グレート・ジャパニーズ・エンパイア・ビギニング
1789年、フランスで蜂起した民衆がバスティーユ監獄を襲撃し、フランス革命が始まった。
当初は静観する構えだった周辺諸国は革命政府によってフランス国王・王妃が処刑されるに及んで革命の伝播を阻止するため干渉に乗り出し、対仏大同盟が結ばれた。
殆どのヨーロッパ諸国が加盟したこの同盟に、JAPANの名前も刻まれている。
日本を同盟に招いたのはイギリスのウィリアム・ピット首相で、同盟を受け入れたのは第12代目関白豊臣秀成だった。
秀成は若くして関白に就任したことから、その在職期間は50年に及んだ。
在職期間に近世日本における文化の爛熟期が重なり、化政・天保の治として称えられることになる愛知時代後期の名君である。
なお、ユーラシア大陸の東の果てにある日本が対仏大同盟に加わったとしても、ナポレオン戦争の趨勢に特に影響はなかった。
ピットが日本を同盟に誘ったのは、日本がフランスと同盟するという最悪の事態を回避するためだった。
産業革命を進め、他のヨーロッパ諸国に対する優位を確保したイギリスが唯一恐れたのは、日本の広大な太平洋植民地帝国だった。
日本列島から南下すれば200年に渡って実効支配することで日本化された琉球・台湾があり、その先の呂宋も日本の一部となっていた。
台湾の対岸には清朝の領土が広がっており、日本は清の沿岸を警備する対価として海外貿易を独占して巨額の富を得ていた。
南シナ海を南下するとジャカルタなどの日本の南方自治都市群があり、馬来半島の先端には大軍港を抱える晋波があった。
南方都市国家群のさらに向こうには全土が豊臣家の蔵入地である豪州がある。
太平洋の中央にある羽合王国にも日本から皇子を送り込んで婚姻同盟を結び、北の果てにある阿羅斯加にも日の丸がはためていた。
太平洋の対岸にあるカリフォルニアにもゴールドラッシュを経て大量の日本人が押し寄せて、スペイン植民地のノヴァ・イスパニアからの半独立状態となっていた。
日本の勢力圏を守護するのは豊臣家が手塩にかけ育ててきた豊臣海軍である。
18世紀末の豊臣海軍は、二万石船(約3,000t)と呼ばれる強力な戦列艦を保有する世界最大級の海軍へと発展していた。
これを敵に回すのは得策ではないとピットは考えた。
そして、実際にも得策ではなかった。
アメリカ独立戦争(1775年~1783年)においてイギリスはインドで日本と第2戦線を戦っていた。
第二次マイソール戦争(1780年~1784年)である。
イギリスのインド支配に抗うマイソール王国の背後には日本とフランスがいて、日本は参戦しなかったが大量の武器弾薬を援助した。
日本は武器援助と引き換えにインドへの進出を図り、とくに綿製品・綿花の輸入を拡大しようとしていた。
18世紀末の日本にまだ産業革命は伝播していなかったが、水力式の紡績機や工場制手工業が発展し、工業原料としての綿花需要が高騰していた。
イギリスも事情は同じで、産業革命に進展によって工業力が拡大し、工業原料と作り上げた製品のはけ口としてインドが必要だった。
18世紀末のインド洋は東西文明の最前線だったと言える。
第二次マイソール戦争において、日本とイギリスが直接的に戦火を交えたことはなかったが、軍船をマイソール王国に乗員ごと貸与した。
その中でも著名なのが、黄金丸の活躍である。
傾奇者の船長が船体を白一色に塗った黄金丸は戦争期間中にインド洋全域を舞台に私掠船として活躍した。
イギリスが被った経済的な損失は、120億ポンド(当時)にも達している。
結果として、第二次マイソール戦争はイギリスの敗北に終わり、アメリカ独立も阻止できず、散々なことになった。
ナポレオンとの戦争に際して、再び日本が裏から手を回すことになれば、どうなるか分からない。
フランス革命政府も同じ発想から日本に同盟を呼びかけていたが、内部の権力闘争の方が忙しく、イギリスに出し抜かれた。
なお、同盟を受け入れた日本もそれなりに事情を抱えていた。
特にフィリピン南部でモロ族の跳梁に手を焼いていた。
モロ族はミンダナオ島、スールー諸島に住むイスラム教徒達のことで、独立自治を求めて抵抗戦争を続けていた。
密林の中に潜むモロ族は強敵で、大小無数の島々に隠し砦を築き、小舟で移動しながら日本軍をゲリラ攻撃して苦しめた。
主戦場が海上・孤島の密林といった海と陸を行き来する環境だったことから、戦いの主力を担ったのは海兵隊となった。
海兵隊とは海軍の各艦艇において編成する接舷切込隊が母体となって発展したものである。
18世紀末まで海戦とは、砲戦によって相手の行動不能にした後、接舷切込隊を送って艦内を制圧。その後は拿捕するか、放火して焼き沈めるのが常道とされていた。
当時の海戦では、砲火力だけで敵艦を沈めることは珍しいことだったのである。
元から過酷な水上生活に加えて、死に物狂いで抵抗する敵艦へと突入する接舷切込隊は勇者の中の勇者が選ばれた。
生きて軍歴を終えることは珍しく、無事に退役したものは郷土の英雄として石碑が残るほどだった。
実用兵器として日本刀が最後まで生き延びたのも海軍の接舷切込隊だった。
近距離戦主体の船内戦闘では銃火器よりも刀剣の方が有効な場面が多かったからである。
愛知時代に生まれた全ての剣法は精神修養術であり、海軍剣法だけが戦国以来の実用剣法という意見も多い。
モロ戦争においても海兵隊は海軍剣法と日本刀による近接戦闘で大きな戦果を挙げており、日本刀が戦場で輝いた最後の戦場となった。
抵抗運動を続けるモロ族の背後には、オランダの東インド会社の影が見え隠れしていた。
オランダはもはやアジアでは落ち目だったが、しつこく日本の覇権確立を妨害していた。
南方に進出した企業やその出資者である資本家、特に最大の出資者である豊臣家にとって、目障りなオランダの残存勢力を抹殺するため、イギリスと一時休戦は已む無しだった。
ただし、コルシカ島の悪魔、戦争の天才、ナポレオン・ボナパルトが頭角を現し、オーストリア軍を敗走させ、第一次対仏大同盟が崩壊すると判断ミスだったかもしれないと後悔した。
対仏大同盟が瓦解するとピットは日本がナポレオンと同盟してインドを攻撃するかもしれないと怯え、ナポレオンがエジプト・シリア遠征(1798~1801年)を始めるとその不安は頂点に達した。
ナポレオン自身も日本と同盟し、エジプトからイランを経由してインドで日本と握手する構想を温めており、秀成に親書を送って同盟に誘っている。
秀成もこの構想に同意し、ナポレオンへの資金援助としてルイジアナ買収に同意した。
1803年に日本は5,000万両(国債)でルイジアナを買収し、日本の領土はついに大西洋(メキシコ湾)に出口を得ることになった。
ナポレオンも軍資金を得て、イギリスとの戦いにのめり込んでいくことになる。
ただし、ルイジアナ買収が日仏関係の頂点で、それ以降はイギリスの巻き返しもありナポレオンは日本との同盟を果たせなかった。
とくにナイルの海戦でフランス海軍が壊滅し、エジプト遠征が破綻するとインドで日仏が握手するという日仏同盟論は破綻に追い込まれた。
また、オランダが本国を占領されてフランス陣営に鞍替えすると日蘭は交戦状態となり、日本は再び対仏大同盟に加わることになる。
日本にとっての主戦場はアジア・太平洋だった。
ナポレオン戦争中に日本はオランダの東インド会社のアジア拠点を完全に制圧した。
16世紀にアジアへ進出したオランダの努力は完全に潰え、日本による南方支配が完成することになる。
ただし、日英の手打ちで見捨てられる形になったインドでは、イギリスの支配が強まり、マイソール王国も滅亡に追い込まれた。
アジアに地保を残す欧州勢力は、スペインとポルトガルだけとなり、ポルトガルは同陣営だったため見逃されることになった。
最後に残ったスペインも18世紀までに太平洋からの殆ど撤退しており、名目上残していたグアム島や南太平洋の島嶼領土を豊臣海兵隊が占領して終わった。
アジア・太平洋のオランダ・スペイン勢力を壊滅させた日本は、太平洋の対岸に目を向けることになる。
そこにはノビスパンという日本語読みされるスペインの植民地があり、ゴールドラッシュを経てカリフォルニアには日本町ができて、半独立状態となっていた。
フランス側についたスペインは、トラファルガーの海戦(1805年)でフランス艦隊と共に戦って主力艦隊を失っており、豊臣海軍が押し寄せてきたらひとたまりもなかった。
また1808年には内紛を起こしてナポレオンに付け込まれた。
ナポレオンは自分の兄のジョゼフを王位に就けて、スペインを傀儡統治したのである。
これに反発した民衆が蜂起して泥沼のスペイン独立戦争が始まることになる。
ノヴァ・イスパニアでもナポレオンの強引な偽王擁立に対する反発が高まり、これを物心の双方から日本が支援することになる。
豊臣海軍の手によってカリフォルニアには大量の武器弾薬が送り込まれ、日本人による民兵組織「加州長浜党」が結成された。
党を率いたのはカリフォルニア奉行所に勤務していた近藤重蔵だった。
近藤は奉行職の傍らにアリゾナやテキサスの砂漠地帯を探索した冒険家でもあり、カリフォルニアでは名士となっていた。
後に彼の縁者が近藤の残した地図をもとに、テキサスの砂漠地帯で死にそうになりながら油田を発見して石油を掘り当てたのが近藤財閥の始まりである。
近藤の名声に惹かれて大勢の同志が集まった他、スペインの支配から解放を臨むマヤ人やアステカ人の生き残り、さらに彼らとの混血者といった既存の支配体制の下層民が長浜党に集うことになった。
近藤は豪放磊落な武侠肌で、本国から届いた米や金を湯水のように使って彼らを手厚く報いたので長浜党は瞬く間に勢力を拡大した。
ちなみに近藤が散財した金は500万両と言われている。
近藤は途中で自分の金遣いに怖くなって本国に問い合わせたが、金ならあると返信されて安心した。
金があるから豊臣家というエピソードの一つである。
一部の資金はスペイン王党派のクリオーリョの買収にも使われた。買収に応じない場合は武力で討伐して土地や金を長浜党で分配した。
土地や金が得られると聞いてさらに人が集まったことから、加州長浜党は短期間に反乱軍最大勢力に拡大し、メキシコ独立闘争の形勢は独立派に大きく傾いた。
1811年にミゲル・イダルゴの反乱軍がメキシコシティを攻略し、ついにスペインからの独立を勝ち取った。
近藤も独立メキシコ政府に迎えられ、教育大臣を務めている。
近藤は豪気な性格とは裏腹に書狂と言われるほどの読書家で、在任中は読書教育に力を入れ、メキシコシティに国立図書館を設置した。
また、メキシコの公用語としてスペイン語と共に日本語を指定したのも近藤である。
以後、メキシコではカリフォルニアを中心に日本の影響力が強まることになった。
メキシコの国民感情も独立戦争に助太刀した日本には好意的で、現代でも日墨の関係性はカナダとイギリスに近いものがある。
ただし、近藤の加州長浜党が、弱体な新メキシコ軍を圧倒してカリフォルニアを分離独立させることも不可能ではなかった。
関白の秀成はメキシコ独立後、かなり真剣にカリフォルニアの分離独立工作を検討していたことが分かっている。
最終体に分離独立工作が見送られたのは、フランスから買収したルイジアナの南側を守るメキシコと手切れになるのは危険と判断されたためである。
政府閣僚に日本人を送り込んで間接的な影響力を保持していたから、分離独立工作は藪蛇になりかねなかった。
また、世論がメキシコ独立をやたら歓迎したことも影響した。
平賀源内が書いた黄金一代男や摩耶国戦記といったメキシコ地域をモチーフにした作品は、歌舞伎や浄瑠璃、講談、御伽草子といった娯楽作品の定番となっており、世論を親メキシコに傾けていた。
扱いとしては近松門左衛門の「国性爺合戦」が最も近い。
明朝再興のために戦った鄭成功も偉人の一人として数えられていた。
「メキシコとは、太陽神の住むところという意味であり、日ノ本と同じこと。つまり、メキシコは日本である」
と言われれば、そうかもしれないと思う程度には、世論はメキシコ独立に湧き上がった。
伝説の摩耶国の末裔が日の本の助けを得て立ち上がり、ついに悪を打倒したと思えば、世論の興奮はなるべくしてなったというべきだろう。
もちろん現地の情勢はそれよりも遥かに複雑だったのだが、それは遠い日本では知りようがないことだった。
また、日本人の受け取り方も場所によっては複雑だった。
アメリカ独立に続き、植民地が本国の支配を武力で打倒した事例である。
植民地に権益をもつ人々にとっては不安を覚える話だった。
18世紀末にもなると日本でも瓦版や新聞というものが世論に大きな影響を与えるようになっていた。
そして、世論を担うのは経済発展で力をつけた民衆だった。
民衆の力が暴発したのがフランス革命であり、アメリカ独立戦争だったと言える。
豊臣秀成はそうした力と向き合った最初の日本の為政者だった。
秀成は民衆の力が国体を転覆させる可能性を感じ取り、フランス流の近代的な国家警察組織を整えると同時に適度なガス抜きを図った。
メキシコからのカリフォルニア分離独立が回避されたのも、政権が世論に遠慮した最初の事例だったと言えるだろう。
ただし、分離工作の一部は実施され、日本はオレゴン藩を立藩することになる。
ちなみに藩庁所在地はシアトルである。
秀成によって初代藩主に抜擢された二宮尊徳は西海岸の開拓事業で多大な功績を挙げた。
低い身分から苦学して立身出世し、最後は藩主に昇りつめ、報徳仕法の教えを実践した二宮は開拓の魁として尊敬され、北米の小学校の校庭に銅像や石像でその姿を残している。
メキシコ独立で欲しいものはだいたい手に入れた日本のナポレオン戦争は殆ど終わったようなものとなった。
しかし、欧州の戦いはまだまだこれからだった。
ナポレオンはイギリスを孤立させるために大陸封鎖令を敷いたが、これは日本経済にとっては貿易拡大の好機だった。
なにしろ、競争相手が勝手に港に引きこもって海運を投げ捨てたのだから、稼ぎ時としか言いようがない。
そして、貿易停止に我慢ができなくなったロシアが日英との貿易を再開し、ナポレオンが懲罰のためにロシア遠征を敢行、大敗して戦争の潮目が変わった。
ロシアで大兵力を失ったフランス軍は各国の総攻撃を受けて戦線を支えられなくなり、ナポレオンはパリ陥落(1814年3月)を許すことになった。
同年9月にウィーン会議が開催され、戦後欧州の秩序について話し合いが始まった。
しかし、会議は進まず、毎夜のダンスパーティーだけが盛況という有り様だった。
また、諸外国の手で王政復古したフランスでは、ルイ18世の復古調の政治に不満が高まり、ナポレオン復活を臨む声が高まった。
ウィーン会議には同盟の一角として日本の代表団の姿もあった。
代表団長を務めた古田繁成は、豊臣家お抱えの茶道頭の家柄で、初代の古田重然は織部流茶道の創始者である。
古田重然というよりは、古田織部という方が一般には通りがよく、古田家の当主は代々、古田織部の名を世襲した。
茶道頭といっても古田家は、豊後3万石の小大名に過ぎず、日本の外交代表団長を務めるにはあまりにも小さかった。
それでも代表団長を任されたのは、古田織部が独裁者の重要な側近の一人であったためである。
逆にいえば、五相・五門・六部といった既存の権力構造が形骸化していたとも言える。
さて、古田織部はウィーンにあって欧州の社交会を無難にこなしつつ、フランスの世論が怪しいことを掴んでいた。
そのため、ナポレオンがエルバ島から脱出したことを掴むと即座にウィーンから退去して、豊臣海軍の軍船から海兵隊員をかき集めて即席の兵団をつくりあげることができた。
人員は300余名の小規模なものだったが、この場合は日の丸を掲げた軍隊がそこにいるということだけで十分だった。
ナポレオンの退位で戦争が終わったと思った各国は、既に軍を撤収・解散させており、猫の手でも借りたい状況だったからである。
さらに軍団指揮に並行して欧州の上流階級にコネをつくって中国製の茶器を売りさばき、500万両もの巨利を巻き上げたというのだから、古田繁成は行動力の塊のような人物だったと言える。
又は、無能では独裁者の側近は務まらないとも言える。
代表団を務める者が基本的に全員軍人(武士)だったからできた無茶だった。
しかし、ここが恩の売り時だった。
これは余談だが、欧州のドラマや映画で緊急事態の最中に話の流れを無視していきなり電化製品や自動車のセールストークを始める日本人ビジネスマンが登場したら、それは古田繁成をモチーフとした日本人のカリカチュアの一種である。
いかに古田繁成が強い印象を欧州の人々に残したかが分かるだろう。
ナポレオンが帝位に復帰すると第7次対仏大同盟が結成され、イギリス・オランダ連合軍の一隊として古田軍はワーテルローの戦いに参戦した。
特にこれといった戦果はなかったが、イギリスの窮地にあって日和見や韜晦ではなく、戦闘参加したことは講和会議において大きな意味を持った。
ちなみに、もし連合軍が負けたらどうするのかという問いに対して古田は、
「かくなる上は、申し開きも見苦し」
と返し、一流の文化人であると同時に武人として強烈な自負を示している。
ナポレオンの百日天下が終わると講和会議が再開され、ウィーン議定書(1815年)が定められた。
ウィーン会議では、オランダやスペインが戦争中に日本が占領した南方の植民都市や島嶼領土の還付を求めたが、日本は戦勝国の権利として拒絶した。
イギリスと日本がインド洋・太平洋利権を相互に承認するとオランダ・スペインは還付要求を取り下げた。
ウィーン議定書によって、アジア太平洋は日本、インド洋・大西洋がイギリスとそれぞれの勢力圏が確定したと言える。
日本はインド(マイソール王国)を見捨てることになったが、環太平洋の一円支配を完成させ、産業革命を迎えることになる。
ウィーン議定書、そしてその1年後に結ばれた日英修好通商条約(1816年)によって、日本は主権国家を基本としたウエストファリア体制に組み込まれた。
敗れたナポレオンは南大西洋の英領セントヘレナヘ流罪となった。
しかし、ナポレオンの躍動は欧州に巨大な影を投げかけ、ナポレオン法典はフランス本国やフランスの被占領地で生き残り、フランス革命の理念(自由、平等、博愛)を広めることになった。
軍事面でも国民軍や三兵戦術(歩兵・騎兵・砲兵)の組み合わせ、兵卒・指揮官の教育制度は近代軍隊の基礎となるものだった。
その影響は、遠い東アジアにも及んでおり、ナポレオン戦争の最中から軍制改革の機運を日本でも巻き起こした。
特にアウステルリッツの戦いは空前絶後の軍事的な成功例として議論・研究の対象となり、そのような戦闘が可能な軍備の必要性が痛感された。
海軍はともかく、陸軍の軍制は慶長・元禄の役とさして代わり映えしないものだったから、兵制議論はかなりの危機感をもって行われた。
国民軍、国民皆兵も議論の対象となったが、現体制とは相容れない部分が多すぎるため、まずは武士だけで近代軍がつくられた。
名古屋に海軍総裁と陸軍総裁が置かれたのが1820年のことである。
同年には陸軍7個師団が編成された。
諸侯の軍勢が日本陸軍になったのはこの時である。
ただし、海軍はその後も慣例として豊臣海軍であり続けた。
現代でも、海軍艦艇は太閤殿下の船(HTMS:His Toyotomi Majesty's Ship)という艦船接頭辞を用いることが習わしとなっている。
装備はナポレオン戦争終結によって欧州で不要になった兵器が大特価廉売されていたので、最新のものが集められた。
ただし、近代軍制も指揮官・兵員教育も初のことであって教育者が不足していた。
そこでフランスから軍事顧問を招聘して教育に当たらせることにした。
ナポレオンは最後に敗れたもののフランス大陸軍の強さは神話的な色彩を帯びており、そこから学ぼうとするのは自然な発想だった。
また、ナポレオンの人気は絶大なものがあった。
アウステルリッツの戦いのような少数の軍で大軍を下すというのは日本人の好むところであったし、最後に敗れて流罪となるのは判官贔屓の日本人の好みにあっていた。
さらにナポレオンが貧民から皇帝に成り上がり、欧州制覇まであと一歩というところまで昇ったことから、豊国様(秀吉)の生まれ変わりと擬す風潮さえあった。
ナポレオン焼酎やナポレオン歯磨き粉など、とりあえず新商品にはナポレオンと名付ければ飛ぶように売れた。
そんな謎の親近感を育てているぐらいなら、同盟国として戦ってくれとナポレオンが言ったかどうかは定かではないが、日本の陸軍はフランスをお手本に発展することになった。
なお、最初の陸軍7個師団の編成時点では、人員は兵員から将校まで全てが武士で占められていた。
武家政権において、軍事は武士の専権事項であり、武士以外は軍に入ることは認められなかった。徴兵制も敷かれたが、徴兵対象は全て武士の子息だった。
当然のことながら、軍においても家柄が立身出世についてまわり、下級武士にはどのような能力があっても高級将校になる道はなかった。
常在戦場を掲げる海軍は200年前から志願制で、河原者や元罪人であっても志願さえすれば入隊でき、努力次第では将校になれる実力主義を採用していたことを考えれば、あまりにも古色蒼然としていたが、保守派の抵抗もあってこれが当時の妥協点だった。
ナポレオンが激怒して助走をつけて殴りにくるような”国民軍”だったが、それでも日本に常設の陸軍が作られたことは大きな変化だった。
そして、軍備・兵制の変化は軍事政権である日本にとって社会の変化にも直結していた。
常備軍を揃えて安全を確保した秀成は、フランスの郡県制をモデルに廃藩置県を進め、中央集権化を図った。
廃藩置県(1822年)とは、土地・人民の支配権を天皇に返上し、封建制度を解体して近代的な中央集権国家をつくる大改革だった。
これには身分制の変革も伴っており、大名家や公家は華族、その家臣は士族、それ以外は全て平民とされた。
なお、廃藩置県は申告方式で、実施はそれぞれの藩の判断に任されていた。
申告方式としたのは大名家の反発を和らげるためだった。最悪の場合は内乱発生もあり得ると考えられていた。
しかし、大方の予想に反して廃藩置県には申請が殺到することになった。
理由は各藩の財政難で、既に資本主義化していた日本において、石高制を基礎とした封建制度は成り立たなくなっていた。
特に東北地方の藩は名古屋や大坂の銀行から借金に借金を重ねている藩が大半で、最低限の行政システムさえ麻痺しかかっていた。
藩の代わりに銀行職員が年貢を差押(という名の徴税)するケースもさえあった。
まるで闇金に給料全額を没収され、日銭を手渡しされて生活するサラリーマンのような話である。
東北に所領が広がる五大老の上杉家や中老の伊達家でも、米本位の体制が崩壊し、体面を維持するので精一杯だった。
地方自治がこのような状態では、全国統一的な教育や税制の近代化を図ろうとしても不可能であるため廃藩置県は必須と考えられていた。
全国の大名は返済不可能なレベルで積み上がった借金がチャラになることを知ると迷いに迷ったフリをしながら(内心は嬉々として)廃藩置県に応じたのだった。
ただし、全ての大名が廃藩に応じたわけではなかった。
長州藩や薩摩藩、肥前藩、土佐藩といった大大名は藩政改革で命脈を保ち、廃藩に抵抗した。
ただし、豊臣家からの圧力に屈する形で、ほぼ10年以内に日本国内の全ての大名が廃藩に応じることになる。
また、廃藩に応じた場合は各種の恩典があり、一定金額までは土地を国家に返納しなくてもよいことになっていた。
現代でも県庁や市役所、軍事施設が中世の城塞の中にあったりするのは、それが日本の伝統というわけではなく元大名家が県や国から借地料収入をえるためである。
田畑や山といった資産価値の低い土地や機能不全の家臣団を借金ごと国に返納し、商業一等地だけ手元に残して廃藩すれば、藩がなくなっても大名家の生活は保障された。
廃藩したあとの方が贅沢な生活をおくれたほどである。
これを徹底的に行ったのが豊臣家で、名古屋、熱田、大坂、博多といった全国の商業一等地を手元に残すことで、巨額の借地料収入を得ることができた。
華族には相続税免除の特権があり、現代まで続く日本の貴族階級が成立することになる。
ちなみに、平安以来の貴族である京都の公家衆には商業一等地のような所領がないため不動産収入を得ることは不可能だった。
五摂家のような名家であっても、所領は小規模なものしかなかった。
それでいて大大名と同じ公爵や子爵といった高格を与えられたので、金がないのに邸宅を構える必要があり、ますます公家華族は困窮することになった。
そのため、公家衆の多くは新体制下で外務官僚や軍人、実業家に転身していった。
ちなみに豊臣家は最高位である大公の座についた。
日本史の授業で、「人肌(18)恋し(22)く太閤から大公へ廃藩置県」と覚えた人も多いだろう。
なお、大公になっても関白職が廃止されたわけではなく、正式に関白職が廃止されるのは大日本帝国憲法の発布を待つことになるので注意が必要である。
大公豊臣家は、天皇の補佐(関白)の代理人(首相)をおき、新たに導入した内閣制度によって既に形骸化していた五大老・中老、奉行といった近世政治制度も解体された。
天皇家を頂点とした朝廷は新体制に併呑され、外交権は内閣に一元化された。
外交の管理が一元されたのは日英修好通商条約の締結後、欧州各国とも同種の条約の締結が相次ぎ、そのたびに朝廷から掣肘を受けることを秀成が嫌ったためである。
京都の公家衆はもはや旧時代の遺物としか言いようがない状態であるにもかかわらず外交問題に口出して、世論の顰蹙を買っていたことも大きかった。
秀成は世論の援護を得て、堂々と公家衆に改革を迫ることができた。
これは19世紀以前では考えられないことだった。
歴代の豊臣関白は京都の公家衆には概して先達として丁重な態度で接してきた。
借り物の権威しか持たない豊臣家にとって天皇の手足である公家衆と良好な関係を維持することが政治的な安定に寄与していたからである。
しかし、19世紀になると旧権威と現実政治の乖離が拡大し、秀成は自らの手で旧体制を葬り去ることを決めた。
豊臣家は一連の改革によって政治の表舞台から一歩引いたキングメーカー、日本の政治的なオーナーといった立場へとシフトすることになる。
秀成はさらなる改革として遷都も計画しており、新しい日本の首都を建設する計画をもっていた。
既に名古屋は手狭になりつつあり、太平洋の覇者にふさわしい政治機能を集約した新しい都を作ることが秀成の悲願だった。
しかし、その願いは果たされることはなく、秀成は苦悩に満ちたまま生涯を終えた。
秀成の悩みは、後継者の秀定が病弱な上に、不仲だったことである。
秀定は病弱な上に、今日でいうところの知的障害者だったのは確実である。
叱られると極度に興奮して暴れるなど手が付けられなかったとされる。
これが宮城県の寒村で生まれた知的障害者ならキャバクラ嬢に落ちる程度で済むかもしれないが、独裁者の子息となるとそうもいかなかった。
通常なら何らかの理由をつけて仏門に押し込めて無かったことにするのが武家の習いであったが、秀成の子で成人まで生き延びたのは秀定だけだった。
ナポレオン戦争の難局を泳ぎきって日本の領土を空前絶後まで拡大し、初代秀吉や秀次にならぶ太政大臣にまで登りつめて栄華を極めた秀成の不幸は子宝に恵まれなかったことで、成人したものは秀定を含めて3人しかなく、さらに孫も病弱で育たなかった。
秀成が半世紀に渡って関白在職だったのも後継者が実質的に不在だったためである。
実際、秀定は第13代武家関白となった僅か1年後に嫡子不在のまま急死し、後継者を巡って豊臣家は真っ二つに割れることになる。
将来起きることが確実な後継者問題が、国家を揺るがす事態になることを避けるために、豊臣家は表舞手から手を引いたと言える。
ただし、表舞台から手を引いたとしても、大公豊臣家の推薦がなければ首相になることは不可能であり、豊臣家の超法規的な強権はそのままだったことから程度の問題でしかなかった。
秀成の一連の改革は独裁者による上からの近代化として高く評価される一方で、その高圧的な手法は様々な歪みを生み出すことになった。
特に廃藩置県は、士族階級から大量の失業者を生み出した。
各大名が抱えていた家臣団の全員が新体制で再就職できるわけではなく、国家警察、陸軍・海軍の拡張によって吸収するのも限度があった。
職を失った士族の授産事業も国家主導で行われたが、大半の士族は困窮した。
抗議のためか、あるいは旧主への忠義を示すために食を絶って餓死する者さえいたほどだった。
京都の公家衆も同様であり、名ばかりの爵位を得ても生活ができず、豊臣家からの援助も打ち切られて、家名を売りに出すほどに落ちぶれた。
困窮した士族や公家衆は新体制への不満を募らせたが、フランス式の近代国家警察による取り締まりには太刀打ちできず、新大陸へと逃亡することになる。
ナポレオン戦争で日本が得た旧仏領ルイジアナが大量の移民を必要としていたことも彼らの逃避行を助けることになった。
実質はないが知名度はそれなりにある旧権威層と昨日まで独立した藩国を切り盛りしていた大量の行政官を帝国の辺境に追いやることの意味は極めて重大だった。




