ダイ・ハーン
19世紀の前半、日本に産業革命がやってきた。
日本における蒸気機関の需要は、鉱山の排水設備から始まり、次に島国日本の物流を担う海運に用いられ、三番目に陸蒸気(鉄道)として受け入れられた。
工場の動力としての需要が最後になったのは、豊富な水資源を背景に水力機械が発展しており、置き換えに時間がかかったためである。
しかし、一度置き換わってしまえば水力に戻ることはなく、日本の諸都市は石炭煤煙に覆われ、空は光化学スモッグで七色に輝くことになった。
公害問題や労働問題が発生するのもこの頃からで、労働基準法や環境保全法は流血によって書かれることになる。
どこの国でもそうだが、19世紀に残業代は存在しないし、就労年齢制限もないので、10歳の子供を安全規則皆無の工場で死ぬまで働かせることは合法だった。
むしろ身軽で背丈の低い子供は蒸気機関のスチームパイプを張り巡らせた工場において、大人の手がとどかない狭い場所や高所作業に適するという評価さえあった。
モンキーレンチという工具は、小さな子供が猿のように工場の天井を飛び回って、スチームパイプのボルトを開け閉めするために作られた工具だった。
もちろん、子供は猿ではないので天井から落下したら死んでしまう。
そういう時代を経て、今があることを忘れてはいけない。
さて、1840年代に日本は鉄道狂時代を迎え、全国に300社を超える鉄道会社が乱立した。
そのうち、大手私鉄で生き残って現代まで生き残っているのは僅か16社である。
16社以外は杜撰な経営計画、あるいは安全規則の不備による重大事故の発生によって倒産するか、吸収合併されて歴史の彼方に消えていった。
ここにも形を変えた流血の歴史がある。
ちなみに生き残った私鉄の中でも最も古い歴史を誇るのが名古屋鉄道株式会社である。
今日も赤い名鉄電車が名古屋に住む1,000万人の足として活躍している。
この特徴的な塗装は蒸気機関車時代にも既に存在しており、19世紀の名古屋では赤蒸気として親しまれていた。特徴的なホーンミュージックも開業から10年以内には既に定着していたとされる。
それはさておき、日本の産業革命を支えた蒸気機関はもっぱらイギリスからの輸入品だった。
その名残は鉄道軌間に残されており、日本の鉄道もイギリスと同じ国際標準軌 (1,435 mm)を採用している。
日本に最初の蒸気機関車を輸出したのは、イギリスのバルカン・ファウンドリー社で、その第1号機「強竜号」は国の重要産業文化財となっている。
日本の鉄道開業は、1831年6月12日で名古屋と横浜を結ぶ品川線が初である。
蒸気機関車のみならず、蒸気機関全般は当時の最新技術の塊であり、極めて高価な代物だった。
それを大量に輸入できたのは、イギリスの膨大な紅茶需要に依るところが大きい。
いわゆる、茶と鉄の交換である。
茶と鉄の交換とは、日本が紅茶をイギリスに輸出して英ポンドを手に入れ、その金で蒸気機関を買うという仕組みである。
この場合の茶とは、日本が独占的に中国から仕入れていた烏龍茶や紅茶などである。
茶は、世界の工場として君臨した19世紀のイギリスにおいて、労働者を休みなく働かせるためにはなくてはならないカフェイン供給源だった。
日本が中国の茶を独占できるのは、17世紀以来の清と日本の東アジア的な外交が関係してくる。
清は日本に海賊行為の停止と沿岸防衛を委ねる代わりに、日本に歳幣(貢物)を渡すという傭兵契約を交わしており、これによって鎖国体制を完璧なものとしていた。
19世紀に入ると清が財政難になり歳幣はなくなったが、代わりに開港地を設けて日本の商人だけに市場を解放する広東システムをとった。
広東システムも国家による管理貿易であることは変わりなく、日本は清の輸出物産を独占することができた。
日本の貿易特権は、開国・自由貿易を求めるイギリスにとっては不満の残る話だった。
ではそれを覆すために日本と戦争をするのかといえば、あまりにも割りに合わない話となる。
そもそも日本は欧州から遠すぎた。
そして、中国は日本から近すぎた。
例えどれだけおいしそうに見える垂涎の獲物であっても、隣に指定広域暴力団が事務所を構えているのに粉をかけにいくアホはいない。
事務所の前を通ることさえ然るべき筋を通さなければ危険だった。
そもそも、欧米諸国は日清の特殊すぎる東アジア的国家関係をあまり理解できていなかった。
なぜ日本のような列強国が、清のような遅れた国に土下座パフォーマンスを毎年行っているのかわからなかったのである。
イギリスだけはおぼろげに日本と清の関係性を理解していたが、ロシアやフランスなどは清を日本を超える軍事大国と誤解していた。
それほどまでに19世紀の日本の海軍力は強大なものとなっていた。
広大な太平洋を巡る帆走巡洋艦(3貫砲44門搭載)を主力に、大小200隻の軍艦を保有する豊臣海軍はイギリス海軍に次ぐ世界第2位の海軍だった。
豊臣海軍は蒸気機関の導入にも熱心で、1838年に早くも外輪推進式蒸気軍艦を就役させている。
これはイギリス海軍に遅れること5年であり、当時としては十分に早い導入だった。
ただし試作蒸気巡洋艦「巨虎丸」は操舵装置の故障によって制御不能となり、浜辺に乗り上げて全損して短命に終わっている。
これは余談だが、巨虎丸という船名はその後も様々な形で復活するが、そのたびに重大事故を起こしたため、呪われた船名として現代では使われなくなっている。
環太平洋の植民地帝国を築いていた日本が、中国に手を出さなかったのは、貿易の利益を独占できていることや人口稠密な中国が移民先として不適だったことが大きい。
また、広大な領土を得た日本は世界各地で領土紛争を抱えるようになっていた。
ルイジアナ戦争(1846~48年)は、日本とアメリカ合衆国との国境を巡る争いだった。
日本は本国軍のみならず多数の現地民兵を動員することでアメリカ合衆国の西進を押し返した。
しかし、今度は現地民兵が愚連隊化(本国視点)して、大塩平八郎の乱を招いた。
広大な大平原に逃散した大塩軍残党の掃討は容易なことではなかった。
大きなうねりとなっていく北米の独立運動を日本が押し込めることができなかったのは、同時期に日領東印度でアチェ紛争(1850年)や東ティモール紛争(1855年)など小規模な反乱が相次いだ上に、安政の大地震が発生してその対応に追われていたということもあった。
そのため、大きなトラブルがなかった中国はしばらく放置された。
ただし、それも産業革命の進展で生産力が拡大すると徐々に変わっていくことになる。
産業革命を迎えた日本における最大の輸出物産は衣料品だった。
国産や中国から輸入した生糸、加州や豪州産の綿花、羊毛を材料とした紡績と製品加工した衣料品は確実な需要が見込めることから工業化の初期段階に発展しやすい軽工業であり、日本もその例に漏れず、19世紀における紡績大国となった。
工業生産された廉価な日本の衣料品は環太平洋の日本の植民地へと輸出され、地場の紡績産業を破滅させることで膨大な利益を日本にもたらした。
このあたりは、伝統的なインドの手工業的な紡績産業がイギリスからの輸出によって壊滅したことと同じ構図となる。
19世紀における帝国主義とは、工業化を果たした国が工場生産された大量の商品のはけ口を求めて新たな市場を開拓(植民地化)するという社会の潮流である。
未熟な資本主義の論理的な帰結とも言える。
欧州各国に分割統治されたアフリカ大陸などはまさにその典型例であり、宗主国に一方的に工業原料を供給させられ、製品加工されたものを有無を言わず輸入させられるという経済の下部構造に組み込まれていった。
白人優越論やキリスト教的なヨーロッパ至上主義などはその付属品に過ぎない。
ちなみに同時期の日本人も似たような価値観に染まっており、自国の植民地政策を文明開化と呼んでいた。
未開の国に文明をもたらすという意味である。
また、日本民族の優越性を誇示するために似非科学にも手を出しており、日本原人論を吹聴して日本列島からアジアに人類が広まったという現実とは真逆の考古学が展開された。
白人優越論のパロディか、それとも対抗意識を燃やした結果なのか判断が分かれるところであるが、学問の発展を社会が歪めた例と言える。
さて、工業化を果たした日本は、商品のはけ口として膨大な人口を抱える中国の植民地化に乗り出すことになる。
時勢も日本の中国植民地化を後押しした。
ロシアの南下政策である。
ナポレオン戦争においてナポレオンを打ち破ったロシアは、広大なシベリアを植民地としてイギリス・日本に並ぶ三大勢力の一角とみなされていた。
軍事的な評価に限れば、ロシア帝国はナポレオンと直接対決せず漁夫の利で勢力を拡大した日本よりも高く評価されているほどだった。
ロシア帝国の東進で得たシベリア植民地は天然資源の宝庫だった。
問題はそれを輸出するための港がないことである。
既存のロシアの港はいずれも冬に凍結して使えなくなるという問題があり、不凍港獲得がロシアの次の戦略目標となった。
これに英仏が対抗して発生したのがクリミア戦争(1853~56年)となる。
また、ロシアはインド洋への南下を画策して2度に渡るアフガニスタン戦争を起こした。
黒海やインド洋の出口をなくしたロシアが目を向けたのが東アジアだった。
ロシアは1689年に清と結んだネルチンスク条約を無視して外満州へ侵入したのである。
外満州とは、清にとって王朝発祥の地である満州の外側に広がる領域で、ロシアから始祖の土地を守る緩衝地帯と言えた。
ロシアの狙いは外満州の海沿いの領域で、海参崴と清が呼んでいた場所には天然の良港がひろがっていた。
ロシア軍の国境侵犯と要塞建設を受けて清の八旗軍(正規軍)が出動した。
しかし、長きに渡る平和と中華王朝的な腐敗によって清の正規軍は機能しなくなっており、兵数では3倍の戦力があったにもかかわらず、殆どなすすべもなくロシア軍に大敗することになった。
ロシア軍は、クリミア戦争で英仏軍が使用して猛威を振るったミニエー弾を国産化して使用した。
これは従来のマスケット銃の5~6倍の射程距離と高い破壊力があり、ナポレオン時代の戦列歩兵戦術を一気に旧式化する画期的な新兵器だった。
有効射程距離は900mに及び、これは当時の砲兵とほぼ互角の戦闘距離だった。場合によっては、砲兵を歩兵が銃撃して壊滅させることさえ可能になった。
大砲に防楯をつけるようになるのもミニエー弾が登場した後のことである。
それまで日本海軍という海の防壁によって欧州勢力の侵入から守られてきた清にとって、ロシア軍との戦闘は初めて経験する近代戦争はもはや厄災のようなものだった。
追い詰められた清が日本に援軍を要請し、介入の時期を伺っていた首相の石田直成はこれを快諾し、ただちに日本軍を出動させた。
これによって日露が直接対決する外満州戦争(1858年)が勃発する。
石田直成は、代々豊臣家に重く用いられてきた佐和山藩石田家の当主で、豊臣家絶対主義と極端なまでの合理主義を両立させていた人物と知られている。
北米では、ジーパンの志士を弾圧した人物ということで悪名高いが、本国においてはロシア帝国との大規模戦争を指導した人物であり、その評価は決して低くない。
なお、ロシア帝国の東アジアにおける艦隊戦力は少数の帆走スプールのみで、豊臣海軍には全く問題にならなかった。
そのため、太平洋からロシア海軍を駆逐すると豊臣海軍は遠くインド洋や大西洋に進出してロシア商船を追いかけ回して拿捕することに夢中となり、中立国の英領カナダのバンクーバーに逃げ込んだロシア船を砲撃するバンクーバー事件を起こしている。
豊臣海軍にとっては久しぶりの大規模戦争だったことから、興奮が抑えられず思わず百破の精神が発露してしまった事例と言えるだろう。
欧米各国は豊臣海軍の高い能力と攻撃性を再確認することになった。
さて、外満州に展開した日本軍はおよそ15個師団で、先遣の海兵隊はアムール川を遡上してシベリア内陸部へ展開した。
この時、風向きに関係なく河川を遡上できる蒸気船が活躍したことで、日本海軍は蒸気船の優位性を確信することになり、以後の新造艦は全て蒸気船に変更された。
日本軍とロシア軍の衝突は、アムール川に築かれた哨所を巡る戦いから始まり、ロシアが伝統的な後退戦術を採用し、ネルチンスク要塞で日本軍との決戦を挑むことになる。
双方の展開する戦力はほぼ同数だった。
ロシア軍の全兵力を考えれば、少ないとも言えるが、シベリア鉄道が影も形もない19世紀半ばのシベリア奥地での戦争であるためこれが限度だった。
双方ともに鉄道は使えないため、補給は河川交通と馬匹輸送が全てだった。
ただし、本国から近い日本が補給では有利で、さらに清から駄馬や人夫を調達することも可能であり、ネルチンスク要塞を包囲して長期戦を戦えるだけの体制を整えた。
極東のセヴァストポリ要塞と豪語するだけあってネルチンスク要塞は容易に陥落しなかったが、多数の犠牲者を出した攻防戦の末に陥落し、外満州戦争は日本の勝利に終わることになる。
ロシアと清は1689年に交わしたネルチンスク条約の効力を確認して、極東でのロシア南下政策は破綻に追い込まれた。
クリミア戦争に破れ、さらに外満州戦争に負けたロシアでは、国政の改革機運が盛り上がり政治的な混乱期に突入することになる。
なお、外満州戦争においてロシアは賠償金の支払いを拒否した。
そのため、日本は戦勝国の権利として代わりに中国から取り立てることになった。
むしろ最初からそれが目的だったとさえ言える。
もちろん、日本は外満州を割譲せよとかロシア人のような強欲な提案はしなかった。
日本が清に求めたのは、鉄道の敷設権だった。
鉄道敷設は、日本が全額費用を負担し、維持・管理も日本が負担して行うものとされた。
これはロシアが再び南下した際に迅速に戦力を送り込むためのものと説明された。
実際、ロシアは輸送力強化のためフランスから金を借りて猛烈な勢いでシベリア鉄道建設に邁進したので言い分としては誤っていない。
19世紀後半になると鎖国中の清でも欧州の産業革命が様々な形で伝わっており、特にわかりやすい文明の利器として鉄道には強い関心が集まった。
それを清の国防に役立てるため、無償で建設するという日本の提案は、清にとっては望外の喜びとなった。
皇帝を取り巻く宦官たちは、300年に渡る馴致によってついに東夷が父兄の国に奉仕するという崇高な義務に目覚めたと喜んだとされる。
彼らが本当に喜んだのは賄賂の方だったのだが、表向きはそういう話になった。
鉄道の敷設権以外に300年に渡って日本が実効支配する台湾や沖縄についても、日本の領有が認められた。
これは実態を追認するという以上の意味はなかった。
当時の清は、王朝末期にありがちな腐敗によって経済が停滞しており、日本の金で公共事業が行われることに世論も大賛成だった。
国土に外国人を入れることへの拒絶反応もないわけではなかったが、日本が洋務運動に援助を提案すると対価として受け入れ已む無しとなった。
洋務運動とは、主に軍備を中心とした新技術導入政策の総称で、外満州戦争で技術格差に驚いた清が実施した近代化政策である。
日本は清から大量の留学生を受け入れ、最新兵器の輸出にも快く応じた。
欧米の外交官からすると不気味としか言いようがない恭しい態度だった。
もちろん、これらは日本が華夷秩序に目覚めて清に奉仕したわけではなく、ましてや善意で行っているわけでもなかった。
清での鉄道建設は植民地支配のための鉄道建設だった。
鉄道建設に際してその沿線は鉄道付属地ということで、建設や運用行員に必要な日本人居留地が築かれた。鉄道附属地には日本人居留者の生活を支えるために日本企業を進出し、中国の鎖国体制を無効化して日本の輸出商品を中国市場へ洪水のように流し込んだ。
近代工業生産された日本の商品は、清の国産品よりも圧倒的に廉価且つ高品位なものであり、清の伝統的な紡績産業が対抗する方法は関税による防御しかなかった。
実際、清は外満州戦争以前は国家主導の管理貿易体制によって、日本からの輸入を制限し、伝統的な産業を保護していた。
しかし、鉄道付属地は治外法権であるため関税による防御は全く不可能だった。
そもそも商品を買いに来るのは中国人の勝手だった。
さらに中国人の商人が日本人居留地に進出した日本商社から日本製品を仕入れて販売することも、中国人の勝手であり、特に日本側が無理強いした結果ではなかった。
同じ商品が半値以下で買えれば、誰でも安い方を手に取るという話である。
関税や非課税障壁なしで先進国と後進国が自由貿易で勝負をしたら勝ち目はないのだった。
様々な輸入品が日本の手によって持ち込まれた清では、膨大な国富が流出することになった。
特に決済のために銀が使用されたことから、日本へ大量の銀が流出した。
清の納税は銀で行うものだったから、銀の流出によって税収がまともに入らなくなった清は財政難に陥った。
それでも西太后が頤和園の造営といった奢侈な生活を送ることができたのは、日本の銀行団からの融資によるものである。
名古屋に本店をおく愛知銀行や名古屋銀行は、西太后に対する膨大な貸付を梃子に清の徴税権さえ掌握して膨大な富を搾取し、現代まで続く金融財閥を作り上げた。
さらに船や馬車といった中国の伝統的な物流手段よりも圧倒的に早く大量の物産を運ぶことができる鉄道は、清の物流システムを根本から破壊して置き換えることになった。
そして、物流システムを制するということは、殆どその国の経済そのものを支配することに等しい。
清の政権中枢が事態に気がついたのは、国内産業の壊滅で膨大な失業者が発生して治安悪化がどうしようもなくなり、その果てに義和団事件(1900年)が勃発したときだった。
この時点で、日本による中国植民地化はほぼ最終段階にあった。
1866年に大和民国の独立を許すという失政がありながら第15代豊臣関白秀慶が、初代秀吉と同格と見なされているのは歴代豊臣関白が果たせなかった”征唐”を成功させたからである。
また、秀慶は叔父の秀定が時間切れで果たせなかった国家の近代化事業を完成させたことも高く評価されている。
特に陸軍の近代化は秀慶時代に大きく進んだ。
前述のとおり日本は外満州戦争に勝ったものの実際は問題山積みだった。
特に日本陸軍は兵員の不適格や戦闘拒否が相次いで大問題となった。
これは陸軍の兵員を全て武士で揃えるため、身体的に健全とは言えないものでも徴兵の対象としていたことから発生していた。
中には70歳を超える老人でさえ兵員としてカウントしている場合もあった。
陸軍は廃藩置県で職を失った武士の再就職先という面があり、武士としてしか生きられず、他に行き場のない身内を保護するために、定年を誤魔化すことが横行していたのである。
また、徴兵期間も7年と長過ぎるため、軍隊そのものが一般社会から遊離した存在と成り果てていた。
徴兵回避のための代替人制度もあり、富裕な士族の子息が金で雇った者を代わりに入営させるということも多かった。
結果として代替人を中心に戦闘拒否が相次いで発生した。
平和な時代に金目当てで軍隊に入ったものが、実戦で役に立つわけがなかった。
さらに外満州戦争での戦費調達のために行った不換紙幣の発行がインフレを招き、不換紙幣回収のために行った増税と緊縮財政が戦後デフレーションとなって日本経済を襲った。
その結果、北米ではついに不満が爆発して戦端が開かれ、北米独立戦争に至った。
太平洋の向こう側という遠隔地の、さらに内陸部での戦いということで日本陸軍は外満州戦争以上の苦戦を強いられた。
前述の問題も殆ど解決しておらず、カンザス会戦は負けるべくして負けたというべき戦いと言えるだろう。
1866年に大和民国が独立する形で戦争は終わり、前述のロシア帝国と日本も政治的な混乱期に突入することになる。
困難な政局を舵取りすることになった秀慶は、ここで初代秀吉の再来とも言われる剛腕を奮う。
敗戦責任を問う世論に対して、秀慶は責任を率直に認めた上で関白職を引責辞職した。
その上で、無位無官の一個人として国家と民族に対する責任を果たすとして国家改革の先頭に立つと宣言、10年以内に憲法制定と議会開設をぶちあげた。
憲法制定は、国家近代化のために必須とされながらも超法規的な豊臣関白家の権力を制限することになるため見送られてきた経緯がある。
豊臣関白が自ら憲法制定を約束したことは当時として大和民国の独立と同等か、それ以上のセンセーションだったと言える。
議会開設も同じ理由で見送られてきたこともあり、憲法制定と議会開設で世論の風向きは完全に変わった。
さらに議会開設地は誰も予想しなかった熱田と発表された。
熱田は濃尾平野の南の端にある台地で、当時は熱田神宮を中心とする畑作地帯に過ぎなかった。尾張の中心地といえば、信長公以来の清州と相場が決まっていた。
実際に清州は岐阜、三重、三河、知多半島から等距離にある地理的中心であり、尾張地方の政治・経済の中枢を置くには最適な場所だった。
そのため、清州の南側にある熱田台地は19世紀になってものどかな風景が広がっていた。
秀慶が望んだのは尾張の中心ではなく、太平洋帝国の中心となる近代政治都市だった。
計画では熱田台地の北の端には天皇を迎える荘厳な皇居を建設し、皇居正面から横幅2町(200m)の中央大道を熱田神宮に向かって伸ばし、その両脇に帝国の中枢を担う巨大な官庁街や帝国議会、首相官邸、それらを支えるスタッフが暮らす最新設備を備えた鉄筋コンクリート造りのアパルトメントが最新の都市計画理論に基づいて配置された。
台地の中央には巨大な栄中央駅を建設し、栄から南側から熱田神宮までは商工業エリアとして整理された。
上下水道の完備は当然のこととして、当時としては最新の交通システムである地下鉄を備えるなど、19世紀の人工都市計画都市の最先端をゆく内容となっていた。
新たな帝国の首都は、遷都の暁には世界の中心として栄える都として「中京」の名を冠することとなった。
世論は、憲法制定や議会開設だけでもパニック寸前だったが、平安以来の遷都が明らかになると北米での敗戦を忘れて熱狂した。
この種の空気感の操作は初代秀吉が得意としたところであり、そういう意味でも秀慶は初代秀吉の再来だったと言える。
豊臣家主導の上からの近代化として大日本帝国憲法の発布と帝国議会の開設がなされたのは1877年のことである。
大日本帝国憲法は東アジア初の近代憲法である。
起草にあたってはプロイセンの憲法を参考とし、天皇を主権者とする立憲君主制を採用しているが、天皇は象徴的な役割しか持たない割に首相の権限が弱く、天皇の元に内閣や軍部、議会、枢密院といった輔弼機関が並立する形となっていた。
これは豊臣家という超法規的存在に起因しており、豊臣家よりも強い首相を作らせないという意図があった。
そのため、政府と軍部の意見が対立した場合でも、君主である天皇は要望(お願い)を述べる以上のことはできず、調整役は引き続き豊臣家が担うことになった。
憲法発布に伴って関白職は廃止されたが、実質的に豊臣家は関白の座を守ったと言える。
これは余談だが、関白制度廃止に伴って最後の豊臣関白となったのは、憲法制定や議会開設を主導した秀慶ではなく、子の豊臣秀頼である。
関白職は古典的な宮中行事にも参加する必要があり、現実政治に専念したかった秀慶は形式的に引責辞職という形で関白職を秀頼に譲り、憲法制定まで太閤として過ごした。
秀頼は秀慶の嫡男で、16歳で第16代目豊臣関白に就任すると秀慶に代わって宮中行事を担った。
最後の豊臣関白を問うのは近現代史のテストでよくある引っ掛けなので注意が必要である。
また、逆に最後の太閤を秀頼とする引っ掛け問題もある。憲法制定で関白職廃止に伴って太閤の呼称も用いられなくなったことから、最後の太閤は豊臣秀慶である。
それはさておき、議会は華族などの勅撰議員からなる貴族院と制限付き普通選挙による衆議院の二院制とされた。衆議院から首相が出るのはずっと後の話である。
それでも国家予算が議会の賛同がなければ執行できない以上、政党政治の勃興は不可避だった。
近代憲法の発布された1877年は政治のあり方が憲政に置き換わった年であり、同年の中京遷都に併せた改元により、以後の時代区分を中京時代と称することになる。
というのは合理主義者だった秀慶が改元のたびに多額の国費を支出することは無駄遣いと断じており、改元令を新たに制定して遷都以外の理由による改元を禁じたためである。
よって、西暦2026年は中京150年にあたる。
中京都では150年目の節目ということで各種国慶式典に加えて環太平洋スポーツ大会の開催や熱田神宮の大修造が行われた。
それはさておき、憲法制定や中京遷都のため秀慶は非常に多忙な身だった。
それだけが原因ではないが、日本の中国植民地化はスローペースで進んだことから、清朝の為政者達は事態が深刻になるまで危機感をもたなかった。
前述の義和団事件でさえ日本の支援で国家経済が近代化し、国中に鉄道(日本資本)が張り巡らされ、社会がますます便利になっていくのに、なぜ民が怒って反乱を起こしたのか分からなかったほどである。
秀慶は義和団事件が起きたその年でさえ、清に対してもはやナンセンスギャグとしか思えない土下座の使者を送り、軍事的な威圧といった手段には訴えていなかった。
むしろ敢えて避けていた節さえある。
なぜならば、
「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり」
と孫子の兵法を紐解くまでもなく最上の勝利に位置づけられているからである。
秀慶は、半世紀かけて中国に鉄道網を広げ、経済的な侵略を行うことで、ついに初代豊臣秀吉の悲願である唐入りを成し遂げたと言える。
その方法は秀吉が想定したものではなかったが、秀吉の望んだことは殆ど叶うことになった。
一応、秀吉が文禄・慶長の役で目指した北京にも日本軍は1901年に入城した。
流民や暴徒を糾合して巨大化した義和団が北京に乱入し、その圧力に屈した西太后が日本へ宣戦布告したためである。
扶清滅日を掲げて、日本の経済支配を打破しようとした義和団20万及び清の正規軍4万は、近代兵器で武装した日本軍に一蹴された。
日本軍の投入兵力は3個師団だったので、兵員数は3万少々といったところだったから、彼我の技術格差は「圧倒的な」という言葉を用いるしかない。
特に新兵器のマキシム型機関銃は、刀剣主体の義和団や旧式銃多数の清の正規軍を一方的に撃ち崩すことになった。
秀慶主導の近代化改革によって士族の軍隊から国民皆兵への転換に成功した日本軍にとって、義和団事件とはちょうどいいデモンストレーションでしかなかった。
秀慶は、義和団によって幽閉されていた光緒帝を解放すると無謀な宣戦布告を行った西太后を失脚させ、日本へ留学した経験がある漢人官僚と日本人官僚を中心とした政治改革を行わせた。
あまりにも社会が混乱しすぎると商売の邪魔になるからである。
また、そこそこ近代化してくれないと商売がやりずらいという理由もあった。
光緒新政と呼ばれる政治・経済の改革によって、中国国内は漸く落ち着きを取り戻すことになった。
ただし、権力を追われた守旧派、特に西太后は巻き返しを図り、ロシア帝国に接近した。
ロシア皇帝のニコライ2世は、バルカン半島方面での南下政策によるドイツ帝国との対立激化に嫌気がさし、あまり分が良くない勝負と知りつつ、西太后との取引に応じた。
幽閉先の頤和園から逃亡した西太后がロシア大使館に逃げ込み、引き渡しを求める清とロシアの間で一触即発となった。
清の民衆は西太后の政治的無責任に長年に渡って苦しめられてきたことから、暴徒がロシア大使館を囲むことになった。
もちろん、日本の現地組織がそうなるように煽っていた。
その手際はイギリスの同業者が見ても鮮やかと表現したほどだった。
最終的に暴徒によってロシア大使館は放火され、大使館もろともに西太后は焼死した。
大使館放火を理由にロシアは清に宣戦を布告し、清が日本の援軍を求めたことから、シベリア戦争(1905~1907年)が勃発することになる。
1858年とは異なり、日露双方が補給路となる鉄道網を整備した状態での戦争ということで、日露両軍の大軍が外満州に溢れることになった。
ロシア軍の拠点はシベリア鉄道の終点チタ、日本軍はハイラルに軍を送り込み、中間地点のヤブロノヴイで衝突した。
初戦を勝ち取ったのは日本軍だった。
本土からの近さで同時に動員を開始しても、戦場への到着はロシア軍より早く、それが兵数の差となって現れた。
しかし、時間経過で兵数の優位性は失われ、さらに戦場がチタに近づくと山地が増えて攻勢が難しくなり、開戦から半年で戦争は膠着状態となった。
双方が100万近い軍兵を短期間に動員したものの戦場が山地ということもあって、それぞれが砲兵を活かすために観測点を巡って高地の取り合いが続くことになった。
このような戦いの場合、高地に備え付けられた防御用の機関銃が猛威を発揮し、日露双方が凄まじい速度で戦死傷者を増やすことになった。
機関銃を潰すために双方が山砲を分解して人力で運搬して直接照準で砲撃を行った他、熱気球を双方が大量に使用して着弾観測に用いた。
陸の戦いは一進一退となったが、海の戦いは豊臣海軍が百破の戦いを展開した。
海軍はカムチャッカ半島のロシア海軍基地襲撃を皮切りに、インド洋のみならず大和民国の協力を確保して大西洋まで防護巡洋艦を送り込んだ。
1906年6月に大西洋へ展開した巡洋艦1個戦隊は、ロシア商船を狙って通商破壊戦を実施して、北大西洋航路を大混乱に陥れた。
遠いアジアの局地戦争だと等閑視していた欧州各国の株価は狂乱状態となった。
日本とロシアという大国間の近代戦争は、単純な2国間戦争の枠組みを超えて、世界規模の広がりを持つことになったのである。
これは10年後におきる第一次世界大戦の前触れだったと言える。
陸の戦いは、完全に第一次世界大戦を先取りした鉄条網と地雷原、塹壕線と大量砲撃の応酬となっていた。
先に消耗戦に耐えられなくなったのはロシア帝国で、戦争に反対するデモ隊へ軍が発砲したことをきっかけに暴動が全土に波及し、戦争どころではなくなってしまった。
ロシア帝国が革命で倒れるようなことになれば、大戦略が崩壊するフランスは慌てて講和の仲介に乗り出し、パリで講和会議が開催されることになった。
パリ講和条約(1907年)によってシベリア戦争は終わり、ロシアは外満州の国境線を再確認した。
前回に引き続きロシアは賠償金の支払いを拒否したが、日本が清を保護国とすることを認め、完全に極東から手をひいた。
ロシア軍が撃退されるのを見届けた光緒帝は日本の天皇に謝意を伝え、1908年に死去すると遺言により帝位が日本の天皇に禅定されることになった。
少なくとも表向きはそういう話になった。
清は国号を中華帝国に改め、同君連合という名の元に日本による植民地支配が確定し、300年の時を経て漸く北京に天皇をお連れするという豊臣秀吉の願いは叶うことになった。
1912年に即位した大正天皇(諡号)は、北京では大同帝と称され、さらに歴代清朝皇帝が兼務したモンゴルの諸部族の大ハーンであり、大和民国の元首として各種式典に参加するため、中京と北京とシアトルとモンゴル高原を往復するという多忙な日々をおくることになった。
ちなみに公式文書における天皇の表記は、「大日本国天皇 兼 中華帝国皇帝 兼 大和民国元首 兼 モンゴル諸部族の大ハーン」である。




