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パックス・トヨトミ~または豊臣秀次は如何にして粛清を心配するのを止めて海軍を愛するようになったか~  作者: 甲殻類


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ゲンナイ・オーヴァードライブ


 平賀源内が生まれたのは、享保13年(1728年)讃岐国である。

 源内は高松藩に仕える白石家の三男として生を受けた。

 白石家は高松藩の中では足軽相当の低い身分であったが、源内は幼年期から利発な少年と評判で、長崎への留学を許された。

 愛知時代の長崎は、博多、神戸、平戸、堺、横浜に並ぶ日本の国際貿易港であり、海外から輸入された最新の学問を学ぶことができる場所だった。

 なぜならば、長崎は清へ向かう朝貢船の出発地点でもあり、回賜船や歳幣船の入港地にも指定されていたからだ。

 元禄時代以後、日本は清の朝貢国となり、清の沿岸を守る代わりに清の輸出物産を独占していた。

 この時代、中国製の陶磁器や茶、絹織物といった物産は全て長崎に集められ、そこから世界各国へと輸出された。

 紅茶やウーロン茶の名産地が長崎という誤解が広まったのは、このような背景がある。

 長崎にはスペインやオランダといった外国人が中国の物産を買い付けに集まり、各国の商館が連なったことから、商館の子息が生活するための外国人居留地がひらかれた。

 源内が学んだのは居留地内に作られた帰国子女向けの学校で、外国人の子弟と入り混じってヨーロッパの学問を学んだ。

 この時に覚えた外国語がスペイン語だったことが、源内の一生を決めてしまうことになるのだが、それは後述する。

 藩の金で留学させてもらった源内だったが、国元に帰れば足軽(下級武士)の仕事しかなく、これは明敏な頭脳をもつ人間にとっては退屈なものだった。

 若き源内が関白の膝元大都会名古屋で自分の才を示したいと考えるようになるのにさほど時間は必要なかった。

 彼が隠居願いを出して退職したのは28歳の時だった。

 隠居した源内は、姓を白石から平賀に改めている。

 源内は大坂、京都に拠点を移し、本草学(博物学)を学んだのち、名古屋に進出して日本初の物産会(薬種・物産を展示する会)を開催した。

 源内の物産会は大評判となり、源内は広くその名を知られることになった。

 ただし、それは物産会の主催者としてであって、博物学者としてではなかった。

 実際、源内には博物学者としての実績はほとんどない。

 一応、物産会では故郷の高松で発見した粘菌の標本などを発表していたが、見向きもされなかった。

 流行りのネタではなかったからである。

 18世紀半ばの日本における本草学者の流行とは、台湾やルソン、豪州や阿羅斯加の奥地を探検して新種の生物や鉱物を発見・発表することだった。

 動物好きで有名な五代目関白秀綱公の時代に建てられた東山動物園には、そうして集められた世界各地の珍獣が飼育されていた。

 ゾウやキリン、ライオンといったアフリカの動物を名古屋の庶民が拝観料さえ払えば自由に見て楽しめるという国際的な時代だった。

 秀綱に対抗して八代目関白の豊臣秀春が建てた熱海の植物園では温泉暖房を使って南方の植物や美しい熱帯魚が飼育されて好評となり、多くの見物客が訪れた。

 彼が主催した物産会は画期的なもので、当時、毎年のように海外から入ってくる珍しい物産を紹介することで、商取引の場として盛況となったものの、源内はブローカーになりたいわけではなかった。

 同じ流行り・廃れとして、源内は長崎で学んだスペイン語が、大都会名古屋では見向きもされていないことに愕然とさせられた。

 高松ではスペイン語が話せるだけで海外事情通として一目置かれたが、名古屋では通用しなかった。

 18世紀半ばになるとスペインは完全に斜陽の国となっていた。

 代わりに台頭したのが、オランダとイングランドだった。

 そして、オランダもイングランドとの競争に敗れて力を失っており、大西洋の覇者はイングランドという時代となっていた。

 名古屋でもイングランドの動向を知るためにはイングランド語(英語)が重要とされ、武士の子弟教育に英語を導入すべきか議論されていた。

 つまり、源内の学んだスペイン語は現代でいうところ死にスキルだったのである。

 ちなみに源内がスペイン語を覚えたのは、単純に下宿先がスペインの商人の家だったからで、特に深い考えはなかったとされる。

 本人が主張するスペイン植民地のアマゾン奥地へ冒険にでかけるためという理由は後付である。

 そもそも源内が藩の命令によって長崎で学んだのは会計事務(複式簿記)だった。

 源内は物産会の主催者として活動しつつ、油絵の発表や戯曲、歌舞伎の脚本を執筆するなど勢力的に活動したが、どれも評価は今ひとつだった。

 ヨーロッパ流の油絵は名古屋では珍しいものではなかった。それどころか名古屋では貧乏旗本が副業で近所の子供に油絵を教えていることさえあった。

 関白殿下は豪奢を極めた生活をおくっていたが、百石どりの貧乏旗本の生活は貧窮を極めており、武士としての体面を保つ金を得るため内職に勤しんだ。

 内職としては、傘の製作や爪楊枝づくり、金魚や鈴虫などの飼育販売や朝顔づくりなどがあったが、教養を活かして私塾を開く者も多かった。

 特に外国語の塾は人気があり、通詞方の役人だった野庭宇左衛門が開いた塾は評判となり、城前留学の野庭として多くの子弟を集めた。

 前述の油絵も教養のある武士が金銭収入を得るために近所の子弟に教える私塾の一つであり、葛飾北斎が油絵を学んだのもそうした無名の私塾の一つだったとされる。

 これは余談だが北斎の現存する油絵は2点のみで、その一つはパリのルーブル美術館にある「富岳」である。富岳は横浜のフランス大使館を飾るために製作され、長らく大使館の装飾品として使われたが、最終的に本国のルーブル美術館に収蔵された。

 話を源内に戻すと絵はそこそこ売れて、脚本の評判も悪くなかったが、それだけでは満足できなかった。

 自己顕示欲の強さが源内を苦しめたが、そこそこで満足できるなら、一生を高松で終えていたので、禍福は糾える縄の如しというほかない。

 友人に頼まれて、摩擦式の静電気発生装置(エレキテル)を修理したが、源内自身は電気学を全く理解していなかった。

 修理したエレキテルは、名古屋にあった私塾の備品であり、先進的な科学の道具だがすでに日本では特別に珍奇なものというわけではなかった。

 日本でも電気学は最新の学問として注目されており、電気に陰(マイナス)陽(プラス)があることも既に知られていた。

 愛知時代の日本で電気学の研究を進めたのは比嘉忠である。比嘉は稲妻を蓄える装置として雷電瓶(コンデンサ)を製作し、凧を使った実験で稲妻が電気学的な現象であることを証明した。

 また、電気理論を独自に研究し、1モルの電子の電荷に相当する比嘉忠の定数にも名を残している。  

 比嘉が残した功績を称え、国際単位系(SI)ではコンデンサの静電容量の単位としてP(ピカチュウ)が使用されている。

 なお、ほとんどの用途において、ピカチュウは静電容量の単位としては大きすぎるため、電子回路などに受動素子として用いられる一般的なコンデンサの静電容量を示すためには、

μP(マイクロピカチュウ)やnP(ナノピカチュウ)が使われてる。

 18世紀は自然科学に大きな発展があった時代で、日本の学問もそれまでの儒学・朱子学中心の修身的なものから自然科学の教育に力点が移っていく過程にあった。

 源内は具体的なことには強かったが、理論的なことは疎く、数式を書いてなにかを説明するということができなかった。

 スペイン語についても会話はできるが、筆記は全くダメだったというから一貫していた。

 筆記や理論が不得手というのは源内にとって大きなストレスだった。 

 友人の杉田玄白や前野良沢がモンテスキューの「法の精神」やルソーの「社会契約論」といったヨーロッパの最新の思想書を翻訳して脚光を浴びると源内も外国語の翻訳に取り組んだが、前述のとおり筆記ができないため挫折した。

 脚本家としてはそれなりに成功していたので文才がないわけではないのだが、才能の方向性があっていなかった。

 主催する物産会は毎回のように成功したし、どこからともなく商売の種を掘り出してくる源内は、業界人からは重宝されていた。

 暇つぶしに作詞作曲した歯磨き粉の宣伝歌が大好評となり、遊び半分で作った銀座の百貨店の宣伝大半紙(ポスター)が盗難に遭うほどに人気を博したので、源内がある種の天才であることは間違いなかった。

 要するに源内は、天才的なアドマンなのだった。

 その才覚がどれほどのものかといえば、現代に生きる我々がなぜか土用の丑にうなぎを食べなければならないといまだに思い込むほどである。

 また、天むすやきしめん、味噌カツ、味噌煮込みうどんが名古屋の名物として認知されるようになったのも源内の仕掛けである。

 源内以前の名古屋の名物と言えば、名古屋湾でとれた新鮮な魚介類を使用した寿司や天ぷら、二八蕎麦であり、天むすやきしめん、味噌カツ、味噌煮込みうどんは影も形もなかったとされる。

 さらに余談だが、森三と吉五郎の怪談も源内が広めたとされる。

 森三と吉五郎とは、現代まで続く名古屋の都市伝説の一種である。

 三日三晩、丑の刻に大樹にむかって相地空白(あいちくうはく)と唱えると夢枕に森三が立ち、歓待すると幸福をもたらすが迫害すると下僕の吉五郎をつかって災いをもたらすと言われている。

 また、一度死んでも乙酉の年に生き返るという説もある。

 近年はインターネット上のフォークロアとして全国的に知られるようになり、異世界の存在と交信する降霊術の一種として広まりを見せている。

 それはさておき、現代のアイドル事務所にいたら、プロデューサーとして伝説を大量生産していたかもしれない平賀源内という人間の不幸は、本人が自分を学者だと思い込んで、アカデミックな世界で脚光を浴びたいと乞い願っていたことである。

 そのため、源内は自分に絶望し、荒んでいた時期もあった。

 幸いにしても大きなトラブルになる前に立ち直り、周囲の勧めもあり初心に戻って本草学の研究に専心しようとしたが、国内でできることには限界があった。

 憧れの海外探検をやってみたいが、それには莫大な費用が必要だった。

 源内は秩父山中の鉱山開発に失敗して借金を作っており、パトロンからもこれ以上金を借りることができなかった。

 しかし、その時のツテで新大陸に砂金探しに向かう山師の探索船に便乗できることになったので人間の運命とは分からないものである。

 山師達が向かう新大陸のカリフォルニアはスペインの植民地であるため、スペイン語ができる源内が通訳として呼ばれたのである。

 源内が横浜を出発したのは1779年のことだった。

 カリフォルニアへの数カ月にわたる航海について、源内は詳細な記事を残しており、18世紀の海上生活がどのようなものだったのか知る手がかりとなっている。

 ただし、源内は劇作家として読者サービスがすぎるところがあり、オランダの幽霊船を見たとか、空を飛ぶ円盤をみたとか、人魚の歌声が聞こえたといった露骨な嘘も多いので注意が必要である。

 また、屈強な山師達や荒くれ者の水夫達との艶めかしい描写もかなり混じるので、耐性がない場合は読み飛ばすことをおすすめする。

 源内は生涯男色を貫き、妻帯しなかった。

 ちなみに愛知時代の男色は恥ずべきことではないのは、はっきりと分かっている。

 それはさておき、源内がカリフォルニアに到着したとき、すでにアメリカ独立戦争は始まっており、西海岸でも騒然とした雰囲気となっていた。

 自伝の中でも、本国から来たスペイン人達が不安げに武器の準備している様子や現地人と混血して土着したメスティーソが独立を叫んで沸き立つ様子が筆写されている。

 イギリス国王の支配に対して反旗を翻したアメリカ13植民地の戦争は、日本にとっても他人事ではなかった。

 その動向は関白や五大老といった重鎮も注目し、五相会議では植民地が独立戦争を企てた場合について対応が議論されていた。

 京の朝廷も世界各地に散らばった宮家と連絡をとりあって情勢の把握に努めていたことが当時の外交文書から判明している。

 ちなみに日本がアメリカの独立を認め、国交を交わしたのは1790年のことである。

 当時のカリフォルニアはスペイン植民地の北の果てにある場所で、大部分は手つかずのままで、まばらに牧場が広がっているだけの場所だった。

 山師集団は人の手が入っている場所には砂金がないことを知っており、カリフォルニアの奥地へと足を踏み入れることになる。

 源内も同行し、山師集団と砂金を探しながら西海岸の動植物のスケッチを多数残した。

 自伝においても踊るような筆致でその様が生き生きと描写されており、海外探検という夢の中にいた源内がいたことが伺える。

 ここでも読者サービスが過ぎるところが多く、ライオンの群れに襲われたり、キリンの群れをスケッチする描写や森の精と交信をする嘘八百が混じるので注意が必要である。

 ただし、冒険活劇と見た場合は極めて優秀であり、後の時代に源内の自伝を読んで心を打たれた吉田寅之助という少年がアメリカ横断冒険旅行に挑戦し、北米の歴史を変えることになるのだがそれは後述する。

 さて、幼き日の吉田少年の胸を打ったシーンは次のとおりである。

 奥地で数週間を過ごすうちに、源内達は赤人(アメリカインディアン)の襲撃を受けた。

 この時、源内は木に登って身を隠し難を逃れている。

 襲撃があったのは事実らしく、乗馬襲撃に対して護衛の傭兵がフリントロック・マスケット銃や朱槍で迎撃する描写が存在する。

 赤人が撃退されると山師の親方から


「いいよ、こいよ」


 と呼ばれたとき、近くに流れる清流の川辺が黄金に輝くのをはっきりと見たとされる。

 これがカリフォルニアゴールドラッシュの始まりであり、平賀源内が書いた戯曲「黄金一代男」のハイライトである。 

 名古屋で上演された「黄金一代男」はゴールドラッシュの起爆剤として、日本人を黄金の夢へと駆り立てることになる。

 時代もそれを後押しした。

 天明3年(1783年)に岩木山、浅間山が立て続けに噴火し、それに記録的な冷夏が重なったことで東北地方では農業生産が壊滅状態となった。

 台湾米や呂宋米が緊急輸入され、お救い米として配布されたが、それでも食料が不足しており、生き延びるために都市部へ大量の流民が集まった。

 流民による暴動を恐れた公儀にとって、カリフォルニア・ゴールドラッシュは渡りに船といったところだった。

 東北地方で被害が拡大したのは、土地柄もさることながら過剰な米生産にも原因があった。

 東北の各藩は天候不順の兆候を掴みながらも、換金性のある米作にこだわり、救荒食物である馬鈴薯や薩摩芋の栽培を制限していた。

 18世紀半ばまでに日本の支配階級の武士・大名家は殆どが財政難に陥っており、増収のために米の増産に力を入れていた。

 封建領主の収入とは基本的に土地からのあがり=農作物であり、税収=米だった。

 16世紀なら全ての支払いを米で済ますことができたが、18世紀にもなると貨幣経済が当たり前となり、支配階級らしい生活をおくるには金が必要だった。

 そこで各藩は米を増産し、お抱えの米商人に預けて換金するようになった。

 問題は財政難に対して米の増産で対応しようとすると米余りの状況が生じて、米と金の交換レート(米相場)が悪化して、却って財政難が酷くなることだった。

 一人(ミクロ)が米を増産すればその分だけ収入が増えるが、全員(マクロ)が一斉に米を増産すると全員が損をするという合成の誤謬である。

 外米(呂宋米や台湾米)が大量生産され、国内に流入するようになるとさらに米相場が悪化して、武士階級の窮乏・没落は顕著なものとなった。

 温かい南方に拓かれた水田では1年に3回も米がとれるため、内地の米作では太刀打ちできなくなった。

 武士の没落に対して資本を蓄えた商人、特に海外貿易、海外で大規模なプランテーション経営や鉱山経営を行う資本家が政治勢力として台頭するのも18世紀からである。

 ただし、全ての武士が没落したわけでもなかった。

 新田開発といった17世紀までは正解だった米本位の増収策に見切りをつけて、商工業の富に着目した武家は命脈を保った。

 その筆頭が豊臣家であり、公儀内部のパワーバランスも大きく変化し、関白の独裁傾向が強まった。

 特に八代目関白豊臣秀春以後はそれが顕著となった。

 秀春は、豊国様(初代秀吉)の再来と謳われるほど英明な君主で、倹約令を出して肥大化していた幕府の行政機構を簡素化するなど行政改革に大きな成果をあげた。

 果断な改革を進めるために秀春は、行政の停滞を招いていた五相会議による合議を必要としない関白独自の立法措置である関宣によって政治を行った。

 関宣は緊急時に限定して布告される立法手段であったが、秀春時代以後は常用されることとなり、五相会議の形骸化もあって、豊臣関白家の独裁化を助けた。

 名古屋や大坂、博多といった経済先進地を直轄支配し、海外の植民地を蔵入地に加えた豊臣家は五大老とは比較にならないスーパーパワーに発展しており、農業収入に依存する五大老との合従連衡は形骸化した。

 また、朝廷の権威が強まり、それまでは一方的だった武家とのパワーバランスが変わっていったのも18世紀だった。

 本国との連帯を保つために海外へ播種された歴代天皇の皇子、皇女を通じて、天皇のもつ権威を日本国内にとどまらない世界的なものへと拡大していった。

 宮家を通じて張り巡らされたネットワークは、これまで公儀の専権事項だった外交において無視することができない影響を与える存在へと成長した。

 重要な外交問題、特に国家間の条約の締結には天皇の勅許が必要不可欠という認識が強まり、外交案件を処理するため5年に一度だった朝議が3年に一度に変更されたのは1788年のことである。

 外交分野で朝廷の力が強まったのは、主権国家の概念が日本にも広まったことが一因と言える。

 日本の主権者とは誰か?という問いを立てると、それは天皇であるというのが一般的な解だった。

 もちろん、天皇が現実の政治において何の決定権も持っていないとしても、主権という抽象的な概念を司るには天皇がふさわしかった。

 では主権者である天皇を奉じる京都の朝廷とその天皇の補佐役(関白)を頂点とする名古屋の武家政権のどちらが偉いのか?という問いについて、名古屋や大坂のカフェーや紅茶館で喧々諤々の議論が巻き起こるのが、当時の政治的議論の最前線となっていた。

 さらにアメリカ合衆国の独立(1776年)は共和政体という日本の常識が通用しない政体があることを人々に知らしめることになった。

 秀春もジョージ・ワシントンが国王にならなかったことに衝撃を受けたとされる。

 それまでの常識なら、ワシントンが国王なり皇帝になるのが当然だったからである。

 実際、アメリカ独立戦争のあとにおきたフランス革命(1789年)は紆余曲折あったものの最終的にナポレオンが皇帝となった。

 それはさておき、カリフォルニア・ゴールドラッシュである。

 ゴールドラッシュ期間に産出した金は340tと推定されている。

 日本国内最大の金山である佐渡金山が閉山までに生産した金の総量が約80tであることを考えると桁違いの金が短時間に掘り出されたことがわかる。

 大量の金が流入したことで、日本では空前の好景気が到来し、化政文化が成立した。

 普通に考えれば、各国の争奪戦になりそうなものだが、日本以外の動きは鈍かった。

 一応、ゴールドラッシュ発生の報は欧州各国にも届いていた。

 しかし、欧州から移民が殺到するということにはならなかった。

 東海岸は独立戦争の真っ最中でそれどころではなかったし、欧州から西海岸はあまりにも遠かった。

 そもそも戦争当事国のイギリス、フランス、スペインといった参戦国にはゴールド・ラッシュにかまっている余裕などなかった。

 当事者のノヴァ・イスパニアは本国との連絡がイギリス海軍の海上封鎖で途絶し、現地人が不穏な動きを見せているので、日本人がやることを黙ってみているしかなかった。

 力ずくで排除しようものなら、たちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなり、ほどなくして日本本国から軍事力がデリバリーされるのは目に見えていた。

 そのため、カリフォルニアは日本人によって溢れることになった。

 砂金発見の1780年から1790年までの10年間で日本からカリフォルニアに渡った日本人は90万人前後と推定されている。

 ちなみに同時期の日本の首都である名古屋の人口はおよそ100万人である。

 人口の急増に伴って周囲には農地が拓かれ、インディアンの襲撃に対処するため要塞のような防御設備を持つ日本人町が築かれた。

 ちなみに当時の日本が国策としてインディアンを保護したといった事実はなく、入植を妨害するインディアンは赤蝦夷を称して征伐するのが通常の対応である。

 赤蝦夷が疫病にからきし弱いことは広く知れ渡っており、天然痘やコレラ、ペスト患者が使用した寝具を友好の品として贈与、親睦を深めるために酒宴を開いて騙し討ち、赤蝦夷が婚姻儀式で集まったところを襲撃して一網打尽にするといった人の心がない作戦が常用された。

 ただし、インディアン側も一枚岩ではなく、部族間抗争に勝利するために捕虜を奴隷として売却して日本製の武器を購入するといったケースもあった。

 また、西部開拓時代にはインディアンが入植者(白人)を捕虜にして日本に売って、日本の民間業者が購入した奴隷をサンフランシスコの花街で使用していたといった記録もある。

 逆に日本人の移民がインディアンに誘拐されて、白人の奴隷商人に売られてフロリダの農場に送られたという記録もある。

 よって関係者全員同レベルだったというべきだろう。

 さて、町ができればそこには信仰や祭祀を司る寺社が勧進された。

 愛知時代の寺社は宗門人別帳を管理する役所で、司法や警察権を行使するのは町奉行所の仕事である。

 奉行所ができればそこはもう豊臣家の蔵入地であり、当然のこととして内地から皇子か皇女がやってくることになる。

 愛知時代の外地における宮家とは、自国民の保護や領事・通関業務を行う外交官という位置づけになる。

 加州宮家の創立は1784年のことだった。

 この伝統は21世紀現在でも有効で、外交関係者、国際機関の勤務者には皇族が多い。

 そのため、国際機関に電話をかけるときには注意が必要である。

 とある代議士が権高な態度で威圧したあとで電話の相手がやんごとなき御方だと知って冷や汗をかいたということになりかねない。

 さて、ことの発端を作り出した源内は、1782年には砂金袋を抱えて帰国していた。

 源内は手に入れた砂金で借金を返済し、残った金で麹町に邸宅を構えて、前述の「黄金一代男」を執筆した

 「黄金一代男」が空前の大ヒット作になったことで、源内は我が身を振り返るところがあったのか、本草学の研究も止めて、作家業に専念することになった。

 源内はその後もヒット作を連発して、劇作家としての名声を確立した。

 黄金一代男に続くヒット作となったのは「摩耶国記」だった。

 古代の新大陸で繁栄した摩耶国の栄光と悲劇を描いたもので、栄光の絶頂にあったときにスペイン人の悪辣な策略で亡国を迎えるという筋書きである。

 「摩耶国記」の続編として、スペイン人と摩耶国人の混血の乙女が海賊船の船長としてスペインの支配に抗うというストーリーで「大航海時代」がヒットした。

 続く摩耶国ものとして、日本からきた本草学者の好青年が、ひょんなことから出会った摩耶国王族の生き残りの王女と共に摩耶王の残した財宝をスペインから奪い返すという筋書きの冒険活劇「水晶髑髏王国」が作成され、好評を博した。

 「摩耶国記」「大航海時代」「水晶髑髏王国」は摩耶国もの三部作として様々な媒体で上演・作劇・出版された。

 摩耶国三部作の元ネタはノヴァ・イスパニアでは被差別階級におとされたマヤ人やスペインに滅ぼされたメシカ(アステカ人)の子孫から源内が聞き取った古代神話である。

 源内は砂金堀りに集まった彼らからマヤ文明やアステカ文明の神話を聞き取り、作劇に使えるとして記録を残した。

 そのため、マヤ文明とアステカ文明の神話を混同する部分が見られる。

 しかし、どちらも太陽崇拝をしていたことは共通していた。

「水晶髑髏王国」の主人公は、


「摩耶国の民も日の本も民も太陽の神を崇拝している。天照大御神は、東の海に没したケツァルコアトルの生まれ変わりである」


 と述べて摩耶国と日本の同祖論を唱えている。

 ちなみに「水晶髑髏王国」の主人公となっている本草学者の好青年のモデルはどう考えても平賀源内としか考えられないのだが、本人が男色家のため矛盾する。

 つまりヒロインは実は男性だった可能性が高い。

 これは男の娘という話ではなく、校正の段階で版元が青年を乙女に書き換えた疑いがある。

 源内は男女の色恋ものとして、「真夏の世の淫夢」「野獣」「芸文」の三部作を手掛けたが、いずれも主人公と恋仲になるヒロインが商業戦略的な都合で男性から女性に差し替えられた疑いがある。

 愛知時代において男色は一般性癖だったが、部数を捌く場合にはまた別の理屈が働くということだった。

 後の時代に作品本来の姿を取り戻そうとする活動が広まったが、源内が残した草稿には本懐を遂げるために飲料に異物混入を図る描写があり、官憲から問題視された。

 それはさておき、源内は子供向けの作品としてマヤ、アステカ神話をモチーフにした怪人赤砂嵐・青砂嵐を書き上げた。

 基本的な筋立ては、新大陸で暴虐を働く白人をテスカトリポカの力を宿した正義の赤砂嵐と青砂嵐が成敗するという内容である。

 源内が帰国後に書いた勧善懲悪的な作品の多くは、悪役に白人をもってくる構成が多かった。

 これは源内が新大陸でスペイン人の官憲から受けた差別に対する報復だった。

 源内は生涯男色を貫いたが、保守的なカトリック教徒が多数派を占める18世紀のスペイン植民地においては社会的な地位を失いかねない主義主張だった。

 源内にとってカリフォルニアで受けた差別は忘れがたい屈辱となったようである。

 また、18世紀後半は欧州では白人優越主義、ヨーロッパ優越主義が広まりを見せており、人種差別が強まった時代でもあった。

 1776年にはイギリスで実用的なワット蒸気機関が開発され、工業革命が進行していた。

 ヨーロッパ各国で自然科学の産業利用が進み、生産力が拡大して、他地域に対する経済・軍事的な優位性が強まることになった。

 それ以前にも人種間の偏見や差別は存在したが、ヨーロッパといった特定地域を一方的な善とする形の差別は以前の時代には見られなかったことである。

 鋭敏な感性の持ち主だった平賀源内は、海外でそうした時代の始まりを敏感に感じ取り、日本人全員に警鐘を鳴らそうとしていたとも言える。

 ちなみに赤砂嵐と青砂嵐が繰り出す空中殺法を真似して屋根や木から飛び降りる子供が多量発生して社会問題となった。

 源内の作品は良い意味でも悪い意味でも人の心を動かす力があったということだろう。

 ただし、心が十分に成長していない子どもに見せるにはあまりにも毒の成分が強すぎた。

 死亡事故が発生し、遺族から責められた源内は名古屋に居づらくなり、さらに官憲の取り締まりが迫ったことから、取材と称して国外逃亡を図った。

 時に1788年3月7日のことである。

 この時、源内はヨーロッパを目指した。

 既に源内は成功した文芸者だったが創作意欲は全く衰えておらず、摩耶国もののように海外の神話や伝承をモチーフにした新作を構想していた。

 前回は新大陸に行くことで天啓を得たので、ヨーロッパを見聞すれば、良い作品が書けるのではないかと単純に考えていた節がある。

 源内は船旅で立ち寄ったインドでも精力的に取材活動をした。

 18世紀後半のインドはムガル帝国が衰退してインドを統一する勢力がなく、南部はマイソール王国、デカン高原地帯ではマラーター同盟といった小国連合に分裂し、イギリス東インド会社が軍事介入を繰り返して、支配を拡大していた。

 イギリスの進出に抵抗するマイソール王国は日本とも同盟関係にあり、日本の高名な文芸者ということで源内が歓待された記録が残されている。

 ただし、源内が発表した「風流欧羅巴伝」に出てくるスルタンの後宮に招かれそうになり赤面したという描写は明らかに嘘である。

 源内はインド滞在中に触れた黄金丸の活躍についても多くの紙面を割いた。

 黄金丸とは、マイソール王国に乗員ごと貸与された豊臣海軍の快速帆船で、第二次マイソール戦争(1780年~1784年)中に私掠船として運用された。

 イギリスが被った経済的な損失は、120億ポンド(当時)と言われている。

 イギリス海軍の最優先討伐目標となった黄金丸は、驚くべきことに全ての追跡・攻撃をかわして戦争を生き延びた。

 第二次マイソール戦争もイギリスの敗北に終わり、白人勢力の横暴を嫌っていた源内はこのことを快事と描写している。

 風流欧羅巴伝は3部構成となっており、第1部がインド(マイソール王国)編、第2部がエジプト編となっており、第3部が欧州編となる。

 源内はエジプト取材を大いに満喫しており、実際にクフ王のピラミッドに登ってスフィンクスを見下ろす描写がある。

 ラクダに乗って砂丘を横断したことやラクダのゲップの臭さに閉口したという描写についても概ね事実と考えられている。

 ただし、源内がガラクタ市で買った古代エジプトの仮面を通訳の荒木某という人物にふざけて被せたところ怪物に変化したなどという荒唐無稽な嘘も混ざっているので読む際には注意が必要である。

 源内は帰国後に古代エジプト神話をモチーフにした戯曲「死者の都」を発表した。

 「死者の都」は冒険活劇で、死者の書を巡る争いに日本の本草学者の好青年が巻き込まれるという筋書きである。

 本草学者の好青年はどう考えても平賀源内の本人である。

 ちなみに主人公の好青年に惚れるヒロイン役は非常に男性的な人物で、最後まで明確に女性であるという描写がなく、解釈によっては男の娘とも捉えることが可能であり、現在では源内による商業主義への抵抗と考えられている。

 蘇るミイラや古代エジプト文明の呪われた儀式といった新規性が注目を集めて好評となって、作品をベースにした映画が後の時代に撮影された。

 源内は、エジプトの次は船で地中海を横断し、スペインに上陸する予定だったとされる。

 しかし、フランスのパリで重大事件が起きたという情報を得て、源内一行は急遽マルセイユに向かうことになった。

 マルセイユからパリに向かう馬車の旅で、源内は騒然としたフランスの空気を詳細に描写している。

 1789年7月14日にフランス王国パリの民衆が同市にあるバスティーユ牢獄を襲撃して武器を奪って蜂起しており、革命の始まりがフランス全土に衝撃を広げている時期だった。

 地方でも富農や役人が民衆によって私刑にされるなど混乱が広がっていた。

 源内一行を乗せた馬車が自警団によって止められ、外国のスパイと疑われて危機一髪という描写もある。

 作品内では自警団の中にたまたま源内のファンが居て誤解が解けるという形で解決しているため、自警団云々は源内お得意の嘘八百だと考えられている。

 ただし、当時のフランスの民衆が革命を守るために外国からの干渉を警戒していたのは事実であり、源内はかなり危険な綱渡りをしていたことになる。

 外国のスパイとして殺害されても、文句は言えない状況だった。

 最終的に源内が大混乱中のパリに到着したのは、1789年の9月29日のことになる。

 源内はさっそくパリの民衆がヴェルサイユ宮殿に向かってデモ行進し、そのまま雪崩込む様子(ヴェルサイユ行進)を目撃することになった。

 民衆の暴力によって国王ルイ16世とその家族が成すすべもなくパリ市内のテュイルリー宮殿に連行され、事実上、監禁される様も見た。

 ルイ16世とその家族はその後国外逃亡を図って逮捕され、1793年1月21日にギロチンによって処刑された。

 源内がパリに滞在したのは1789年10月から翌年の3月までで、国王処刑を直接に目撃していない。

 3月時点で、パリは外国人の源内が活動をするには危険な場所となっており、パリの日本商館も撤退する情勢だった。

 フランスの港湾も戦争に備えて封鎖される寸前で、源内が脱出に成功したのは殆どぎりぎりのタイミングと言える。

 読者サービス過剰な源内はボルドーのワイン樽の中に潜んでフランスから脱出したと書いたがこれは嘘で、実際には日本商館の保護を受けて正規のルートで出国している。

 その後、源内は当初の目的地であるスペインを経て帰国の途についた。

 源内が帰国の船中で書き上げたのが「風流欧羅巴伝」であり、革命の熱気に当てられた源内は、その末尾をこう締め括った。


「君たちはどう生きるか。自由に生きるか、さもなくば死か」


 この一文は、フランス革命の熱をユーラシア大陸の東の果てへと伝えることになった。



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― 新着の感想 ―
荒木某って、あの年取らない漫画家さんかさては
フランス革命に翻弄された女装の男性がバスティーユで戦死する話とか書いてそう。 タイトルは「ベル○イユのばら(意味深)」で。
源内やりますねぇスギィ!
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