ただ一つの冴えた果てかた
20世紀を迎えた大日本帝国は、帝国主義全盛期を迎えた。
日本の覇権は、環太平洋地域にパクス・ヤマトニカ(ヤマトによる平和)やパクス・ジャポニカ(日本による平和)と呼ばれる安定と平和を作り出した。
その勢力圏は日領東印度や南太平洋の豪州、北太平洋の阿羅斯加、太平洋対岸の大和民国さらに中華世界を版図に加えたことで、全地球の地表面積の4分の1を占めた。
まさにグレート・インペリアル・ジャパンである。
領土だけではなく人口も拡大し続けており、ナイチと日本人が呼んでいる本国人口だけで7,000万人。さらにガイチと呼んでいた海外の藩国や海外県に住む日本人の数はおよそ3,000万人にのぼった。
1億人の日本人を統べるのは、神代の時代から太陽神の血脈を紡いできたとされる天皇である。
歴代の天皇は、帝国に新たに属州がつくられるたびに皇子か皇女を現地に送って宮家を作り、太平洋にまたがる王室のネットワークを作り出していた。
外国人はそれを欧州におけるハプスブルク家の紐帯のようなものと捉えていたが、それだけではまだ不十分である。
日本人の天皇崇拝はもはや宗教という他ないので、氏神と氏子の関係を途方もなく巨大化したいう方が適切だろう。
ただし、それを外国人が理解するのは殆ど不可能である。
神の子の子孫を崇め奉るが特に教義も経典もない宗教というものが欧州にあったら、それはカルトの類になってしまう。
しかし、日本人は豪州の砂漠地帯でさえ神社を建立し、南方のジャングルの中に宮家の城を作って、その向うに神性を感じるとることを一般常識のレベルに落とし込んでいた。
ある意味、途方もなく無自覚な宗教帝国とも言えるだろう。
無自覚であるためその支配は極めて強力だった。
歴史の試練を受け、日本人の帝国はたびたび対外戦争の危機に晒されることはあったものの分裂の危機というものだけは全く無縁だったほどである。
大和民国の独立でさえ、天皇を国家元首とすることには全く異論はでなかった。そのため、独立というよりは、分邦という理解の方が正しいとさえ言える。
人類の歴史に登場した数多の大帝国が常に分裂に怯え、軍事力や指導者の喪失によって空中分解したことを考えれば、分裂というものを全く意識することがない日本人の帝国は極めて異常という他ない。
そして、その宗教帝国の神を祀る祭祀の役割を300年前から独占してきたのが、大公豊臣家である。
極めて低い身分から身を起こした豊臣家は、自前の権威を持たない故に天皇を崇め奉ることでそれを補ってきた歴史がある。
豊臣家は16世紀末に内乱状態だった日本を武力で統一し、さらに貿易の富を求めて海外へと進出を果たして、膨大な富と権力を独占した。
そして、その富を使って朝廷の儀式を盛大に催し、天皇の住まいを壮大に飾り立て、天皇が崩御すれば国家の一大事として荘厳な葬儀を取り仕切ってその死を見送った。
天皇家の権威を極限まで高め、その権威を全ての日本人にとって所与のものとすることで、豊臣家は日本を支配し、大帝国を築き上げた。
ある意味、豊臣家は天皇崇拝のプロフェッショナルである。
ただし、その豊臣家も帝国全体の資本主義経済の発展によって、嘗ての力は失われつつあり、議会と政党政治に権力の座を移行する過渡期にあった。
その流れを決定的にしたのが第一次世界大戦だった。
第一次世界大戦は、膨張する新興勢力(ドイツ帝国)と既存の大勢力である英仏露の衝突だった。
ドイツは、ナポレオン戦争に勝利したプロイセンを中心に国内統一戦争を勝ち抜き、ナポレオン3世のフランス帝国との戦争に勝利して、プロイセン王ヴィルヘルム1世を皇帝とする帝国を作りあげた。
統一後のドイツ帝国は急速に工業化を成し遂げ、ノーベル賞を次々と獲得する科学帝国を作り上げることになる。
そして、ドイツは伸長した国力を背景にさらに領土拡張を図った。
具体的には、ベルリン、ビザンチン、バグダットを結ぶ3B政策であり、アフリカでの植民地獲得戦争だった。
これはドイツ統一の立役者であるビスマルク首相にとって予想外の展開だった。
ビスマルクはドイツの統一によってドイツは飽和したと考えていたからである。しかし、一度、弾みのついた民族主義の高揚という車輪を止める術はなかった。
結果、ドイツはフランスとの対立に加え、建艦競争や3B政策によってイギリスとの競争を抱えることになり、ロシアから後背の脅威を受けることになった。
東西の脅威を受けたドイツはオーストリア=ハンガリー二重帝国やオスマン帝国、イタリア王国と同盟を築いた。
ヴィルヘルム2世は、ロシアを背後から攻撃するために日本にも同盟を持ちかけたが、これは全く相手にされなかった。
理由は単純で、ドイツが日本に提示できる具体的な利益が皆無だったためである。
ドイツ当局は日独の勝利によって英仏の植民地やシベリアを日本とドイツで切り分ける世界分割を持ちかけたとされるが、取らぬ狸の皮算用でしかなかった。
また、日本では直近に版図へ加えた中国の統治に膨大なコストが発生しており、植民地主義そのものへの疑義さえ生じ始めていた。
1908年に国号を清から中華帝国に改めた中国は、日本の天皇を皇帝に据える同君連合国家となった。
実質的には日本の植民地であり、3億の人口と全欧州よりも広大な国土と豊かな物産、資源が日本経済に組み込まれたことになる。
大英帝国の力の源泉がインドなら、大日本帝国の力の源泉は中国と言えるだろう。
問題はその広大極まる国土と膨大な人口を支配する統治コストだった。
日本は清時代の官僚組織をほとんど丸抱えして、要職に内地から送り込んだ日本人官僚を据えることで間接統治する体制を整えたが、それでもなお得られる税収よりも経費の方が多い状態だった。
中国は清朝末期に政治的腐敗によって治安・経済が混乱しており、地方では軍部の統制さえ怪しい状態だったからである。
モンゴル高原については、いったいどうしたらいいのか検討さえつかなかった。
とりあえず、クリルタイに天皇が大ハーンとして参加することが決まったが、中京・北京・モンゴル高原・さらには太平洋にまたがる広大な国土を公務のために飛び回ることになった大正天皇(諡号)は著しく体力を消耗し、在位期間は15年に終わった。
そのため、皇太子時代から摂政として大正天皇の代わりに帝国の版図を飛び回ることになった昭和天皇(諡号)の健康には特別な注意が払われることになった。
しかし幸いにも昭和天皇はいたって壮健な心身の持ち主であり、その強健な体力と精力的な活動ぶりは周りの心配を杞憂に終わらせた。
その在位期間は75年に及び、これは神代に遡っても例を見ない長久の御世と言える。
本人によると空気の薄いモンゴル高原で乗馬や相撲に興じ、簡素なゲルで起居したことで心身が鍛えられたとのことである。
若き日の昭和天皇の壮健さを示すエピソードの一つに1935年の呂宋巡幸の際に献上品のパイナップルを誤って素手で粉砕したという逸話がある。
それはさておき、日本は中国の領土の一体性や治安を確保するため、警察・軍事祖組織へのテコ入れを行って多額の国費を費やす羽目になった。
清末の混乱は、日本による植民地化が原因でもあるので、ある意味、自業自得と言える。
しかし、この状態でさらに新しい植民地を抱えたいと思う行政官は極めて稀だった。
さらに日本はパナマ問題を抱えており、欧州の問題に首を突っ込む余裕はなかった。
パナマ問題とはパナマ運河建設を巡る日米の対立である。
1889年に資金不足で事業を投げ出したフランスからパナマ運河の建設権を買い取った日本は運河建設を再開した。
日本から欧州へ向かうにはイギリスが建設したスエズ運河を通過する必要があった。
他はアフリカの希望岬か南米のマゼラン海峡を回る迂回ルートしかなく、パナマ運河が完成すれば大幅な航路短縮となる見込みだった。
対立は、豊臣海軍のカリブ海進出を安全保障上の脅威と見なしたアメリカ合衆国が運河建設を阻止するためコロンビア共和国に干渉したことに始まる。
セオドア・ルーズベルト大統領は砲艦外交でコロンビアを脅迫し、運河建設を阻止しようとしたのである。
大和民国やメキシコによって太平洋への道を閉ざされたアメリカ合衆国にとって、カリブ海は自宅のプールのような場所であるべき場所だった。
日本の仙石権兵衛首相はベラクルスに巡洋艦を派遣して、アメリカ砲艦外交に真っ向から対抗する姿勢を打ち出した。
仙石首相の祖は、豊臣秀吉に仕えて豊後藩を築いた仙石秀久で、傍系であるものの豊臣武官の末裔ということで政界ではタカ派で知られていた。
ちなみに同時期の海軍大臣を務めた山本権兵衛と同じく、名前の読みは「ごんのひょうえ」となっており、内閣に二人の「ごんのひょうえ」がいたことになる。
日米の砲艦外交は次第にエスカレートして、カリブ海には日米の戦艦が屯して一瞬即発の状態となった。
日米砲艦外交が苛烈なものとなったのは、1906年に就役したイギリス海軍のドレッドノート級戦艦の存在も大きかった。
イギリス海軍が完成させた革新的な戦艦は、在来戦艦を一度に旧式化させるドレッドノート・ショックを引き起こし、各国海軍に激しい建艦競争を巻き起こした。
日米も例外ではなく、カリブ海の砲艦外交で優位にたつためにドレッドノート・タイプの戦艦建造に狂奔した。
アメリカ海軍は弩級戦艦のサウスカロライナを就役させるとさっそくカリブ海に送り、豊臣海軍も対抗して日本初の弩級戦艦である扶桑をカリブ海へ送っている。
なお、扶桑は前弩級戦艦として計画されたものを急ぎ設計変更したもので、完成度はあまり高いものとは言えなかった。なにしろ同級艦として建造された4隻の全てが砲配置がそれぞれ異なるという実験的な船だった。
豊臣海軍が漸く満足できる性能を確保したのは、呂宋級戦艦からである。
呂宋級戦艦は、22,000tの船体に背負式配置の正30cm連装4基8門の火力と装甲をバランスよく盛り込み、蒸気レシプロエンジンによる長大な航続距離を確保した傑作艦だった。
ただし、速力は22ktに留まった。
これは太平洋全域で活動するため速力を犠牲にしてでも燃費のいい機関を採用した結果である。
呂宋級の成功で自信を深めた豊臣海軍が拡大発展型として建造したのが金剛級巡洋戦艦である。
金剛級巡洋戦艦は、26,000tの船体で正36cm砲連装4基8門の火力とギアード・タービン機関の採用で26ktの快速と長大な航続距離を両立させ、イギリス海軍が巡洋戦艦フッドを完成させるまで世界最大の巡洋戦艦だった。
金剛型巡洋戦艦は合計7隻(金剛、霧島、榛名、比叡、雲仙、磐梯、浅間)、速力を低下と引き換えに装甲強化を図った出雲型戦艦(出雲、伊予、樺太、馬来、薩摩、丹後、三河、尾張)は8隻という大量建造が実施された。
これは戦艦を量産することで、取得価格の軽減と建造日数を節約するという目的があった。
実際に出雲型戦艦8番艦の尾張の建造日数は、初号艦の金剛の7割まで短縮され、取得価格も2割削減することに成功している。
さらに大量の同一艦を建造することで、出先で予備部品を確保しやすくなるというメリットがあった。
広大な太平洋を巡回する豊臣海軍にとって、遠隔地での整備性の確保は個艦の性能優位を切り捨ててでも優先すべき項目の一つだった。
これは他の艦種についても同様で豊臣海軍の船は標準設計を定めると多少時代遅れになっても同じ船を延々と作り続ける傾向があった。
なお、金剛型巡洋戦艦は後にユトランド沖海戦の戦訓から速力低下を忍んで装甲強化が図られたため戦艦に艦種を変更され、日本海軍はほぼ同型の戦艦15隻を保有することになった。
見た目が同じことを活かして、しばしば、豊臣海軍は実態よりも多数の戦艦が集結しているように見せかける欺瞞を行って、アメリカ海軍を右往左往させた。
さて、コンロビア政府が日本の後ろ盾を得たことでアメリカに対抗する姿勢を打ち出したことから、アメリカは軍事介入を決意し、1903年に運河建設予定地のパナマをコロンビアから分離独立させた。
傀儡のパナマ共和国は日本の運河建設権を無効としたが、日本はパナマ共和国を国家承認せず、海兵隊を投入してパナマを占領しコロンビア政府の施政権を回復させた。
以後、コロンビアと駐留協定を結んだ日本軍の管理下で運河建設は進むことになり、1915年に漸く開通した。
各国は、アメリカ合衆国が開通阻止のために戦争に訴えると予想しており、実際に日米関係は戦争前夜という状況となった。
ただし、その前に欧州で第一次世界大戦が勃発したことで日米開戦には至らなかった。
第一次世界大戦が大戦争に発展したのは、ドイツやフランス、イギリスといった列強国が勢力均衡を図るために複雑な同盟関係を構築していたこと。さらにドイツやフランスといった鉄道大国が急速動員を前提とした硬直した戦争計画を立てていたことに原因を求められる。
特に東西を仮想敵に挟まれたドイツは、動員開始が1日でも遅れると致命傷となるという危機感があり、政府が戦争回避に使える時間は最初から存在しなかった。
そのため、欧州各国はあとから考えれば、笑えるほど愚かな理由で戦争を始めた。
戦争の発端は、1914年6月18日にサラエボでセルビア人青年ガヴリロ・プリンツィプが変死体で発見されたことである。
プリンツィプの死体は1900年にアメリカの古生物学者エルマー・S・リッグスが初めて発見したブラキオサウルスの復元模型を陰部に挿入した状態で発見された。
さらに死体が見つかった部屋からはオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公の暗殺計画書とピストル数丁が発見されたことで、彼の死は過激自慰行為による不慮の死ではなく、政治的なテロとみなされることになった。
フェルディナント大公はサラエボ訪問を予定しており、暗殺計画書には訪問日程の詳細が下書きされていたことから、セルビア政府・軍内部に暗殺計画の首謀者がいると推定された。
その容疑者と目されたセルビア軍諜報部長のドラグーティン・ディミトリエビッチが陰部に愛国者ビールを挿入して死亡した状態で発見されたことで、セルビア政府はオーストリア当局による暗殺を疑うことになった。
司法解剖の結果、死亡予測時刻はプリンツィプとほぼ同時刻と推定され、二人は同時に逝ったことになる。
ちなみに愛国者ビールとは、サラエボの酒造メーカーが販売していた麦酒である。
愛国者ビールはラベルにロシア皇帝やスラブ民族の英雄の肖像をプリントしてスラブ民族主義に訴えるコマーシャルを行うことで右翼思想の青年を中心に販売を拡大していた。
セルビア世論は、自国の軍人がニコライ2世の肖像をプリントした愛国者ビールを陰部に挿入した状態で殺害されたことをスラブ民族全体に対する侮辱と見なして激昂した。
オーストリア政府は一切の関与を否定したが、ロシア帝国の後援を受けられることを確認したセルビア王国から最後通牒を突きつけられると軍の動員を開始することになった。
オーストリア軍の動員に反応したロシア軍も動員を開始したことで、玉突き事故的にドイツ軍も動員を実施した。
ドイツ軍は、ロシア軍に後背を突かれる前にフランス軍を撃破するために中立国のベルギーへ侵攻、シュリーフェン・プランを発動して第一次世界大戦の幕があけることになる。
なお、現代ではプリンツィプの死はセルビア人が書いた書籍や一部の陰謀論を除けば、概ね事故死と結論付けられている。
当時としても司法解剖の結果は心不全とされており、事件性はないという結論だった。
同様にディミトリエビッチの死も直腸からのアルコール大量摂取による急性アルコール中毒によるものだった。
プリンツィプの自宅からは、ディミトリエビッチからの愛を綴られた手紙が発見されており、おそらく二人は日常的にそうした関係にあったと思われる。
ただし、現在でもセルビアでは二人の死は過激自慰行為による事故死ではなく、オーストリア当局による暗殺だと信じられている。
さて、全く意味の分からない理由で始まった大戦争は、当初、クリスマスまでに終わると考えられていた。
そうでもなければやっていれないというわけではなく、欧州各国が経験してきた戦争に照らし合わせた推論だった。
普墺戦争は7週間で終わり、普仏戦争も1年足らずで終わっていた。
次もそうなるに違いないと前線に向かう兵士たちは家族や恋人にクリスマスまでに帰ると約束して戦場へと旅立ち、そして大半は2度と戻らなかった。
パリへの迅速な進軍を目指したドイツ軍のシュリーフェン・プランは、フランス軍とベルギー軍の抵抗で9月までに破綻に追い込まれ、スイス国境から大西洋の海岸まで続く長大な塹壕がヨーロッパを二分することになった。
開戦時にドイツ軍の参謀総長を務めた小モルトケは戦争の先行きに悲観して神経衰弱症となり、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインが後任となった。
決して、過激自慰行為で始まったイカ臭い戦争で大量の若者を死に追いやったことに絶望したわけではない。
小モルトケはドイツ帝国の立役者となった大モルトケと比較され、その能力に疑問符をつけられることが多い。
しかし、少なくとも先を見通す能力に関しては大モルトケと遜色ないものがあったと言える。
ドイツ帝国は小モルトケの予見したとおり、4年後の1918年に敗戦した。
ヨーロッパで始まった大戦争から日本は注意深く距離をとった。
クソミソな理由で始まった戦争に関わることに生理的な嫌悪を覚えたわけではなく、純粋に日本の国益に全く関わりがない戦争だったためである。
しかし、立ち位置は英仏寄りだった。
日本は英仏が要求した武器弾薬や食料といった戦争遂行に必要なあらゆる軍需物資の販売に応じ、旧敵であるロシアにさえ武器弾薬を売却した。
このような商取引は英仏の海上封鎖をうけるドイツでは絶対に不可能だった。
日本は英仏の出した戦時国債を大量に引き受けるだけではなく、円借款も実施して連合国の戦争を資金面からも支えた。
大坂の堂島金融街が、一日の取引額でシティを追い抜き、ニューヨークのウォール街と金融覇権を二分することになったのも第一次世界大戦以後のことである。
日本全体が戦争特需によって空前の好景気となり、戦争成金が日本全国に誕生することになった。
戦争成金の金満ぶりは、料亭で明かりをとるために札束を燃やす逸話が有名だろう。
彼らは近世以来の日本における富裕層とは全く異なる新しい富裕層だった。
それまでの日本の富裕層といえば、愛知時代からの富農や富豪、元大名家の華族といった100年単位の歴史を抱える名家名族と相場が決まっていた。
逆に言えば、富が極めて偏在した社会だったとも言える。
しかし、大戦特需によって社会は大きく変わった。
それまで浪費や消費生活に無縁だった労働者や給与生活者でさえ、都市郊外に一軒家を買って一家一台自動車を乗り回すことができる時代となった。
それまで一軒家や自動車というものは、基本的に近世以来の富裕層しか買えないもので、大衆は借家ぐらしが基本で、乗り物はといえば自転車でさえ高値の華だった。
日本で家電製品市場というものが成立するのも、世界大戦以後のことである。
大日本帝国が空前絶後の版図を広げていたとしても、大衆の生活は豊かさからは程遠いものだった。
富が偏在し、金がなかったからである。
では、なぜ金がないのかといえば、金の総量が中央銀行が保有する金準備に紐づいていたからで、根本的に流通量が足りなかった。
僅かな通貨は社会の上流で堰き止められ、大衆には回ってこなかったのである。
そうした状況が根本から変革し、今日的な消費社会が実現したのは世界大戦による膨大な財政支出=通貨発行を待つことになる。
つまるところ、一部の富裕層に偏っていた通貨が、一般大衆の懐にまでジャブジャブと溢れるほどに通貨の流通量が一気に増えた。
英仏は戦争に必要な戦費調達のために金本位制を停止し、戦時国債を中央銀行に引き受けさせることで大量の不換紙幣を発行したのである。
戦費調達のために不換紙幣発行はそれまでの戦争でもしばしば行われてきたが、第一次世界大戦は文字通り桁違いの金額の紙幣が刷られた。
何しろ第一次世界大戦で消費された砲弾は敵味方あわせて13億発であり、戦費を税収だけで賄うことは900%不可能だった。
通貨を金に紐づけていては、ソンムの戦いもヴェルダン攻防戦など戦費の面から実現不可能である。
欧州の王族がマキシム機関銃を目にして、その弾薬費で国庫が破産するため非現実的な兵器として鼻で笑ったのは、金本位制によって通貨量が制限されていた時代としては正しい認識だった。
前述のクリスマスまでに戦争が終わるという推論も、そうしなければ国庫が破綻する(金本位制ならば)という理屈があったし、当時の主流派の経済学者もそう考えていた。
ただし、現実はソンムでありヴェルダンであり、勝つために1日30万発の砲弾が飛び交う地獄のような状況となった。
各国の経済学者や中央銀行関係者、財務当局や一般大衆の素朴な推論は、完全に間違っていたのである。
状況は日本も同じであり、金の流出を防ぐため金本位制を停止して、円借款を実施した。
つまり、日本は外国向け債権に基づき、大量の不換紙幣を発行したことになる。
英仏は日本から借りた日本円に基づき膨大な軍需物資の発注を行った結果、日本は未曽有の好景気となった。
通貨の価値を支えているのは、金という物理的な保証ではなく、国家の信用ありきという信用経済の始まりである。
そして、信用ありきである以上、その信用の主体である国家が滅びれば、発行した通貨もただの紙切れに還ることになる。
戦争が3年目に突入し、英仏の疲れが見え始めると日本が参戦を急いだのは、英仏が負けて貸した金が焦げ付くことを恐れたためである。
ドイツが無制限潜水艦作戦を実施し、日本の商船を撃沈して日本人に死傷者が発生したことも世論を動かしたが、日本銀行関係者や政府高官の念頭にあったのは未曽有の規模に膨れ上がた円借款の行方だった。
その総額は1917年には240億円にも達していた。
これは当時の日本の国家予算の12年分に相当する。
100万円を借りたら銀行があなたを支配するが、100億円を借りるとあなたが銀行を支配するという金融の格言そのままの状況だった。
金を貸していたロシア帝国で革命(2月革命)が起きて、戦争どころではなくなったことも日本の背を押すことになった。
最大の懸案は、アメリカ合衆国の動向だった。
特に1917年1月に発生したツィンメルマン電報事件は米墨の緊張を一気に高めた。
ツィンメルマン電報事件とは、ドイツ帝国の外務大臣アルトゥール・ツィンメルマンからアメリカ政府に急送された電報が大和民国のマスコミにリークされた事件である。
内容は、アメリカ合衆国が大和民国のルイジアナ藩やオクラホマ藩を領有することを認める代わりに、中央同盟側でアメリカ合衆国が参戦するというものだった。
パナマ問題で既に開戦寸前まで対立していた日本にとって、アメリカがドイツに誘いに乗って大和民国へ侵攻することは十分に考えられる話だった。
アメリカ大統領のウッドロウ・ウィルソンは電報そのものをドイツの謀略と否定した。
現在では、ツィンメルマン電報事件はドイツによる謀略工作だったことが判明している。ドイツの諜報機関は日米関係を緊張させることで間接的に参戦を阻止しようとしていた。
実際に電報事件に接した大和民国政府はアメリカの説明に納得せず、防衛のために軍の動員を行ったことから、アメリカ軍も対抗して動員を行うこととなり、国境緊張を理由にアメリカ合衆国は第一次世界大戦そのものへの参戦を見送ることになった。
ドイツの外交工作は半分成功したと言えるだろう。
しかし、日本の参戦までは阻止することはできなかった。
日本の対独宣戦布告は1917年4月18日である。
同年6月には日本軍の第一陣がフランスに到着し、1918年末までには45個師団が西部戦線に投入された。
同時期、フランス軍では劣悪な戦争指導に対する反発から反乱事件が発生するなど、連合国は最悪の状況だったから、日本軍の到着は際どいタイミングだった。
日本陸軍は最終的に450万人を動員し、空前絶後の大兵団へ作り上げた。
アジアの歴史においても、これだけの大兵力は過去に例がなく、古のチンギス・ハーンの軍勢を上回る大兵力をチンギス・ハーンが行けなかった場所に送り込むという歴史に残る大事業となった。
実際、派遣先のヨーロッパ各国は、モンゴル帝国の再来として認識された。
大日本帝国の皇帝はモンゴル諸部族の大ハーンを兼ねているのだから、再来と表現するしかない。見た目もモンゴル人そっくりだったのだから、欧州社会が味わった衝撃は極めて大なるものがあった。
しかも、その大軍が戦争の帰趨を決めたことは、長らく文明の先進国を誇ってきた欧州白人社会にとって文明の終わりのようなものに見えた。
戦争に勝つために日本を戦争に誘った英仏でさえ、止めておくべきだったと後悔したほどだった。
ちなみに前線で戦っている兵力は総兵力の10分の1もなかった。
残りの9割は、日本から欧州まで軍隊を送るための後方要員である。
そして、これだけの大兵団を用意するにはもはや武士だの平民だの言っていることは不可能だった。それどころか正規教育を受けた将校などどこにもいないという状況になり、仕事の大部分を軍属に任せるか促成の予備士官にやらせるか、自前主義を諦めて民間企業に外注するしかなくなった。
戦後に、陸軍という組織が風通しのよい場所になったのは、そうするしかないからそうなったという話である。
日本海軍は地中海に展開し、金剛型巡洋戦艦4隻と出雲型戦艦4隻がアレキサンドリアに入って、連合国の制海権を盤石なものとした。
中央同盟軍は現存艦隊主義をとって、出戦しなかったため艦隊決戦は発生しなかったが、日本海軍は地中海で潜水艦掃討作戦を行って、航路の安定化に務めた。
日本軍の欧州派遣で近い将来に西部戦線で劣勢となることが確実になったドイツ帝国は、東部戦線を手仕舞いにするとその兵力を転用して最後の攻勢に出た。
ドイツの1918年春季攻勢は、これまでの戦訓に基づく新しい歩兵戦術(浸透戦術)と新装備(MP18短機関銃やMG18軽機関銃など)を投入した革新的なものだった。
砲兵戦術も刷新され、ドイツの優れた化学工業技術を投入した毒ガス弾が砲弾備蓄の30%も用意された。
それ以前の砲兵戦術は大量砲撃によって塹壕を破壊するものであったが、大量砲撃によって突破後の進撃路が破壊されてしまうという難点があった。
毒ガス弾であれば、進撃路が破壊されるおそれはなく、相手の兵士だけを殺傷することが可能であり、しかも砲撃そのものを大幅に減らすことになった。
既に英仏や日本の工業力によって砲弾の製造数で逆転されていたドイツにとって、毒ガス弾の大量使用だけが砲兵戦で勝ちを得られる道でもあった。
砲兵の射程圏内から出たあと陸軍を支援する兵器として、航空戦力も最大まで拡張されてドイツ陸軍航空隊は全盛期を迎えることになる。
ドイツ軍の攻勢開始は、1918年3月12日だった。
毒ガス弾の大量使用とMP18を装備した突撃兵の浸透攻撃で、ドイツ軍はイギリス軍の前線を突破し、パリまで120kmの距離まで迫った。
ドイツ軍は超大型列車砲(パリ砲)を投入し、パリへの長距離砲撃を敢行した。
しかし、それが限界だった。
進撃に補給が追いつかず、ドイツ軍は再び塹壕の中で止まってしまった。
ドイツの進撃が止まったのは補給の欠乏だけはなく、連合国の指揮統一といった要素も大きく、連合国軍の全軍をフランスのフェルディナン・フォッシュが指揮することになった。
日本の欧州派遣軍も例外ではなく、フォッシュ元帥の指揮の下でドイツ軍突出部に対する反撃に投入された。
ドイツ軍は、経験豊富な英仏軍に比べて日本軍は与し易い相手という意識があったが、それは完全に裏切られることになった。
日本軍は自軍と同じ浸透戦術を使って、ドイツ軍の塹壕を突破してきた。
自前の戦車はまだなかったが、フランス製のルノーFT17軽戦車を譲渡されており、浸透戦術と巧みに共同させる工夫を行った。
さらに歩兵の手にはモンドラゴン小銃が握られていた。
日本軍が浸透戦術を採用したのは、1908年のことで実は第一次世界大戦以前のことだった。
シベリア戦争でロシア軍の塹壕線に直面した日本軍は膨大な犠牲者を出すことになり、戦後に新戦術として浸透戦術を考案することになった。
ロシア軍も同様に日本軍の塹壕に苦しめられたことから同じ結論に至っており、1916年に実施されたロシア軍のブルシーロフ攻勢で用いられた浸透戦術はシベリア戦争の経験を下敷きにしたものだった。
ドイツ軍が新戦術と考えていたものは、日本やロシアにとっては10年前に通り過ぎた場所だったとも言える。
モンドラゴン小銃も日本式の浸透戦術にあわせて開発されたもので、メキシコの兵器開発者マニュエル・モンドラゴン将軍が設計を担当した。
モンドラゴン小銃はロングガスピストン方式の世界初の実用自動小銃だった。
日本軍制式の6.5mm弾を使用することで、反動を抑えつつフルオート射撃が可能となっており、世界初のアサルト・ライフルと評価されることもある。
ただし、日本軍としては機関銃としても利用可能な小銃という位置づけだった。
歩兵分隊が交互に素早く前進して分隊単位でフルオート射撃を行うことで火制して、素早い前進を可能とする構想だった。
この構想はドイツ軍の機関銃に対してはあまり効果的ではなく、小銃で機関銃と射撃戦をしても勝てないという当たり前の結論に落ち着いた。
ただし、日本軍には擲弾筒というシンプルな構造の軽迫撃砲があり、ドイツ軍の機関銃は陣地転換を怠ると生き残ることができなかった。
ドイツ軍は諜報活動でモンドラゴン小銃の存在は察知していたが、フルオート射撃可能な小銃の大量配備が実現するとは考えておらず、実戦の洗礼を浴びて驚愕することになった。
実際に日本軍も1908年に制式化したモンドラゴン小銃の大量配備は第一次世界大戦勃発で予算が青天井になるまで実現しなかったのでドイツ軍の予想は半分は正解だったと言える。
1918年8月までに連合国軍は、西部戦線で大攻勢に出てドイツ軍を押し返し、フランス国内からドイツ軍は一掃されることになった。
友軍の撤退を助けるため、ドイツ軍は死守命令を乱発した。
ただし、この場合の死守命令とは文字通りの意味ではなく、弾薬が尽きるまで持ち場を守って友軍撤退を助けるというもので、弾薬が尽きれば投降することも可能だった。
実際には投降できるかは運次第であり、とあるドイツ軍の伍長が日本軍海兵隊の捕虜となったのはかなり幸運な例と言えた。
捕虜収容所に送られた伍長はあらゆる尋問に沈黙を貫いたため、氏名は不明である。
ただし、他の捕虜からの聞き取りによってオーストリアのブラウナウ出身であることが分かったため、終戦後の捕虜送還の際に故郷のオーストリアへ送られることになった。
件の伍長は自分がオーストリアに送還されることを知ると沈黙を破って、自分はドイツ人であると主張し、ドイツ行きへの列車に乗りたいと訴えが、捕虜移送を担当した日本兵はドイツ語が分からなかった。
かろうじて聞き取れたドイツ語は、
「Ja, rein, ja(ヤ、ライン、カ)!」
というもので、その言葉で著しい劣情を察した日本兵はその伍長を駅舎のトイレへといざなった。
それはさておき、戦況が絶望的になったことからドイツ軍は和平を模索することになる。
しかし、戦局打開の望みも捨てておらず、自殺的な艦隊出動が計画された。
これは却って無謀な作戦に反対する水兵反乱を招き、ドイツ全土での暴動に発展してドイツ革命に至る。
戦時中からドイツでは食料生産に問題があり、配給では成年男性に必要なカロリーを賄うことができない飢餓状態だったため食料暴動が頻発していた。
それでも国民が耐えていたのは、ドイツの勝利を確信していたためである。
これは軍当局の情報操作であり、戦争の実相は国民どころか政府高官でさえ正確には把握していなかった。
軍部が正確な戦況を白状したのは、戦局打開の望みがなくなった1918年10月の話である。
信じていた軍部から嘘を吹き込まれてたことを知った国民の怒りはドイツ帝国そのものを破壊することになった。
1918年11月11日、フランスのコンピエーニュの森に置かれた列車の車両で休戦条約が署名され、第一次世界大戦は終わった。
大戦における死傷者は軍民合わせて2,200万に達し、日本の欧州派遣軍では約11万人が死亡した。
民間人の死傷者が膨大な数となったのは、民族主義の高揚による軍隊による非占領地でのジェノサイドや双方が行った飢餓作戦といった影響が大きかった。
ドイツでも精神病患者や障害者といった社会的弱者が戦時中に7万人も餓死へ追い込まれた。
列強国のドイツでさえそうだったので、ロシアなどさらに貧しい国では推して知るべしである。
さらに国家が崩壊したオスマン・トルコ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国では民族主義のもとに異民族の虐殺、追放が行われて大量の難民が生じることになった。
あまりにも膨大な犠牲を払うことになった欧州では、極端な平和主義が台頭し、戦争をおこしたドイツへの懲罰が正当化されることになる。
それはそれで次の戦争の火種を作り出すことになったので、歴史から正しい教訓を導き出すことは極めて難しい。
ただ一つ確かに言えることは、陰部へ異物挿入を伴う自慰行為の最中に死亡すると大変なことになるということだけである。




