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“それ”




 “それ”は旅に出た。旅の途中で出会う人間を何人も取り込んだが同じことだった。“それ”は人間にはなれなかった。


 ある日、山中を歩いていたとき。“それ”は山小屋を見つけた。その慎ましげな扉が開いて、中から水桶を持った老人が出てきた。老人は扉を閉めようとしたが“それ”に気が付くと、目を凝らし何者かが立っているのを見定めようとした。老人の瞳が見開かれたかと思うと、ついには何か恐ろしいものでも見たかのように顔は青ざめた。


「お前は一体、何者なんだ」


 と老人は尋ねた。その言葉に“それ”は激しく震え、素早い動きで老人を包み込むと、みるみるうちに老人の姿になった。しわがれた声が言った。


「お前は一体、何者なんだ」


 答える声はなかった。


 代わりに怯えた声が“それ”に二度目の問いを投げかけた。


「なぜだ。なぜ、お前は彼を殺したのだ」


 開け放たれた扉の奥からそれは聞こえた。小屋には簡素なベッドがあり、病の男が横たわっていた。男は顔を恐ろしさに強張らせていたが、瞳には悲しみの色が浮かんでいた。


「なぜだ、なぜ、彼が死なねばならない? 彼は旅の途中に倒れた僕を開放してくれた。心優しい老人が、なぜ死なねばならなかったのだ」


 なぜだ。


 今までにないほどの痺れが“それ”の体を走り抜けた。なぜだ。その言葉は最も“それ”に相応しいように思われた。“それ”は初めて男に自分の言葉を話した。


「なぜだ。なぜ、人に似つかないのだ。どれほど人を喰い、どれほど人を真似、どれほどの言葉を口にしても、人に似つかないのはなぜだ」


 “それ”は今までのことを男に語った。


 しばらくの沈黙の後男は答えた。


「お前はただ人を喰っているだけだからだ。武勲をたてれば立派な騎士になると思っている盾持ちのように。それだけでは何も得られん。何が己を形作り、誰かの言葉になってゆくのか、わかっていないからだ。お前は僕と同じだ。お前はよく見極めなくてはならない。本当に望むなら僕はお前の手助けをしよう。その代りに一つ僕の願いを聞いてほしい」


 “それ”は初めて己の中に何か熱いものが湧き上がるのを感じた。“それ”は頷いた。


「人は誰しも名を持つものだ。お前にはそれがない。僕はもう長くない。だから、僕の名をお前にやろう。だが、お前が僕になった後は、僕以外になってはいけない。人食いをやめて、僕の旅を終わらせてほしい」


 “それ”は尋ねた。


「その旅はどうすれば終わるのか」


「いつかその時がくるだろう」と男は答えた。


「その時がくればわかるのか」


「きっとわかるだろう」


 男は続けた。


「その時、今までの長い旅路が報われたと知るだろう。僕と心優しい老人のことを悼むだろう。後悔と罪を知るだろう。失われたものと手に入れてきたもののために、悲しみと喜びの涙を流すだろう。そして、自分が何者であったかを知るだろう。その時、お前は全てに満足するだろう」

 

 それが旅の終わりというものだ、と男は言った。“それ”は男の言いうことが一つもわからなかったが、とても大事なことであるように思えた。そして、きっと約束は果たされるだろう、と答えた。


 男はほほ笑んで自分の名を口にした。


「僕の名前はエリック・バーネットだ」


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