ゲンロク・ウォーフェア
元禄の役は、17世紀後半の東アジアにおける最大の戦争である。
中国史における位置づけでは、明清交替の最終段階、清による中華統一戦争となっている。
日本史では元寇の再来であり、3度目の朝鮮戦役といえる。
秀吉が起こした朝鮮戦役は、日明間に明確な和議が存在しないため、継続戦争という表現もある。
清朝の全盛期を築いた康煕帝は、戦争目標として台湾の奪還、東夷の征伐を掲げた。
台湾は統治の難しさから明代では放置状態の場所だったが、日本が開拓し、南方航路の要として発展した。
17世紀半ばには砂糖の生産地となり、本土へ大量の砂糖を輸出することとなった。
台南は豊臣海軍の重要な根拠地であり、日本の私掠船は中国沿岸において密貿易、上陸襲撃、略奪を行った。
明の遺臣も抵抗拠点として台湾を活用し、一時的に江南を奪還することに成功している。
しぶとく抵抗を続ける旧勢力とそれを支援する日本に対し、清の康煕帝は東夷征伐を最初から不可避と判断していた。
そのため1683年に国書を日本へ送る以前から軍船建造を命じており、先に服属させた李氏朝鮮に糧秣を供出させる手筈を整えていた。
日本攻撃を任された水師提督の施琅は過去二度に渡って失敗に終わった元朝の対日戦争を調査し、台風の季節に攻撃することを避けることや、博多湾の防備が極めて強固なこと、朝鮮兵は士気が低く足手まといにしかならないので戦闘部隊には用いないことを康煕帝に献策している。
予習についてはほぼ完璧だったと言ってもよい。
康煕帝は全ての献策を受け入れ、その上で南明戦では城壁・城門を破砕した紅夷砲を大量に製造させた。
紅夷砲とは欧州から輸入した前装式大砲のことである。
明代にはすでに中国で国産化され、明・清双方で使われていた。
大量の砲兵投入からわかるように、清は日本の戦闘力を高く評価しており、十分な準備を整えていた。
予想外だったのは、最初の国書を受け取った時点で日本側が戦争を決意し、ただちに動員を実施して、釜山に先遣隊を上陸させたことだった。
康煕帝は日本が戦争準備のために時間稼ぎを図って何らかの外交交渉を試みると予想しており、最終的に戦争に発展するとしても、それは清が攻め込む形を想定していた。
しかし、日本は先手をとった。
天和2年(1683年)3月に仙石政明率いる日本軍先遣隊(兵数3,000)が釜山に上陸した時点では、まだ清軍は本土から朝鮮半島へ移動中だった。
康煕帝は日本軍の素早い釜山上陸に驚き、北九州や山陰への上陸侵攻から朝鮮半島に侵入した日本軍排除へと切り替えた。
この時点で、日本側の本土防衛計画は成功を収めたと言っても過言ではなかった。
なぜなら朝鮮で戦っているかぎり、台湾や本土の安全は確保されるからである。
日本軍の素早い対応は、予てから日本側が本土防衛計画を策定し、朝鮮半島での前進防御を準備していたことが大きかった。
そのための役として1655年には鎮西探題が博多に置かれた。
鎮西探題は、清との戦争に備えて大陸の情報収集にあたり、防衛計画の策定や武器・兵糧の集積という役目を果たし、西国の大名が輪番で担った。
なお、鎮西探題は暫定的な組織だったが、最終的には平時より有事を想定して軍備計画・動員計画などを研究・準備する国家機関である日本陸軍参謀本部に発展した。
鎮西探題の設置は豊臣秀次の遺訓だった。
なお、日本軍が北九州沿岸での邀撃ではなく、朝鮮半島での前進防御を選んだのは本土で戦えば軍のみならず民衆にも多大な損害がでることが予想されたためである。
日本国内での大規模な戦争は、1590年の小田原征伐以降絶えて久しく、17世紀末にもなると北九州一帯は国際貿易港の博多を中心に経済先進地となっていた。
日本全体でも、100年かけて人口が倍増し、総人口が3,000万人を超えていたと推定される。
このような状況で、軍民が綯い交ぜとなった本土決戦など避けられるものなら避けたいものだった。
では、朝鮮半島の民衆はどうなってもいいのかという話になるのだが、清に服属している時点で李氏朝鮮は敵国であり、その民衆がどうなろうと知ったことではなかった。
先遣隊を率いて上陸した仙石隊は海軍の協力を得て釜山の港湾を確保すると後続の増援を得て兵数を12,000に増やすと1番隊として物見(偵察)に出た。
仙石隊(豊後藩)は、秀吉に仕えて豊後藩46万石を築いた仙石秀久を藩祖とし、福島正則や加藤清正に並ぶ豊臣家子飼いの武官である。
そのため、本領発揮として仙石隊の士気は高かった。
しかし、実戦経験については皆無であった。
これは他の隊も全く同じで、渡海軍総大将を務めた五大老の島津綱貴にしても、これが初陣だった。
ちなみに清軍は殆ど1世紀に渡って明との抗争に明け暮れてきた実戦経験の塊のような軍隊である。
先行する仙石隊はその洗礼を受けた最初の日本軍となった。
1683年4月の烏山の戦いは、漢城を目指して北上する仙石隊が清軍八旗(兵数20,000)の待ち伏せを受ける形になった。
仙石隊は、清軍がどこまで南下しているのか把握しておらず、頭から敵の罠に飛び込んだ。
その有様は、
「羊入虎口」
という僅か4文字の戦勝報告として康煕帝に届けられた。
仙石隊の北進は威力偵察を兼ねていたのだが、前方警戒が全く不十分だった。
続く、大田の戦い、テグ合戦でも日本軍は大敗し、先遣隊及び後続軍の20,000が壊滅した。
開戦初期、日本軍はどこか清軍を侮る風潮があった。
脳裏にあったのは、慶長の役で対戦した衰退期の明の軍隊であって、中華史上最高の名君を迎えて全盛期を迎えた清の軍隊がどういうものか理解が及んでいなかった。
大損害を受けた日本軍は、漸く敵の次元の違う強さを理解したが、完全に手遅れであり、釜山に追い詰められることになった。
清の東征軍の総司令官に任ぜられた周培公は日本軍について
「個々の武勇には優れるが、まとまりのない弱軍」
と辛辣に評価している。
ただし、これは殆ど一世紀近く平和が続いた国の陸軍としては止む得ないものだった。
個々人で武芸の鍛錬はできていても、数千人単位での大規模な行軍、合戦の演習などは財政難で行われなくなっていた。
各隊を指揮する大名や侍大将についても軍隊の指揮や戦争への理解が具体的でなく、軍事教育はある種の精神修養法となっていた。
要するに、日本軍は平和のうちに素人の軍隊に成り果てていたと言える。
豊臣海軍は模匪・百破の兵として恐れられたが、それは少数でコマンド活動する場合の評価であって、正規の地上軍になると周培公の評価が正しい。
日本軍は後に専門的な軍事教育機関の必要性を痛感し、各藩では兵学堂を設けて武士の子息へ軍事教育を行った他、市ヶ谷に陸軍伝習所が開設されることになった。
陸軍伝習所は後に日本陸軍士官学校の原型となる組織である。
さて、釜山に追い詰められた日本軍は円陣防御を敷いて籠城戦の構えをとった。
釜山の戦い(1683年6月~12月)は、清軍東征軍15万と日本軍6万が激突する長期戦となった。
釜山を完全包囲した清軍であったが、追い詰められた日本軍は洛東江にそって野戦築城を行っており、容易に守りを崩すことができなかった。
周培公の評価どおり、日本軍は弱軍ではあったが、弱軍であっても陣地に立てこもって火縄銃で射撃戦に持ち込むことで、経験豊富な清軍にも対抗することができた。
また、陣地戦なら清の騎兵突撃も無効となった。
日本軍にとって清軍の騎兵隊は野戦において最も恐るべき存在だった。
日本にも騎馬隊はあったが、質・量ともに完全に圧倒された。
清の皇帝はモンゴルの大ハーンを兼ねており、大量のモンゴル馬を動員することが可能だったためである。
日本が国費を投じて軍馬の改良に取り組むようになるのは元禄の役の後のことである。
総大将の島津綱貴は野戦の不利をいち早く理解し、戦争を陣地戦に持ち込んだ。
島津公自身も実戦経験はなかったものの九州の最果てを治める島津家は戦国の遺風が強く残る家であり、誰よりも早く戦争の実際に適応し、戦局の要諦を理解した。
その島津公であっても清軍との野戦は、
「卵を以て石に投ずるが如し」
と表現した上で、
「日本に海これ無き候はば、都まで敵軍を遮るものこれ無きに付き、誠に滄海これ有るは、国家の仕合わせに存じ奉り候」
と名古屋に絶望的な戦況を書き送っていた。
釜山の戦いは、1683年9月に最高潮に達し、清軍が紅夷砲400門による集中砲撃を行って日本軍の陣地を一部占領することに成功した。
日本軍にも紅夷砲があったが、大量砲撃に驚いて足軽が逃亡してしまったため、立て直すことができなかった。
防衛線に空いた穴には間髪いれず清軍の騎兵が殺到し、全軍崩壊の危機を前に逆襲に出た日本軍との間に大邱の戦いが発生した。
大邱の戦いは文字通りの意味で日本軍が屍山を築いて清の騎兵を押し留め、陣地を奪還して首皮一枚で釜山を守り通した。
総大将の島津公は本営の馬廻り・旗本衆の全てを前線に投入し、島津勢5,000が尽くが討ち死にする捨て奸によって清軍騎兵の突撃を阻止し、予備隊(黒田隊)の逆襲を成功に導いた。
島津の軍法は、戦争慣れした清軍であっても理解を超越したものだった。
そもそも清軍にとってこれまでの戦いは国内戦であり、敵味方間での内通や裏切り、買収工作は日常茶飯事で、不利を悟れば敵は逃げ去るか、投降するものだった。
死兵という言葉は知っていても、本当に死ぬまで戦う敵というものを知らなかった。
全ての日本兵がそうではなかったのだが、未知との遭遇は清軍の行動を慎重なものとし、戦線の安定に寄与した。
また、釜山の戦いは海路で補給できる日本軍に対して、全てを陸路で運ばなければならない清軍にとって不利なものだった。
日本の海上補給路を封鎖するために出動した清水軍と豊臣海軍が激突したのが、蔚山沖海戦となる。
軍船の数では、清水軍が600隻、豊臣海軍が300隻と2倍近い差があった。
ただし、清水軍が封鎖のために散らばって行動していたのに対して、攻撃側の豊臣水軍は佐世保艦隊と呉艦隊の二群に分かれているだけで戦力を集中できた。
また、中国は明の時代から海禁政策をとり、清もそれを継承していたことから、船舶技術は16世紀末から海洋進出を強めた日本の方が勝っていた。
17世紀末になると日本の洋式帆船は独自の進化を遂げて、万石船(1,500t級)に発展して、高速で東南アジアと日本を結ぶようになっていた。
18世紀には二万石船や三万石船といった巨大帆船が登場し、大砲の数も100門を超えることとなる。
蔚山沖海戦では、100隻以上の万石船が集結した。
ちなみに万石船が備える大砲は多くても20門であった。
これでも清のジャンク船の備えた大砲の倍近い数だったが、同時期のスペインやオランダの船に比べると少ない。
これは東アジアに日本以外の海軍国がないため、この程度で十分だったことが大きい。
なお、この時代の海戦は砲戦で決着がつくことは稀である。
砲戦は相手の船のマストや操舵機構を破壊して動けなくすることが目的だった。
この時代の大砲が使う砲弾は鋳鉄製の丸弾で、水線下を破る機能はないため、砲撃だけで沈没に至ることはほとんどない。
砲撃のあとは銃撃を加えて甲板の水兵を打倒し、接舷して切り込み隊を送って鹵獲するか、放火して焼き沈めるのが基本である。
少数の切り込み隊が勝敗を分かつような戦いは、日本刀と侍の独壇場となった。
そして、船はいつの時代でも極めて高価であることから、豊臣海軍では鹵獲を基本とし、よほど余裕がない場合のみ焼き沈めることとしていた。
蔚山沖海戦はよほど余裕がない場合に相当したので、清水軍の軍船の多くは焼き沈められたが、それでも60隻あまりが鹵獲されたことが軍忠状の解読で分かっている。
ちなみに船を鹵獲した場合は関白が買い上げる決まりとなっており、その報奨金は船の乗員全員が数年遊んで暮らせるほどになった。
豊臣海軍の水兵にとって清水軍は美味しい鰯のようなもので、それが一塊の群れでのこのこ出てきてくれたのは、食ってくれと言っているようなものだった。
陸軍とは異なり、海軍は実戦経験豊富で、海の戦いでは清を全く寄せ付けなかった。
水師提督の施琅は逃げ延びることに成功したが、康煕帝に大敗を報告することとなり、死を覚悟した。
しかし、康煕帝は負けて帰った施琅を慰労し、それどころか水軍の再建と打開策の立案を求めた。
ちなみに明朝では、文官や武官も含めて役人は薄給であり、皇帝の気まぐれでなんの咎もなく死罪を賜ることは日常茶飯事であった。
ましてや敗戦となれば、よほどのことがないかぎり死罪を免れなかった。
康煕帝はそのような悪習の払拭に努め、役人が安心して働ける環境を整えたことが清朝の黄金時代を作り出したと言える。
奮起した施琅が献策したのが遷界令であった。
これは海岸線から30里(約15km)以内の地帯に住む全住民を、強制的に内陸部に移住させ、沿岸部を無人化するという焦土作戦だった。
康煕帝は無謀とも言えるこの作戦を承認し、施琅を責任者に抜擢した。
結果として、豊臣海軍の沿岸襲撃、私掠船活動は無意味となった。
焦土作戦で奪うべきものがなくなってしまったからである。
さらに私掠船から上納金を巻き上げていた豊臣家も大打撃を受けた。
ただでさえ大戦争で金がないのに、貴重な金づるがなくなってしまったからである。
焦土作戦に巻き込まれて貿易が途絶することになったスペインやオランダからも正式な抗議が来たことで国際的な苦境にも陥った。
勝利に浮かれていた豊臣海軍は完全に遊兵化し、虚しく海上を彷徨った。
勝負には勝ったが、戦には負けたとも言える。
江南への上陸作戦も検討されたが、自殺行為として沙汰止みとなった。
迂闊に内陸に入り込み模匪・百破していた豊臣水軍の将兵は、急行した清軍の騎兵に捕捉・殲滅された。
その場で討ち死にするのならまだ幸せな方で、怒り狂った中国の民衆に引き渡された場合の末路は悲惨だった。
豊臣海軍の将兵が特に恐れたのは、呣呀啵(mǔ ya bō)という処刑方法だった。
あまりにも残酷な処刑方法であるため詳述することは避けるが、人体を内部から生きたまま爆砕するという惨たらしい死刑であるとだけ述べる。
さらに余談だが、模匪・百破は中国語では侮蔑的なニュアンスの言葉である。
しかし、日本ではその意味を誤解しており称賛に近い意味で誤用した。
百破するといえば、日本では勝利、克服という肯定的な意味に使われるが、中国では犯罪行為に手を染めるという意味になるので中国へ渡航する場合は会話に注意が必要である。
このような事例は他にもあり、元禄の役で総大将を務めた島津公は中国から鬼島津と称されたが、鬼は中国では死霊、悪霊(つまらない存在)という意味で、島津公の武勇を褒めているわけではない。
さて、海の戦いが戦争の趨勢に寄与しなくなり、陸の戦いは膠着状態となった。
釜山を攻めきれないと判断した康煕帝は全軍を漢江まで撤退させた。
清軍があっさりと包囲を解いたため、日本軍は疑心暗鬼となった。
島津公は追撃を禁じ、翌年の戦いに備えて防衛線の構築を図った。
日本軍にとって、この戦いは防衛戦であって中国本土への侵攻戦ではなかった。
再編した日本軍は、蔚山から順天までの朝鮮半島南岸に突貫工事で砦、城をつくり籠城・防衛戦を行う体制を整えた。
清軍は、日本軍が追撃した場合、即座に反転して野戦で撃滅する腹積もりだったから、あてが外れたことになる。
しかし、漢江まで引いたことで補給は格段によくなり、低下傾向だった士気も回復した。
康煕帝は長期戦に備えて、朝鮮半島での街道整備や食料基地を建設、攻城兵器の増産など翌年の戦いに清軍は万全を期していた。
翌、1684年の春、雪解けを待って再び南下した清軍は日本軍の砦、城を包囲し、各地で激戦となった。
いわゆる、三城(蔚山城、順天城、泗川古城)の戦いである。
日本軍が築いた城は、土塁と煉瓦を組み合わせたもので、城壁が低い代わりに空堀を張り巡らせていた。
日本の城郭建築の特徴だった石垣は少なくなっていた。
これは石が砲弾の衝撃で砕けてしまうためで、衝撃に耐えるために土塁で覆う必要があったためである。
全体として直線的な幾何学模様を描いており、これは後に作成された屏風絵や絵巻物などでも確認することができる。
いわゆる、稜堡式城郭である。
確かに日本軍は素人の集団ではあったが、清とは異なり、ヨーロッパから最新の軍事技術を輸入することができた。
清軍が押し寄せてきた時点では、殆どの城が未完成で稜堡が土塁だけという部分も多かった。
それでも効率的に配置された火縄銃と大砲の十字砲火を浴びた清軍は大損害を出した。
すぐに紅夷砲が用意され大量砲撃が行われたが、中世式の城郭とは異なり土塁が砲弾の衝撃を吸収してしまうため、打ち崩すことができなかった。
清軍は兵力を増強して20万の大軍を投じて各城を囲んだが落城した城は一つもない。
途中から、清軍が損害にたまりかねて攻撃を中止し、兵糧攻めに切り替えたものの、各城塞はすでに十分な糧秣や弾薬が運び込まれている他、船着き場が整備され海路で補給することも可能だったので意味がなかった。
当初は素人集団だった日本軍も、戦争2年目になると少しずつ往年の勘を取り戻し、簡単に士気崩壊を起こすこともなくなった。
士気崩壊して逃げようにも城塞の中では逃げる場所がないとも言えた。
結局、冬前に清軍は各城の包囲を解いて北上して、漢江まで撤退して冬営に入った。
清軍は偽装撤退で日本軍を城塞から釣り出そうとしたが、防衛戦を戦っている日本軍は誘いに乗らなかった。
翌年も清軍は押し寄せてきたが、三城を囲むだけで落とすことはできなかった。
正面攻撃は危険と判断した清軍は坑道を掘って前進し、稜堡にとりつくなど一定の戦果をおさめたが城内には鎧甲冑で固めた武者(重装歩兵)が待ち構えていた。
元禄の役は鎧武者が活躍した最後の戦争といえる。
以後の戦争では銃火器の発展によって甲冑は無力化され使用されなくなった。
清軍は天然痘で死亡した病死体を投石機で投げ込んだり、有毒植物を燃やして燻す毒霧殺法、火攻め・水攻めといったあらゆる攻城策を用いた。
日本軍も手練手管を尽くし、膨大な犠牲者を出しながら城を死守した。
三城の戦いは、日本にとって初めての近世的要塞を用いた大規模戦闘であり、忘れがたい印象を残した。
日本の軍隊が極度に装甲と火力に偏重することになったのも、元禄の役を始まりと説明される事が多い。
野戦(機動戦)で勝てないのなら、装甲と火力を積めばいいじゃないのという態度である。
元禄の役の後、日本軍は太平洋の各地に稜堡式城郭や星型要塞を築くことになり、要塞・野戦築城技術が大きく発展した。
平和だった日本国内では要塞建築が行われていないため目にすることは少ないが、蝦夷地の五稜郭や呂宋の六芒郭などが有名である。
さて、戦争が3年目に突入し、損害と戦費が積み上がるだけの膠着状態が続くと自然と日清の間で、話し合いの場が持たれることになった。
ただし、和議がまとまるのはそれから3年後のことである。
元禄2年(1689年)に結ばれた天津条約により、元禄の役は終わった。
日本は敗北を認め、台湾を清に還付することになった。
ただし、清は統治者を派遣しなかったので、日本の実効支配が続くことになった。
このような裏取引が行われたのは、台湾を取り返したという実績がなければ中華統一という格好がつかないための妥協である。
台湾に亡命した明遺臣の引き渡しも行われたが、戦勝記念ということで即日、全員が恩赦された。
日本は海賊行為の停止にも同意し、清に朝貢して冊封にも応じることになった。
ちなみに朝貢して皇帝に三跪九叩頭の礼をするのは、日本の天皇の代理(関白)の名代(木下家)の補佐(百花家)の家来(瀬戸家)でよいとされた。
以後、瀬戸家は150年に渡って、家業として土下座を練磨し、瀬戸流土下座を生み出すことになった。
その土下座は流麗にして狂猛と高く評価されたが、外交の近代化によって現代では失伝している。
しかし、裏社会では未だ瀬戸流は現役と言われており、ヤクザ組織の最終兵器として重用されているという噂がある。
筆者も近所のとある食堂でメニュー以外の注文やアレンジを受けないというこだわりを30年貫いていた頑固親父が全裸土下座でカレーラーメンを注文する中年男性によって1秒で覆されるという珍事を目撃したことがあり、噂は真実であると確信している。
その土下座に国運がかかっていた時代が確かに存在したのである。
康煕帝が唐朝太宗や漢朝高祖(劉邦)を超える中華史上最高の名君とされている根拠として、武を以て東夷を跪かせたという元朝世祖がなし得なかった偉業を達成したことがあげられているほどである。
さて、土下座外交の代わりに日本は歳幣を得ることになった。
歳幣とは中国王朝が、対等または強大な周辺国(遼・金など)との和親・平和維持のために、毎年贈与した金品や絹織物などの貢物のことである。
康煕帝は日本の強力な海軍力を認め、国防に活用する道を探り、講和交渉を通じてある種の傭兵契約を結んだ。
清は明に続き海禁政策をとっており、元禄の役の後、スペインやポルトガル、オランダといった国々との貿易を閉じていくことになる。
所謂、鎖国体制である。
日本でも問題となったキリスト教徒の増加を抑えるため康煕帝は宣教師を追放し、禁教令を敷いた。
そして、外国船が近寄ることがないように、豊臣海軍という防壁を立てた。
夷を以て夷を制するという歴代中華王朝の基本外交政策といえばそれまでである。
日本もそれを理解した上で取引に応じた。
なぜならば、日本は歳幣としてこれまで略奪するか密貿易で得るしかなかった中国の豊かな物産を独占できるからである。
それなら武士にとって命よりも大事な名を捨てて清の番犬に成り下がることもできた。
何しろ6年も続いた大戦争で、日本の国家財政は破綻寸前だった。
途中で軍事費が尽きたため、豊臣秀綱は大規模な貨幣改鋳に手を出していた。
貨幣改鋳とは、発行済みの通貨(小判)を回収して新貨幣として発行する際に混ぜものをして金の純度を落とすことでより多くの小判をつくり差益を得ることである。
これによって日本は軍事費を賄うことができたが、大量の通貨発行と軍需物資の買い占めによって激しい物価高騰となっていた。
物価高騰によって庶民の生活を苦しめ、しかも清の要求を表面的にはほぼ丸呑みした秀綱の評価は長きにわたり極めて低いものとなった。
さらに秀綱がだした生類憐れみの令は、晩年に秀綱が老害を撒き散らすようになると極端な殺生戒として誤用されることとなり、人々は秀綱を犬関白とよんで蔑んだ。
康煕帝と比較して秀綱無能論が長く学会を支配した時代もある。
ただし、近年は評価見直しが進んでいる。
軍事支出の増加と貨幣改鋳によって、大量の通貨が発行され、市中に出回る通貨が増加したことで旺盛な民間需要を作り出すことになり、高度経済成長が実現したからである。
人間の欲望には限りがないが金の量には限りがあり、金の量が需要の上限である以上、その限りが2倍、3倍と増えれば、需要増大に対応して供給力が拡大・発展し、需要と供給のバランスが均衡するまで経済全体が拡大することになる。
今日の日本文化の原型である元禄文化が生まれたのも元禄の役の後のことであり、経済成長によって生活のゆとりが生まれ、その余裕が文化を育んだ結果である。
戦争による膨大な財政支出がなければ、元禄文化は生まれなかったというのはあまりにも複雑な結論である。
しかし、文化の担い手とはその時代の高等遊民であり、文化の結晶とは彼らの暇つぶし、あるいは自己表現であることを考えれば、生活にゆとりを作り出す経済の発展こそが文化の土台にふさわしい。
どのみち、康煕帝と比較したら大抵の東アジアの君主は無能か暗君になってしまうので、秀綱無能説は八つ当たりに近いものである。
極端な殺生戒として誤用された生類憐れみの令も本来は元禄の役で生じた膨大な戦傷病者を保護する社会福祉制度として近年では再評価が進んでいる。
清への朝貢についても同様である。
17世紀末には日本の金銀生産は下火となっており、豊富な銀生産を背景とした貿易に曲がり角が来ていた。
日本が貿易を続けるには新たな輸出物産が必要となっていたが、その枠を豊かな中国の物産が埋めることになる。
具体的には絹織物や生糸、陶磁器や茶である。
日本はそれらを独占し、ヨーロッパで販売することで巨利を得ることになった。
そのための国策組織として、東アジア株式会社が博多におかれた。
東アジア株式会社は日本最初の株式会社であり、日本の総合商社の始祖である。そして、日本初の国際企業でもあった。
17世紀末まで日本の貿易船は東南アジアどまりであったが、元禄以降、遥かヨーロッパを目指して航海することになる。
当然のことながら、利益の独占は軋轢を生むことになった。
特にオランダの東インド会社とは完全に決裂した。
オランダは対日貿易ではスペインやポルトガルに対して出遅れた後発組であったが、カトリック教会とセットになっていたスペインやポルトガルが禁教令で排除されたあとも日本とは通商を続けることができた。
ただし、日本が海外貿易に乗り出し、貿易の利益率が悪化すると関係が悪化した。
元禄の役では東インド会社は蔚山沖海戦では軍船4隻を派遣するなど清に肩入れした。
後日、日本から詰問された際には通常の傭兵契約と釈明したものの日本との関係悪化は決定的となった。
元禄の役の後、豊臣海軍は中国沿岸で密貿易を図るオランダ船を清の官憲に代わって取り締まることになり、しばしば交戦状態となった。
オランダ以外にもイングランドとも敵対関係となった。
中国の工芸品を積んだ日本船はイングランドの私掠船にとって垂涎の獲物だったからである。
康煕帝もそれを狙って、オランダやイングランド勢力を煽っていた節があり、日・英・蘭は貿易の利益を巡って相争うことになる。
中国沿岸を荒らし回った模匪・百破の兵が今度は狩られる側に回ることとなり、豊臣海軍が商船の護衛というものを真剣に考えるようになるのは元禄の以後ことである。
ちなみに潜水艦のような兵器のない時代における通商護衛とは、私掠船を見つけ次第拿捕・撃沈することである。
標的が変わっただけで模匪・百破の時代と何も変わらないとも言える。
豊臣海軍は至って真剣に紅毛人の私掠船は百破するため、日本の軍船は太平洋の彼方まで彷徨うことになった。
広大な海図が作られ、上陸した島々に日本人は名前をつけて回った。
今日でも太平洋の各地にはその名残が残っており、有人島の場合は羽合島や湯加島、騾馬売島といった現地語をそのまま当て字にすることが多かった。
無人島の場合は、紺碧島や朝日島、彼岸島といった和名をつける事が多い。
命名は最初に発見した者の権利とされており、発見者が自分の名前を刻むこともあった。
その中でも最も有名なのが、豪州と阿羅斯加だろう。
日本の地図に豪州・阿羅斯加が現れるのも元禄以後である。
豊臣海軍の千代丸がオランダの密貿易船を追っている最中に発見したのが日本人と豪州のファーストコンタクトであった。
未知の大陸を発見した船長の豪宏美は、当初はそれが大陸であるとは気が付かず大きな島と誤解し、自分の姓をとって豪島と名付けた。
後にそれが大陸であることが判明したため大陸を意味する州がつけられ豪州となった。
豪州を先に発見したのはオランダ東インド会社のウィレム・ヤンスゾーンであったが、入植は日本の方が早く、元禄13年(1700年)には蔀に入植地が開かれた。
蔀は現代では豪州最大の都市となっている。
阿羅斯加の発見は、蝦夷地から北東に進んだ山師達によって達成され、ベーリング海を渡った先に未知の大陸を発見した。
現地語のアラシュヵ(半島の意味)をそのまま当て字にしたのが阿羅斯加となる。
元禄年間は前述のとおり経済が大きく発展したが、平和な時代が長きに渡って続き、日本国内は人口が飽和状態となったことから飢饉も発生した。
豪州に入植地が建設されたのも食料問題が背景にあった。
20世紀にハーバー・ボッシュ法が発明され、窒素肥料の工業生産が実現するまで、人口は常に農業生産力の制約を受けていた。
農業生産の拡大は、農地の拡大とイコールであり、増えすぎた人口を養うために農地の拡大が必須だった。
しかし、17世紀の土木建築技術で開拓できる場所は日本国内では殆どなくなっており、18世紀以後は多額の費用を投じて土木工事を行わなければ農地を得ることはできなくなっていた。
徳川家を財政破綻に追い込んだ木曽・長良川・揖斐川の堤防工事(宝暦治水)などはその良い例である。
それよりも安価な解決方法として、移民が奨励されるのは社会動向からして不可避だった。
元禄以前にも東南アジアに移民して日本人町をつくった者たちはいたが、彼らの多くは浪人(下級武士)だった。
18世紀以降の移民は、追い詰められた貧農・下層都市生活者の緊急避難という意味合いが強くなり、飢饉のたびに貧しい日本人が外の世界へ溢れ出すという形になった。
ただし、自発的に外の世界へ活路を見出した者たちもいた。
それは山師(鉱山労働者)である。
日本国内の金・銀鉱山の生産が頭打ち・減少へ向かうと彼らは新しい鉱山を探して海をわたることになった。
また、そうした動きを豊臣家も支援した。
何しろ豊臣家は豊かな臣と書いて豊臣家である。豊臣家にとっては金こそ生命線だった。
金配りで朝廷や公家に根回しているから関白位を独占できているのであり、豊富な資金による軍備だけが、他の大大名に対する政治・軍事的な優位を保証した。
代を重ねて歴史を作ったところで、元は尾張中村の百姓であることには変わりなく、あふれんばかりの富こそが豊臣家を豊臣家足らしめていることに変化はなかった。
そのため、山師の海外鉱山探索に豊臣家はできるかぎりの支援金を握らせ、金山発見の暁には多額の報奨金を出した。
なお、99%の山師は現地住民に襲われて死ぬか、嵐で海の藻屑になるか、えたいの知れない熱帯病や寄生虫に侵されて死亡した。
砂金を持ち帰ることができたのは幸運な1%だけだった。
最初に砂金が見つかったのは蝦夷地で、人の手が入っていない辺境だった。
山師集団はヒグマやアイヌ民族といった脅威をはねのけながら蝦夷地の北の果てまで探索し、その先にある樺太が島であることを突き止めた。
ほとんど無人の樺太でも砂金が見つかったことから、人の住んでいない極地にこそ砂金が眠っていると考えた山師は、自然が過酷な豪州や阿羅斯加を目指すことになった。
日本人によるシベリア探索が行われるようになるのも元禄以後の話である。
前述の蔀も山師による探索の過程で見つかった入植好適地だった。
豪州や阿羅斯加はきわめて人口密度が低く、現地人も金の利用価値を知らないことが多かったため、膨大な砂金が見つかり、金鉱山が開かれることになった。
こうした鉱山街には一獲千金目当てで日本から移民が押し寄せ、彼らの腹を満たすために周囲に畑が広がり、鉱山労働者を相手にした商売が始まり、仕入れのために市場がひらかれた。
しばらくすると奉行所がつくられて豊臣家の蔵入地に組み込まれ、さらに人口が増えると皇子か皇女が送られてきて、そこは日本の一部に組み込まれた。
元禄以後、日本では10年に1回は海外植民地でゴールドラッシュが発生し、そのたびに名古屋や大阪の貧民街から流民が1万人単位で移民することになった。
太平洋の各地で金を探して回った山師たちが最後に訪れたのがスペイン人がカリフォルニアと呼んでいた太平洋の果てにある場所だった。
時に1743年のことである。




