大和民国の独立
国家とは何か?という問いに対する明確な答えは存在しない。
ある人は人民だと言うし、ある人は土地だと答える。社会制度だという答えもあるし、国語という髑髏顔もいる。
そんなものは人間の妄想、共同幻想に過ぎないという解釈もあり得る。
しかし、我々が社会生活、共同的であろうとしようとする限り、そこに明確な答えはないとしても、何らかの合意が必要なことは明らかである。
風呂の温度に最適解は存在しないとしても、銭湯に入ろうとするならその問題を避けては通れないのである。
そこに19世紀以降は、国家の”独立”とは何かという問題が加わる。
なぜならば、日本やイギリスのような海を越えて領土を広げた大帝国は、その領域内に無数の国家内国家を抱えていたからである。
日領東印度のような場所は、大小無数の国家内国家の集合体だった。
世界地図や地球儀では日領東印度とひとまとめにされる場所は、中世以来の日本人町を基礎とする自治都市国家群や現地人の藩王国、場所によっては宗教勢力の領地といった小さな領邦の集合だった。
基本的に本国はそうした小さな領邦の内政には干渉せず、自前の軍隊を持つことも掣肘しなかった。現地のスルタンが中世レベルの遅れた軍隊を整備して、それで自国民を虐げても本国企業の活動に支障が生じない場合は不干渉を貫いた。
日本にとって重要なのは鉱山やプランテーション、あるいは本国からの輸出品を売りさばく商社・商店であって、それらはスルタンとの契約で自由・安全を保証されており、それが守られるかぎりにおいてスルタンは何をするのも自由だった。
もちろん、スルタンにも対価として膨大な収益が入る仕組みがある。
利を以て人を支配することを豊臣家の流儀と表現することもあるが、英仏の植民地支配も基本的には同じ仕組みである。
スルタンの国は一見すると独立国のように振る舞っているが、これこそ19世紀の典型的な植民地支配だった。
では、国家の”独立”とは何か?何を以て”独立”と定義するかという問いを立てると、19世紀においては”関税自主権”という回答があげられる。
なぜならば、大和民国はまさに関税自主権を獲得するために日本帝国へ独立戦争を挑んだからである。
大和民国の前史は、1682年に遡る。
フランスの探検家ロベール=カブリエ・ド・ラ・サールがこの地を探検し、当時のフランス国王ルイ14世にちなんで「ルイジアナ」と名付けた。
仏領ルイジアナ植民地は、現在のルイジアナ藩だけでなく、ミシシッピ川流域を中心として、北はカナダ境界から南はメキシコ湾、東はアパラチア山脈、西はロッキー山脈にまで及ぶ巨大な地域だった。
1718年には、ジャン=バティスト・ル・モワン・ド・ビアンヴィルによってミシシッピ川河口にヌーベル・オルレアン(新しいオルレアンという意味)が建設され、植民地の首府となった。
この広大な植民地をナポレオンは軍事費の調達や防衛の困難さ、あるいは軍事同盟を引き込むため、日本に売却した。
1803年のことである。
日本の海外領土はルイジアナ買収でついに大西洋に出口を得た。
買収した時点では、ルイジアナには日本人が殆ど住んでいなかった。
また、ルイジアナの大部分はインディアン・カントリーで、支配権を安定させるために大量の移民(屯田兵)が必要だった。
そのため、日本だけではなく欧州やアメリカ合衆国からも移住者が集まった。
当初は共通の敵がいたことから対立が表面化することはなかったが、アメリカ人は日本人を人種的な偏見からインディアン並だと見下したので対立は必至だった。
アメリカ人は日本人が築いた花のロサンゼルスの八百八町を見ても、それを日本人が築いた町だとは信じず、スペインから奪った町だと勝手に決めつけたほどである。
日本人も奉行所の命令を無視して勝手に農地や牧場を広げるアメリカ人を迷惑な存在と考えていた。
また、アメリカ人は日本の移民者が本土から勧進した寺社に放火し、ルイジアナに宮家を創設した大平原宮草仁親王にも不敬な態度をとるなど、日本人の神経を逆撫でした。
ただし、日本人は日本人で故地由来のルールや価値観を絶対的なものとし、ルール(明文化されていない)に従わないアメリカ人入植者をムラハチと称して集団リンチする悪癖があったので、アメリカ人が一方的に悪というわけではない。
人口増加に伴ってルイジアナ植民地は、分邦され東部のミソネタ藩、アイオワ藩、ミズーリ藩、アーカンソー藩とルイジアナ藩が成立する。
西部の北ダコタ藩、南ダコタ藩やモンタナ藩、カンザス藩、オクラホマ藩、ネブラスカ藩、ワイオミング藩、コロラド藩は人口希薄地帯だったため立藩はやや遅く1846年のことになる。
日本が立藩という形で支配領域の確定を急いだのは、アメリカ合衆国との対立激化があった。
特にルイジアナ藩ではそれが顕著であり、住民同士の小競り合いが頻発した。
衝突の中でアメリカ人が自警団組織ルイジアナ・レンジャーを編成すると日本人も対抗して士族を中心にルイジアナ見廻組を結成して対抗した。
ちなみに現代でもルイジアナ見廻組は、ルイジアナ藩やオクラホマ藩では公的な司法組織として存続しており、主に高速道路の警邏活動を行っている。
これは余談だが、アメリカ西部時代を舞台にした映画で、アメリカ人の主人公に瞬殺される引き立て役として登場する侍は、刀を差していること以外は殆ど架空の存在である。
丁髷を結うことは本国でも時代遅れで、アメリカ西部では似たようなヘアスタイルのインディアン部族がいたことから誤射される危険があったので丁髷はなくなっていた。
ただし、映画などではわかりやすい侍のアイコンとしていまだに使われている。
また、治安の悪い地域では護身用に武士以外も帯刀することが認められていたので、刀を差している=武士とは限らないので注意が必要である。
さらに余談だが、刀以外にも護身兵器としてピストルも広く普及しており、刀とピストルの両方の両方を装備するのが一般的だった。
刀もピストルもどちらも高価なものであるため、一時的に使用する場合はレンタルで済ますことが多く、ロサンゼルスには貸刀屋や貸ピストル屋があった。
刀剣は、加州刀といった北米産の鉄鉱石を使った洋式製鉄の大量生産品が製造されたが、ピストルなどの火器はもっぱら本国からの輸入品だった。
これは植民地の独立を防ぐための措置で、高度な武器の自作は禁じられていた。
さて、ルイジアナでの紛争が激化し、ルイジアナ在住のアメリカ人移民が一方的にアメリカ合衆国への合流を宣言したことで、戦いは日米間の国家間戦争へと発展した。
これがルイジアナ戦争(1846~48年)となる。
戦争の焦点となったのは、ヌーベル・オルレアン(英名:ニューオーリンズ)だった。
ヌーベル・オルレアン市はフランス領ルイジアナの首府であり、ミシシッピ川の河口に位置する重要な港湾都市だった。
戦争は当初、合衆国が優勢を確保した。
当時のアメリカ合衆国の人口は約2,300万人で、北米大陸での日本人がおそよ900万人だったので、それが兵数差に直結した。
ルイジアナ見廻組の装備もマスケット銃主体でレバーアクション式のライフル銃をもつ近代的なアメリカ軍騎兵隊に太刀打ちできるものではなかった。
アメリカ軍騎兵隊は新オルレアン市を包囲したが、市の周辺にはミシシッピ川の水が引き込まれ泥濘となり、日本軍お得意の野戦築城で要塞化されていた。
軽装備の騎兵隊ではこれを陥落させることは難しく、ルイジアナ藩主を務めた木下守次は粘り強く防戦しながら本国の救援を待つことになる。
木下家は豊臣家一門衆における最古参であり、豊臣家がルイジアナを決して見捨てないという意思の現れだった。
しかし、本国があまりにも遠く、太平洋を渡る船旅に加えて、陸路で北米大陸を横断する必要もあり、本国からの増援はどれだけ急いでも半年待ちだった。
そこでオレゴン藩やルイジアナ藩では自発的な義兵運動が巻き起こった。
その中心人物となったのが大塩平八郎将軍である。
シアトル奉行所に勤務していた大塩は、休日には私塾をひらいて門下生にナポレオン軍の操典を講義する市井の軍学者だった。
大塩は戦争が勃発すると私財を投じて義兵を募り大塩軍を結成した。
さらに大塩はシアトル海軍鎮守府とかけあって海兵隊用の武器庫を開放させた。
シアトルの海兵隊を率いた李阿梅は本国の命令がないため難色を示したが、新オルレアン市が包囲されると大塩軍への武器供与に同意した。
結果、大塩軍の手には本国製の雷鳴銃が握られることになった。
雷鳴銃とは初期の後部装填式ライフル銃の一種だった。
今日ではポンプアクション式と書いた方が分かりやすいだろう。
ポンプアクション式は現在ではショットガンに用いられており、ライフル銃の装填方式としてはあまり適切なものとは言えなかった。
実際に日本軍でも使用期間は短く、製造された雷鳴銃も散弾銃に改造されて払い下げの対象となり、本来の状態を維持して現存する数は極めて少ない。
それでも連発できる後部装填式のライフル銃を手に入れた大塩軍の士気は高まり、アメリカ軍騎兵隊を撃破して、新オルレアンを解放した。
本国軍到着前にである。
本国軍がシアトルに到着したのは、新オルレアン解放の翌日だった。
植民地が独力で存亡の危機を切り抜けてしまったため本国の面子は丸つぶれとなった。
木下守次も大塩の活躍に命を救われたが、本国軍とアメリカ軍を撃退して気勢を上げる大塩軍との間で板挟みとなった。
ルイジアナ戦争は重装備の本国軍の到着で日本側が巻き返しに成功する。
日米軍の間にはミシシッピ川が天然の防壁として立ちふさがり、戦争は膠着状態となった。
そのため、イギリスの仲介でオタワ条約が結ばれることになる。
オタワ条約(1848年)によって、日本とアメリカ合衆国の国境線が確定し、ミシシッピ川で北米大陸は東西で分割されることになった。
さらにオレゴン条約(1846年)によって、現在の北米大陸の国境線が確定した。
アメリカ合衆国にとってはマニフェスト・ディスティ(明白な使命)=アメリカが太平洋に向かって西へ領土を広げることは、不可避であり、かつ神聖な使命が崩壊するという大きな挫折となった。
日本にとっても陸の長大な国境線で自国軍と互角に戦える白人国家と向き合うというのは初の経験であり、動揺は大きなものだった。
なお、条約で国境線を確定したとしても、インディアンは関係なく国境を行き来していたし、それを追って双方の騎兵隊/騎馬隊が遭遇することは日常茶飯時で国境紛争が止むことはなかった。
そのため、これまで禁止されていた高度な兵器の自作が解禁され、ライフル銃や大砲、さらに独立戦争の立役者となるガトリング・ガンといった兵器の製造が北米で始まることになる。
武器の自作解禁によって徐々に国境の防備は充実していったが、北米諸藩を悩ませたのは雨後の筍のように乱立した義兵集団の取り扱いだった。
特に大塩軍は、新オルレアンを解放したという実績により志願者が殺到し、ルイジアナ藩兵よりも大兵力を有することになった。
ここまで大塩軍が強大化したのは、大塩将軍のカリスマもさることながら、廃藩置県で大量の失業者士族が北米へと流入していたことが大きかった。
1822年に始まった廃藩置県は、第10次廃藩置県(1833年)によって国内で最後まで廃藩に抵抗した長州藩と薩摩藩が解体され、国内の統一を果たした。
ちなみに最後の廃藩置県は、1838年の呂宋藩の廃藩である。
呂宋県の成立で現代に至る日本の領土がほぼ確定した。
廃藩によって各大名が抱えていた家臣団の多くが召し放ちとなり、国内での再就職に失敗した士族の多くが職を求めて北米を目指した。
1830年に萩城下松本村で生をうけた吉田松蔭もその一人で、養子に入った吉田家が親戚のツテをたよって北米に移住したことからシアトルで幼年時代を過ごすことになった。
吉田家は、長州藩で山鹿流兵学を教える師範(教師)の家で、松蔭もシアトルで開墾作業に従事しながら山鹿流兵学を学んだ。
儒教と兵学を融合させた武家倫理を説く山鹿流兵学を極めた松蔭は、既に仕えるべき主君がないことに失望した。
ただし、シアトルは北米有数の海の玄関口であり、世界中から様々な文物・人物が集まる場所だったことが吉田少年の心を救うことになった。
特に最新の文明の利器である蒸気機関は、彼を夢中にさせた。
若干11歳の時に一人で金鉱の故障した蒸気排水ポンプを解体・修理するなど、この時点で松蔭が既に非凡の才能の持ち主だったことが分かる。
過酷な開拓生活の息抜きとして平賀源内の娯楽作品に親しんだ松蔭は、金採掘(鉱工業)に並々ならぬ関心を寄せていた。
排水ポンプを修理できたのも普段から鉱山に出入りしていたためである。吉田少年の狙いは鉱山から出るクズ鉱石で、鉱石から微量の砂金が採取できた。
砂金探しには困窮を極める吉田家の家計を助けるという意味もあった。
当時の典型的な移民生活をおくる松蔭の人生を変えたのが、ルイジアナ戦争だった。
大塩軍の義兵募集の広告を見た松蔭は即座に志願した。
実地で山鹿流兵学を試してみたかったというのが本人の談である。
また、平賀源内の著作の影響も少なからずあったと考えられている。
王政を打倒したフランス革命をいきいきと描写した平賀源内の著作を読むことは、当時の若者にとって流行りである。
なお、家業の山鹿流兵学について松蔭は、
「今の戦場においては実用に足らぬ旧弊」
とばっさりと切り捨てて、実地で最新の西洋兵学を学んだ。
ルイジアナ戦争において松蔭には目立つ活躍はなく、オタワ条約が結ばれると早々に大塩軍からも除隊している。
ただし、これは松陰にとって幸いであり、本国から反乱分子と目をつけられた大塩軍は解散命令に反抗したことから軍事討伐の対象となった。
大塩将軍もシアトルの自宅で官憲に包囲され自刃して果てた。
大塩自身には北米独立といった考えはなく、穏当な形での大塩軍の解散・正規軍への吸収を望んでいたとされる。
ただし、大塩の周辺で盛り上がっていた不平士族は勢いのままに北米独立を主張したことから討伐の対象となり、大塩を巻き添えにして壊滅した。
危うく難を逃れたその後の松蔭の足取りには不明な点が多い。
飛耳長目という独自の考えから北米各地を巡る放浪の旅に出たとされる。また、自由に生きるということを実践したという捉え方もできる。
松蔭自身も
「天下の広きを知り、人の本然の自由を覚るための行脚であった」
と述べている。
大塩軍残党として逮捕されることを恐れての逃避行という指摘もある。
大陸放浪の旅は、1854年にニューヨークの万国博覧会のパビリオンにいたところを不審者として逮捕されたことで終わった。
罪状は不法滞在である。
逮捕時の松蔭の風体はニューヨーク市警の文書保管庫に詳細な記録が残されており、リベット補強付きの青い労働者向けのパンツに上半身は肌着という不審な格好でうろついていたところを職務質問され、旅券不所持で連行と記述されている。
ニューヨーク市警の警官は当時としてはあまりにも不審な格好でうろついていた日本人を面白がり、詳細な記録を残したと思われる。
現代風に表現すると万博会場をジーパンとTシャツで歩いていた不法滞在者が職務質問され逮捕ということになるだろう。
松蔭は1848年ごろにシアトルを出発して、6年かけて北米大陸を横断して、アメリカに密入国して東海岸に至ったことになる。
1854年のニューヨーク万国博覧会は工業国として伸びゆくアメリカ合衆国の威信を示すデモンストレーションだった。
松蔭はニューヨークやフィラデルフィア、ボストンといったアメリカの工業先進地を見て、アメリカの勢いを肌感覚で理解した最初の日本人だったと言える。
当時の日本では、先進地といえば欧州で、アメリカは田舎というイメージが強かった。
しかし、19世紀半ばのアメリカ合衆国は既に工業力で欧州に匹敵するか、それ以上の実力を身につけつつあった。
それに比べて本国からの指示に従順な北米諸藩は霞んでみえた。
伸びゆくアメリカ合衆国を見た松蔭は、
「独立なくして、国の弥栄なし」
という結論に至った。
また、松蔭は共和党のエイブラハム・リンカーンの演説に感銘して、自由主義、奴隷解放や人種の平等といった考えを強く意識することになる。
松蔭と同時期に北米でリンカーンの演説に接し、ニューヨーク万国博覧会を見た人物が才谷梅太郎である。
才谷の生まれは長宗我部家(土佐藩)に仕えた士族の坂本家で、廃藩置県の後は大商人の実家(才谷屋)に養子縁組となり、若くして商才を認められて北米へ留学することになった。
才谷も欧州よりも北米に勢いがあることを早期に理解した日本人の一人で、才谷屋のさらなる発展のためには北米の独立が必要という結論に至った。
ただし、松蔭の理解が形而上的だったのに対して、商人の才谷の理解はより具体的だった。
才谷は貿易商としてアメリカ合衆国にあって、北米諸藩にないものを正確に言い当てることができた。
それが関税自主権だった。
19世紀のアメリカの工業力の拡大は、関税防壁による産業保護政策の産物である。
それ以前のアメリカ経済は、先進的な欧州製品を輸入するために農産物や鉱物資源などの一次産業製品を輸出するという典型的な植民地経済だった。
アメリカ合衆国の始まりが、イギリスの植民地だったことを考えれば、これは当然の成り行きであったし、独立後もアメリカの最大の貿易相手はイギリスだった。
ただし、アメリカは独立によって関税自主権を得た。
アメリカ政府は関税を設定することで自国産業を安価な輸入品から守ることができた。
さらに関税収入を国内の産業育成に投じることで、自国の工業力を強化、発展させることが可能となる。
これは関税自主権を持たない北米諸藩には絶対に不可能だった。
むしろ、本国企業の利益を最大にするためには関税などあってはならないのである。
冒頭に述べた日領東印度のスルタンの国が独立国と言えないのは、まさに関税自主権がないからであって、スルタンの国には原材料を輸出する農業や鉱業以外の産業がない。
より正確には無関税で入ってくる輸入品に自国の産業が潰されて、本国企業の製品を言い値で買うように仕向けられ、国内の資源や労働力を不当に安く買い叩かれるという搾取の構造に組み込まれていると言える。
才谷は大きな可能性を秘めながら、このままでは本国の都合のいい草刈り場にしかならない北米を本国から切り離すことで、才谷屋を世界有数の巨大企業へと成長させるというビジョンを描いていた。
自社の発展のために植民地を独立させるという発想に至るあたり、才谷梅太郎もまた非凡の人と言える。
だが、二人の非凡の人は同じ夢を見ながらも、その道が交わることはなかった。
何しろ片方は不法入国罪で逮捕、強制送還された浮浪者であり、もう片方は四国の有名貿易商の次期社長だった。
なにより松蔭にはもう時間が残されていなかった。
強制送還された松蔭は自分の経験を伝えるためにシアトルに私塾を開いた。
松蔭がひらいたアンダーパインスクールは、北米を横断してニューヨークの万国博覧会を見て逮捕されたという破天荒な教師がいるということで有名となった。
また、多くの塾生が集まった理由として
「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」
という一君万民論を掲げて、松蔭が人種や民族、国籍を問わず塾生を集めたことも大きかった。
一君万民論とは天皇の元に全ての人民は平等であるという主張で、リンカーンの演説に感銘を受けた松蔭が独自にたどり着いた人種平等のあり方だった。
当時のシアトルは移民の受け入れ港だったことから、多種多様な人種、民族の移民が押し寄せており、人種や民族といった出自を問わず、誰でも受け入れて学問を授けるという松蔭の姿勢は商業戦略的にも大正解だったと言える。
アンダーパインスクールの塾頭を務め、後に独立戦争で命を燃やし尽くす高杉クロマティは解放奴隷の黒人であることは広く知られている。
黒人の高杉は同じ教室で白人も黒人も平等に学問をして、教師と学生が対等な立場で自由に意見を戦わせるという松蔭の方針に心服した。
ただし、松蔭のフリーダムすぎる風体(ジーパン+Tシャツ)には、高杉であってもニガ笑いするしかなかったとされる。
現代でも高等学校の教師などがジーパンとTシャツで教壇に立つのは珍しいことであり、松蔭のセンスは時代を突き抜けた場所にあった。
私塾を主催するよりもスマートフォンをつくる会社のCEOをやっている方が似合いそうな松蔭の実家は長州藩で山鹿流兵学を教える師範の家であり、松蔭自身にも教育者としての才能があった。
特に人の長所や才能を見抜くことに関しては天才的だった。
後に大和民国の初代首相に上り詰める伊藤フレディ(白人)には、
「君は将来大物政治家になるだろう」
という言葉を残している。
フレディ本人は歌手志望だったのでがっかりしたという。
アンダーパインスクールは概ね50人前後の塾生を受け入れ、その中から神山貴志、林太慎二郎、前田明、メカリバー・新一ら独立戦争に活躍した人材を多く輩出した。
門下生に北米独立を説いた松蔭は自らも独立の志士としてその機会を伺っており、本国派のオレゴン藩主を監禁して説得するという計画を立てた。
あまりにも無謀すぎるとして門人からも止められたが、次に松蔭は本国へ帰朝する大平原宮親王が宿泊するホテルに忍び込み説得しようと考えた。
松陰の考えでは、大平原宮親王を通じて北米の発展のため独立が必要であることを天皇に直訴することになっていた。
これもまた門下生から無茶だと止められている。
基本的に松蔭は道理に沿った正しい意見を誠心誠意を以て説けば、相手はそれを受け入れるという考えの持ち主であって国の独立に武力を用いるという発想はなかった。
そのため、警察の取り調べを受けた際に、包み隠さず自分の計画を自供してしまい反乱予備の罪で死刑となった。
享年29歳だった。
松蔭を逮捕したシアトル市警察としては、破天荒な格好で有名な地元の名物教師が不穏な言動を繰り返しているという通報を受けて事情聴取しただけだった。
アンダーパインスクールは以前にもフリーダムを学ぶためと称してロッキー山脈を縦走して集団遭難するという騒動を起こしていたから要監視対象となっていた。
シアトル市警としては、特に証拠もなかったので通常なら口頭注意程度で済ます予定だった。
なぜか具体的な犯行計画が本人の口から出てきてしまったので逮捕するしかなくなったが、当時のシアトルではそのような通報は日常茶飯時だった。
1850年代末になると北米諸藩の世論では本国政治への不満が渦巻いた。
原因はインフレと関税問題だった。
インフレについては、1858年に勃発した外満州戦争(1885年~1888年)によるものだった。
南下政策をとるロシア帝国が外満州へと侵入し清との交戦状態となった。日本は、清からの救援要請を受ける形で参戦し、ロシアとの全面戦争に突入することになる。
東アジアのクリミア戦争と呼ばれることになる激戦の果てに、日本はロシア勢力を外満州から駆逐した。
この時、日本政府は戦費調達のために一時的に金兌換を停止して、大量の不換紙幣を発行した。
過去の事例(アメリカ独立戦争)を参照して、植民地に増税して戦費調達すると不満が爆発することが容易に想像されたためである。
決して日本の為政者は無能ではなく、過去の事例から最適な選択をしたと言える。
しかし、大量の紙幣発行と戦争によるインフレによって通貨が下落し、北米諸藩ではアメリカ合衆国からの輸入が困難になり、さらにインフレが酷くなるという悪循環に陥った。
元々、北米諸藩では工業力で先行するアメリカ合衆国からの輸入超過が続いており、北米諸藩は関税による保護を求めていた。
しかし、自由貿易を推進する本国では、関税は低ければ低いほどよく、植民地の地場産業を守るために本国企業の利益を損なうことなど考えられなかった。
戦争が終わると今度は金本位制に復帰するために不換紙幣を回収するため増税と歳出削減を強行されたため、日本経済は猛烈なデフレーションに陥った。
デフレーション政策によって為替相場も通貨高となり、合衆国からの輸入品が激増した。
輸入激増とデフレというダブルパンチを受けた北米諸藩の企業では解雇や雇い止めが相次ぎ、失業者が激増して本国への不満が爆発することになる。
また、1848年2月にパリで二月革命が起きて七月王政が倒れ、第二共和政が成立した余波が北米にも波及していた。
欧州各国では自由主義内閣の成立や革命が相次ぎ、ウィーン体制が崩壊した。
旧来の政治体制の変革を求める声は本国でも高まりつつあった。
北米諸藩で先に変革が始まったのは、欧州からの移民も受け入れていることが大きかったと考えれている。
彼らは故国で起きたことを北米でもできると考えていた。
また、北米諸藩では廃藩置県で家禄を失った士族の移民が多かったことも変革の土壌となった。
そのため、松蔭の刑死は、殉死という色彩を帯びることになった。
裁判において堂々たる態度で北米の独立を主張し、死刑判決にも少しも怯むことがなかった松蔭の最後の姿は、人の心を揺さぶるものがあった。
刑死において松蔭が着用したリベット補強付きの労働者向けの青いパンツ=ジーパンが独立のアイコンとなった。
松蔭に続けとばかりにシアトルには北米独立を掲げるジーパンの志士が集結して、本国企業の商店や要人の暗殺が相次ぎ、治安が極度に悪化した。
北米諸藩も北米の未来を巡って対応が割れることになった。
本国から最も遠く、ミシシッピ川を挟んでアメリカ合衆国と向き合うミソネタ藩、アイオワ藩、ミズーリ藩、アーカンソー藩の各藩は改革を支持した。アメリカの圧力を強く受ける東部の各藩は国防強化に余念がなく、旧来の体制では乗り切れないという意識が強かった。
北ダコタ藩、南ダコタ藩やモンタナ藩、カンザス藩、オクラホマ藩、ネブラスカ藩、ワイオミング藩、コロラド藩は中立的で、ルイジアナ藩とオレゴン藩は本国寄りだった。
北米の各藩は協議の末、穏当な改革案として北米限定の関税同盟を本国に打診した。
この時点で、日本の政界は関白継嗣問題という政治的な核爆撃に等しい大騒動の真っ最中であり、北米諸藩の提案もまた継嗣問題にリンクして国論を二分することになった。
最終的に関白継嗣問題は、保守派の豊臣秀茂を擁立する備州派の勝利に終わり、関税同盟案は否定された。
秀茂を推薦した保守強硬派の石田直成首相は、北米独立阻止のため強権発動を躊躇しなかった。
石田直成は石田三成を藩祖とする佐和山藩55万石の豊臣家の譜代中の譜代大名であり、廃藩置県後も石田公爵家として政界に重きをなした。
前述の外満州戦争でもロシア帝国を相手に不退転の覚悟で戦争を指導した強硬論者で、豊臣家絶対主義という極端な人物だった。
ただし、天然痘の予防接種事業を国策として推進し、ナイチンゲールの著作を読むなど、日本の公衆衛生の発展に力を尽くした人物でもある。
石田はナイチンゲールの著作物から、
「治療のためなら相手を殺すことも許される」
という強硬な信念を得たとされている。
石田公爵にとって、本国からの分離独立という考えは精神異常であり、治療の対象だった。
北米へ派遣された海兵隊はジーパンの志士を武力弾圧した。
しかし、松蔭が命がけで灯した革命の火はすでに燎原の火のごとく広がっており、本国の強硬姿勢は却って独立派を伸長させるだけに終わった。
石田公爵自身も1860年3月3日に爆弾テロによって斃れる。
新たに首相となった大野春勲は、内戦前夜に陥った北米情勢を打開するため奇策を用いた。
それが北米連藩会議の設置であり、独立の是非を投票で決するというものだった。
1860年7月に開催された第一回北米連藩会議において、大野は独立の是非を問う住民投票の開催を提案し、出席者全員を驚愕させた。
これは民意を以て民意を制するという発想であり、必ずしもジーパンの志士が民意を代表しておらず、平民の大半は慎重であることを見抜いた上での奇襲だった。
ジーパンの志士の多くは民意を錦の御旗にしていたが、民意を投票という形で体制が受け入れるとなると確信が持てなかった。
実際のところ、ジーパンの志士の多くは不遇な環境への不満をぶちまけるために体制への無軌道なテロを繰り返すばかりで、民意を糾合するという発想に欠けていた。
独立運動を主導した高杉クロマティも基本的に武力闘争路線であり、本国が投票で平和的解決を提案してくるとは想像していなかった。
大野首相は確かに相手の意表を突くことに成功したのである。
問題は、決定的に運がなかったことだろう。
1861年4月にアメリカ合衆国は南北戦争に突入し、ミシシッピ川沿いの貿易は完全に停止して北米諸藩の経済は大打撃を受けることになった。
これまで独立に慎重だった平民層も無為無策な本国の政治をいよいよ見限ることになる。
無為無策というよりも、もはや本国と北米の経済的利益が一致しない。一致させることができないという方が正しいかもしれない。
また、才谷梅太郎が潤沢な資金力を背景にジーパンの志士や北米諸藩の有力者を仲介して、無軌道なテロ活動を収束させ、本格的な政治勢力として独立党を立ち上げた。
これまで本国支持を表明してきたルイジアナ藩主の木下永守が独立党に参加したことは、大野にとって天変地異という他なかったとされる。
木下を転ばせた才谷の長い腕は本国まで広がっており、マスコミ各社は投票による独立が既定路線であるかように書きたてた。
1861年10月28日、北米独立の是非を問う日本初の住民投票が開催された。
結果は独立と決し、目に見える形で民意が示されることになった。
選挙結果を受けて豊臣秀茂は、大野を更迭して武断派の浅野恭輔公爵を首相に据えた。
浅野公爵は選挙結果には不正があり、再調査が完了するまで独立は無効とした。
北米連藩会議は再び紛糾した。
議論に終止符を打ったのは、1862年2月26日に起きたオレゴン藩のクーデタで、高杉ら独立派民兵組織がシアトルで武装蜂起し、藩庁を制圧した。
クーデタをおこした民兵組織は、服の上下が青いデニム(ジーパン)という奇抜な出で立ちだったことから、奇兵隊と呼ばれることになった。
これまで本国絶対主義だったオレゴン藩が転覆したことで、北米連藩会議は独立宣言を採択し、北米独立戦争(1862年~1865年)が始まった。
独立宣言前から既に戦端は開かれており、シアトルでは奇兵隊と鎮圧に出動した海兵隊が衝突してシアトルの戦いとなっていた。
奇兵隊は寡兵でありながらも頑強な抵抗を示し、海兵隊を驚かせた。
奇兵隊の強さを支えたのは、才谷屋を通じて入手したドライゼ銃(初期のボルトアクションライフル銃)とガトリング・ガンによる高火力、そして何よりも自ら土地と自由を守るという士気の高さにあった。
こうした発想は市井の人々による自発的な志願(平民兵)によるもので、奇兵隊の本来の意味は身分によらない自由な軍隊という意味である。
これは軍隊=士族という発想が自明のこととされた19世紀の日本において極めて異常な発想であり、格好が奇抜だから奇兵隊というわけではなかった。
平民の軍隊というだけで弱兵の誹りを受けることになった奇兵隊はシアトルの戦いにおいて、本国の海兵隊が士族民兵(新選組など)を蹴散らす中で、一歩もひかず互角の戦いを展開した。
当初は弱兵と奇兵隊を蔑んだ新選組の土方歳三もシアトルの戦い(1862年3月)の後は、率直にその勇戦敢闘を認めて、平民から兵士を募るようになった。
ただし、上下青デニムの制服は土方の嗜好には合わなかったので採用されなかった。新選組は才谷屋を通じて入手したフランス陸軍の騎兵服を独自に改造したもので統一され、今でも熱烈なファンを生み出すほど洗練された象徴的なアイコンとして語り継がれている。
さて、奇兵隊の勇戦敢闘にも関わらず、本国との戦力差は歴然としており、続々と本国軍がシアトルに到着すると独立連合軍は内陸部に撤退した。
シアトルは西海岸最大の臨海都市であり、海軍戦力を有さない独立連合軍が保持するのは無理があった。
本国軍は後退する独立連合軍を追って内陸を進むことになるが、そこからが地獄だった。
進めば進むほど補給が困難になったからである。
遠い日本本土から軍兵を送らねばならない時点で既に膨大な負荷がかかる兵站業務が、内陸部では指数関数的に負担を増やした。
鉄道が使えるといっても、それで確保できるのは点と線でしかなく、その鉄道も運行距離が伸びるほど鉄道そのものが物資を消費することになる。
さらに本国軍は天然の防壁であるロッキー山脈を越えなければならず、しかも民兵による絶え間ないゲリラ攻撃が待っていた。
ロッキー山脈を超えたとしてモンタナ藩の藩庁がある金里市まで1,000km以上も陸路を進まねばならず、金里市を占領したとしても、新オルレアン市まではさらに2,000km以上先にあった。
日本は海兵隊及び陸軍を147万を動員して西海岸に送り込み、1年以上かけてアイオワ藩の小浜市にたどり着いたが、そこで攻勢限界に達した。
後方連絡線を守るためにも兵力が必要であり、前進のための兵力が尽きてしまった。
独立連合軍も楽な戦いをしているわけではなく、奇兵隊を率いた高杉クロマティは肺結核に倒れて、新選組隊長の近藤勇が戦死している。
また、工業都市であるシアトルを失ったことで重装備の補充ができないという問題があった。
そこで才谷はアメリカ合衆国やイギリスと接触し、武器の密輸を図った。
アメリカ合衆国は南北戦争の最中で当初は武器輸出には後ろ向きだったがものの北軍が優勢となると徐々に余り気味になったスプリングフィールド銃の輸出に転じた。
イギリスは独立連合軍に欠る火砲を補い、独立連合軍はアームストロング砲を手に入れた。
英米が快く武器密輸に応じたのは、もちろん善意ではなく、日本人同士の内戦を少しでも長引かせて日本帝国の力を削ぐためだった。
アメリカ合衆国は南北戦争中だったので具体的な行動には移れなかったが、武器供与にリンクして国境線の書き換えを模索する動きがあった。
才谷もそれを理解しており、過度にアメリカ合衆国に頼ることは危険だと考えていた。
ゲティスバーグの戦い以後、工業力に勝る北軍が優勢となると背後が気になり始めた北米列藩会議は、戦争の決着を期した決戦が必要だと考えた。
決戦回避とゲリラ戦にも限界があることを理解していた高杉は病身をおして前線指揮に戻り、カンザス会戦に望むことになる。
本国軍25万と連合軍18万が激突したカンザス会戦は、双方が大量砲撃の後にナポレオン式の歩兵の密集突撃の応酬となり、双方が甚大な損害を出すことになった。
戦局は一進一退となったが、ガトリング・ガンによる防御射撃を本国軍が打ち崩すことができず、左翼のカンザス軍が逆襲に成功して、背後へと回り込みつつあった。
本国軍を率いた木村正智大将は包囲の危険が迫ったことから撤退を決意したことで、カンザス会戦は独立連合の勝利に終わった。
なお、カンザス会戦そのものは局地戦に過ぎず、依然として本国軍の大兵力が北米に居座っているという状況に変化はなかった。
しかし、これまで後退戦しかしてこなかった連合軍が、正面決戦で本国軍を敗走させたという事実は極めて重く受け止められた。
一日で50,000人が死傷者したカンザス会戦の最後の戦死者は連合軍総司令官を務めた高杉で、勝利を見届けると吐血して果てた。
カンザス会戦後、既にこれ以上の戦闘継続が困難になっていたことから、双方で政治的妥協が模索されることになった。
本国でも政変があり、保守強硬派だった第14代関白秀茂が急死した。
これによって北米独立を容認する尾州派の豊臣秀慶が第15代豊臣関白に就任し、メキシコの仲介により講和会議が開かれることになる。
なお、秀茂の急死については不審な点が多く、暗殺説や自殺説が囁かれた。
有力な説としては、手詰まりになった内戦を切り上げるために秀慶が秀茂に自決を迫ったというものである。
真相は闇の中だが、秀慶は独立派のパトロンである才谷と密かに連絡をとっていたことが判明しており、どのような真相が出てきても驚くには値しないと言える。
講和会議当初、秀慶は無条件の帰順を講和の条件としたため交渉は暗礁に乗り上げた。
しかし、連合軍が小浜攻略に成功し、2度に渡って本国軍が撤退を強いられると同君連合を条件に講和に応じることになった。
天皇を君主として仰ぐことについては、独立派から全く異存はでなかった。
独立派を支援したアメリカ合衆国(特にリンカーン大統領)は全くこれを理解できず、精神異常を疑った。
イギリスのヴィクトリア女王は、
「その手があったか・・・」
と嘆いたという逸話がある。
1866年に結ばれたサンフランシスコ講和条約によって北米は独立を達成し、大和民国が成立することになる。
列藩会議は列藩政府に発展し、初代首相に伊藤フレディが選出された。
ご要望が多かったのでAI生成ですが、ラストに画像を追加しました。
大和民国とメキシコは・・・すごく大きいです。




