した。
全欧州を敵に回して孤立することになったイタリアが屈服するのも時間の問題だと思われた。
1940年6月5日、ローマのヴェネツィア広場を見渡すバルコニーに姿を現したムッソリーニは、駆けつけた群衆を前にこう叫んだ。
「イタリアは戦わずして屈しない。羊として100年生きるくらいなら、ライオンとして1日だけ生きるほうが良い。かかってこい!相手になってやる!」




